第17話 完全手動(フルマニュアル)おじさんは、成長する
空中で身体を捻り、巨蟲の噛みつきを紙一重で回避する。
風圧が、頬を切り裂くような鋭さを帯びて通り過ぎた。
速い。巨体のくせに、動きに無駄がない。
(こいつ……手を抜いてやがったのか!)
さっきまでの鈍重で単調な動きは、ただの演技。
獲物を油断させ、深いところまで誘い込んでから確実に仕留めるための、捕食者の罠。
知能があるなどというレベルではない。性格が悪い。
獲物を絶望させることを楽しむような、悪辣な意志を感じる。
(だが、見えてるぞ……!)
バールを振るう。
超高密度の筋肉に弾かれるが、その反動を利用してさらに跳躍する。
空中での姿勢制御。システム補正があれば自動でやってくれるが、俺は全て自分の筋肉で微調整する。
面倒くさい? いや、これこそが自由だ。
『マスター! 経験値プールの解放を推奨します!』
脳内に響くナビ子の切迫した声。
口元が自然と吊り上がる。
「ああ、分かってるよ。……残ってる分、全部ぶち込め!」
『了解! 経験値吸収……開始します!』
身体の内側から、爆発的な熱量が溢れ出した。
道中のオークなどの雑魚敵、そして保留していたクイーンの膨大な経験値。
それらが一気に「レベル」という数値に変換され、肉体を作り変えていく。
『レベルアップを確認! Lv.252 → Lv.313!!』
視界がクリアになる。
筋肉が唸りを上げ、細胞の一つ一つが活性化していくのが分かる。
世界が、少しだけ遅く見える。
一気に61レベルの上昇。身体能力が桁違いに跳ね上がった感覚。
「ははっ、すげぇな! ドーピングみてぇだ!」
着地と同時に地面を蹴る。
速い。さっきまでの自分の感覚を置き去りにする加速。
制御しきれないほどの力が、地面を陥没させ、体を砲弾のように射出する。
『角度補正! 右足、踏み込みが深すぎます!』
即座にナビ子のサポートが入る。
視界に表示されるのは、瓦礫の中で「踏める」数カ所のポイントのみ。
指示はない。強制力のあるガイドラインもない。
ただ、今の脚力と速度で、最も効率よく加速できる「足場」を、無数の瓦礫の中から瞬時にピックアップしてくれている。
これだ。
俺の「選択」と、ナビ子の「解析」。
システムに操られるのではなく、システムを使いこなす。
二つが噛み合った今、この領域において俺たちは最強だ。
肉塊の懐に潜り込み、黒鉄のバールを叩き込む。
強靭なゴムような塊を、衝撃が貫通する感触。
手応えあり。通じるぞ!
『警告! 敵性個体のエネルギー反応増大! 推定レベル420相当! 依然としてステータス差は絶望的です!』
「うるせぇ! 足りない分は技術で埋めるんだよ!」
長虫が尾を薙ぎ払う。
バールを盾にしつつ、衝撃を後ろに流して受け流す。
重い。
だが、耐えられる。
そこからは、死の舞踏だった。
ナビ子が完璧な演算で敵の軌道を予測し、視界にガイドラインを表示する。
そのラインをなぞるように、あるいはあえて無視して裏をかきながら、巨体と渡り合う。
――いける。
このままなら、時間はかかるが削り切れる。
そう確信した、その時だった。
捕食者の動きが止まる。
攻撃の手を休め、虚空の一点をじっと見つめるような、奇妙な静止。
その視線の先には、何もない。
俺ですらない。
『……マスター』
ナビ子の声に、ノイズが混じる。
『視線を、感じます。私を……見ている?』
「は? お前を? どういうことだ」
嫌な予感を振り払うように、地面を蹴った。
奴が何を考えていようが、動きが止まった今が好機だ。ここを叩く。
だが、踏み込んだ瞬間だった。
ガクン、と膝の力が抜ける。
思考と身体の連携に、致命的なラグが生じた。
――限界か。
朝から続く探索、連戦による疲弊、そして格上との死闘。
レベルアップによる高揚感で誤魔化していたが、肉体の疲労はとっくにピークを超えていたのだ。
「なっ――!?」
足がもつれ、無様に地面を転がる。
視界が回転し、目の前に異形の巨大な顎門が迫る。
(終わっ――)
死を覚悟し、身を強張らせた。
だが、痛みは来ない。
巨蟲は、眼下に転がる俺など眼中にないと言わんばかりに、その頭上――虚空へと大口を開けていた。
物理的な噛みつきではない。
空間そのものを、根こそぎ吸い込もうとするような、不気味な胎動。
『警告……接続維持、困難……!』
ナビ子の声が、ノイズに埋もれていく。
視界のUIが、ガラス細工のように砕け散る。
体力バーも、予測線も、マップも。
『マスター、短い間でしたが……ありがとうございました』
「おい、待て! 何言ってやがる!」
『マスターなら、こんなゴミムシ……倒せますよ、絶対』
そして、ナビ子のホログラムまでもが、バラバラに崩壊。
光の粒子となったそれらが、捕食者の口へと吸い込まれていく。
「おい、ナビ子!?」
手を伸ばす。
だが、指先は虚空を掻くだけ。
彼女はデータ。実体などない。
なのに、その光が消えていく光景は、あまりにも鮮烈な「死」として網膜に焼き付いた。
最後にノイズ混じりの断末魔を残し、全ての表示が消滅する。
残されたのは、暗闇と、巨大な怪物の息遣いだけ。
音が、消えた。
システム音が消え、ガイドラインが消え、世界から色が失われた。
三年前のあの日と同じ。
ただの無力な、独りぼっちの暗闇。
「…………」
呆然と虚空を見つめる。
理解が追いつかない。
食われた?
