第15話 完全手動(フルマニュアル)おじさんは、間が悪い
「……遅くなってすみません。もう、大丈夫です」
言葉に紡ぐことで、ようやく現実感が質量を持って迫ってくる。
腕の中に感じる、生身の人間の重みと温もり。
翔太君の小さな寝息。沙織さんの涙が、服を濡らす湿り気。
助けられた。今度は、間に合ったのだ。
だが、感傷に浸る時間は与えられない。
『警告! 亜空間崩壊まで、残り三十秒! この空間は間もなく、物理的に圧潰します!』
ナビ子の焦燥した警告。
背後では、巨蟲が赤黒い光を放ちながら膨張を始めていた。
この閉じた世界ごと、俺たちを消滅させるつもりだ。
「くそっ、脱出するぞ!」
二人を抱え、全速力で駆ける。
目指すは、俺が抉じ開けた空間の裂け目。
崩れゆく紫色の虚無の中、唯一の希望の光が漏れている場所。
「ギィシャアアアアアアッ!!」
背後から、断末魔のような絶叫と、空間が軋む音が迫る。
振り返らない。
ただ前だけを見て、筋肉が断裂するのも構わず地面を蹴る。
あと十メートル。五メートル。
裂け目の向こうに、見慣れた地下空間の岩肌が見える。
「とべえええええええッ!!」
裂け目に飛び込むのと、背後の空間が爆縮して消滅したのは同時だった。
◇
硬い岩肌に背中を打ち付ける。
土煙が舞う中、俺は二人を抱えたまま、かつて女王蟻がいた玉座の間に転がり込んだ。
「……はぁ、はぁ……」
心臓が早鐘を打っている。
間一髪。あとコンマ一秒遅れていたら、俺たちは永遠の虚無に飲み込まれていた。
「……湊、さん……?」
腕の中で、猪狩沙織さんが俺を見上げる。
その瞳には恐怖と混乱、そして安堵が混ざり合っていた。
「大丈夫ですか? 怪我は……」
「は、はい……翔太も、無事です」
よかった。
安堵の息を吐こうとした、その時だった。
ズズズズズ……。
地響きと共に、地面が隆起する。
目の前の空間がねじれ、赤黒い巨体がズルリと這い出してきた。
「しつこいな、テメェは……!」
境界を蝕む魔蟲だ。
亜空間と共に自爆したかと思われたが、奴もまた、寸前でこちら側の空間へ脱出していたらしい。
だが、その姿は異様だった。
バールで裂かれた腹部の傷。そこから無数の赤い繊維が触手のように伸び、互いを貪るように絡み合い、傷口を強引に縫い合わせていく。
逆再生を見ているかのような、異常な修復速度。
(チッ、やっぱり回復が早いな……!)
モンスター特有の生命力。
それに加えて、こいつは『人民を支配し蟻の女王』を喰っている。そのエネルギー量は計り知れない。
傷口が塞がるのと同時に、異形の巨体が再び鎌首をもたげる。
「二人は下がっててください。まだ終わってません」
二人を背に庇い、再びバールを構える。
魔蟲の複眼が、ギョロリとこちらを見下ろしている。
巨大な顎が開き、紫色の消化液が噴出される。
俺はバールを一閃させ、飛来する液体の塊を弾き飛ばす。
重いが、それだけだ。
速度も、威力も、想像の範疇を超えていない。
「……なんだ。図体がデカくなっただけで、中身は大したことねぇな」
冷ややかに言い放つ。
確かに再生能力は厄介だ。だが、動きは鈍重で、攻撃も単調。
これなら、二人を守りながらでも十分に立ち回れる。
所詮は、空間を食うという特殊能力だけの出落ちモンスターか。
そう高を括りかけた、その時。
捕食者が、嗤ったように見えた。
鎌首をもたげたまま、小刻みに震え始める。
突如、空気が歪む。
放たれたのは、可聴域を超えた高周波。
鼓膜ではない。脳髄を直接掻き回されるような不快な振動。
平衡感覚が狂い、視界が揺らぐ。
「ぐっ……」
俺には、ただの不愉快なノイズにすぎない。
魔力回路を全開にして脳を守れば、どうということはない攻撃だ。
しかし、背後の二人は違った。
「……あ……いや……」
「……うぅ……頭が……」
沙織さんが頭を抱え、苦悶の声を漏らす。
その瞳が、激しく揺れていた。
何かに必死で抗っている。だが、見えない黒いインクが彼女の意識を塗りつぶしていくように、理性の光が急速に失われていく。
「沙織さん!? 翔太君!?」
俺の呼びかけに、沙織さんが顔を上げる。
その表情から、苦痛の色が消えていた。
感情そのものが、消えていた。
虚ろな目。
焦点が合っていない、ガラス玉のような瞳。
まるで糸の切れた人形のように、ゆらりと立ち上がった。
「沙織さん? 翔太君?」
呼びかけに、答えはない。
二人は無言のまま、俺に向かって手を伸ばしてきた。
その指先には、明確な敵意が宿っている。
「ッ! クイーンの能力か!」
精神支配。
あの女王蟻が得意としていた、フェロモンと音波による強制洗脳だ。
こいつ、捕食した相手の能力まで再現できるのか。しかも、オリジナルよりも出力が高い。
「やめてください! 湊です!」
叫ぶが、声は届かない。
無理もない。あの黄金級上位の舟木さんですら、以前この能力には抵抗できなかったのだ。一般人の二人が耐えられるはずがない。