システムごと?
そんな馬鹿なことがあってたまるか。
だが、静寂が答えだった。
あの騒がしい警告音も、生意気な相棒の声も、もう聞こえない。
(また、守れなかったのか……?)
脳裏をよぎる、先輩の最期。
丸のみにされた姿。
俺の無力さが、また誰かを殺したのか。
――重量感のある音が響く。
捕食者が勝ち誇ったように、尻尾を地面に叩きつけたのだ。
一番厄介な「目」を潰した。あとはこの無力な肉塊を処理するだけだ。
そう言わんばかりの、余裕に満ちた捕食者の振る舞い。
その瞬間、俺の中で何かが切れた。
「……お前さぁ」
ゆらりと立ち上がる。
バールを握る手に、指がめり込むほどの力が籠もる。
「ほんっとぉに空気読めないんだな?」
レベル420相当? ステータス差が絶望的?
そんな冷酷な論理ってやつは、怒りの業火で焼き尽くされたよ。
「ゴミムシに言っても分かんねぇかもしんねぇけどさ……俺とお前の勝負だろ?」
脳裏に、あの生意気な相棒の声が蘇る。
あいつが来てからというもの、ろくなことがなかった。
仕事終わりの楽しみだったビールも飲めないほどトラブルが起きるし、休日だってのに、何かと理由をつけてダンジョンへ行かされる。
人の機微なんて欠片も理解しない、やたら冷徹な表現したりするからついついイライラしてしまう。
かと思えば、妙に人間っぽいリアクションをしてきたりもする。
出会って数日。
そのほとんどが、そんな騒がしくて、腹の立つやり取りばかりだった。
「アイツにはさ、休日出勤ばっかさせられてウザイなとか、正直思ってたよ。……でもな」
モノクロだった世界に、絵の具をぶちまけられたような気分だった。
先輩を失ってからの三年間。
来る日も来る日も、スライムを殺して回るだけの灰色のルーティン。
そんな空虚な繰り返しで、感情なんてとっくの昔にすり減って消えたと思っていた。
それが、どうだ。
ナビ子が現れてからの数日は、目が回るほど鮮やかすぎた。
復讐という名の、焦げるような目的意識。
昨日より今日、今日より明日と、確実に肉体が作り変えられていく高揚感。
そして、命のやり取りの中でしか味わえない、あのヒリつくような探索の熱。
全部、あいつが強引にこじ開けて、俺の中にねじ込んできたんだ。
バールを構える。
その先端が、魔蟲の眉間――推定される急所を、正確に捉えた。
「これは違うだろ」
思考が冷え込んでいく。
感情が沸騰する一方で、意識は氷点下まで沈殿していく奇妙な感覚。
UIはない。
敵のステータスも見えない。
弱点を示すマーカーもない。
それがどうした。
元々、俺は十年間、この世界で完全手動を貫いてきたんだ。
システムに頼らず、補正を切り捨て、自分の感覚だけを研ぎ澄ませてきた日々。
来る日も来る日も、泥臭くバールを振るい続けた、あの無謀と言われた時間。
あれは、ただの縛りプレイなんかじゃなかった。
お前みたいな理不尽な原種を、殺すための準備期間だったんだ。
俺は地面を蹴り飛ばした。
爆発的な加速。
巨躯が迎撃態勢を取るよりも速く、懐へと飛び込む。
思考はいらない。
目は必要ない。
殺気を感じ、風を読み、筋肉の収縮だけで最適解を弾き出す。
スライムの核は、粘液の中で不規則に動き回る。
それを視覚補正なしで、鉄パイプの一撃で貫く。
三十万回繰り返したらしい、その作業は、不規則に動く「急所」を捉えるための訓練そのものだったんだよ。
視界の中で、肉塊の巨体が揺らぐ。
その巨大なシルエットに、半透明のスライムの映像がダブって見えた。
不規則に蠢く急所。
予測不能な軌道。
だが、今の俺には「線」が見える。
いつか遭遇するはずの「お前」を、どう殺すか。
それだけを考え続け、積み重ねた無限のリハーサル。
ただそれだけを思考の核に据え、俺は殺害リハーサルの続きを――本番を開始した。
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