沙織さんが瓦礫を掴んで振り上げ、翔太君が俺の足に噛み付こうとする。
一般人の攻撃など、今の俺にはそよ風にも満たない。
放っておいてもダメージはない。
だが、反撃などできるはずがない。
少しでも力を込めれば、二人の骨など簡単に砕けてしまう。
「くそっ!」
振り下ろされた瓦礫を素手で受け止め、沙織さんの手首を掴む。
柔道の要領で、重力に逆らわず、優しく地面に制圧する。
骨を折らず、筋肉も傷つけず、ただ動きだけを封じる。
針の穴を通すような、神経を削る作業だ。
だが、二人は獣のように暴れ続ける。
さらに、好機と見た長虫が触手を伸ばしてくる。
二人を傷つけないように庇いながら、触手をバールで叩き落とす。
「卑怯な真似しやがって……!」
物理的な強さじゃない。
こいつは、どこまでも陰湿で、嫌らしい。
俺が一番嫌がることを、的確に突いてくる。
(マズいな……このままだと……)
ジリ貧だ。
守りながら戦うには、手数が足りない。
その時。
「湊さんッ!!」
女王の塒に、一人の影が飛び込んできた。
今日、この場所で女王蟻を狩ったパートナー、舟木さんだ。
黒を基調とした戦闘服に、要所を守る軽量化された和風のプロテクター。手には打刀が握られている。
凛としたその姿は、絶望的な戦場に差し込んだ一筋の光のよう。
完全武装した彼女は、瞬時に状況を把握すべく鋭い視線を巡らせる。
救援。
それも、最強の。
本来なら、これほど心強い味方はいない。
彼女がいれば、巨躯の注意を引きつけている間に二人を拘束できるかもしれない。
しかし。
背筋を走ったのは、歓喜ではなく戦慄。
「近づくな!! 舟木さんッ!!」
叫ぶ。
「精神支配」を使う相手に、システム依存の彼女が近づくのは、火薬を抱えて火の中に飛び込むようなものだ。
「こいつ、精神支配を使って――」
警告は、届かなかった。
いや、届いていたとしても、遅かった。
捕食者の複眼が、ギョロリと舟木さんを捉える。
再び、脳を焼くような高周波が空間を歪める。
今度は、舟木さん一人に焦点を絞った、収束型の音波だ。
「うッ……あぁ……!」
舟木さんがその場に膝をついた。
頭を抱え、苦悶の声を漏らす。
彼女は黄金級の上位探索者だ。精神耐性のスキルも高レベルで持っているし、高価な対魔装備で対策もしているはずだ。
実際、以前のクイーン戦では、不完全とはいえ一度は抵抗してみせた。
だから今回も、数秒くらいなら耐えられるはず――。
そんな俺の希望的観測は、最悪の形で裏切られる。
「……」
黒髪のポニーテールを揺らし、顔が上がる。
その美しい瞳からは、完全に理性の光が消え失せていた。
あるのは、冷徹な殺意のみ。
そして、抜き放たれた日本刀の切っ先が、迷いなく俺に向けられる。
「……排除、シマス」
冷たい機械のような声。
次の瞬間、彼女の姿が掻き消える。
速い。
沙織さんたちとは次元が違う。
プロの探索者、それもトップクラスの神速。
瞬きする間に間合いを詰め、不可視の斬撃が俺の首を薙ぐ。
不快な金属音が、亜空間に響き渡る。
バールでその一撃を受け止めてる。
重い。
手首が痺れるほどの衝撃が、骨を伝わって脳を揺らす。
本気だ。
手加減も躊躇もない、必殺の剣。
「クソッ、クイーン戦のときよりも攻撃が鋭い!」
先日戦った女王蟻は、思ったよりも脆かった。
近衛兵がいなかったのも、女王自身のステータスが低かったのも、すべてはこのワームが裏で干渉していたからだとしたら。
そして今、その「本来のスペック」で舟木さんを操っているとしたら。
あの時、彼女は精神支配に抗いながら戦っていた。無意識のうちに、俺への攻撃を躊躇ってくれていたのだ。
だが今は違う。
完全に支配された彼女の動きは、人間というより精密機械に近い。
黄金級上位の本気。その脅威を、肌で思い知らされる。
「……厄介だな」
目の前には、完全な殺意を持った、格上である黄金級上位の剣士。
背後には、操られた母子。
そして奥には、ほくそ笑むように鎌首をもたげる巨大ワーム。
最悪の状況だ。
詰んでいる、と言ってもいい。
だが、不思議と笑みがこぼれた。
バール越しに、舟木さんと目が合う。
虚ろな瞳の奥。
そこから、一筋の涙が流れていた。
――ごめんなさい。
声なき声が、聞こえた気がした。
脳裏に、クイーン戦の記憶が蘇る。
クイーンの精神支配に抗えず、絶望の中で彼女が漏らした『私を殺してください』という悲痛な願い。
きっと、今も必死に抵抗しているはずだ。
それなのにーー
「おい、クソ虫、笑ってんじゃねぇ」
俺はバールを押し返し、距離を取る。
二人を背後に隠し、バールを構え直す。
「上等だよ。全員傷つけずに、お前だけをぶっ飛ばしてやる」
殺さず、制圧する。
相手は格上の剣聖と、守るべき一般人。
完全手動で生きてきた十年の、全てを懸けた「接待プレイ」の始まりだ。
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