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第14話 完全手動(フルマニュアル)おじさんは、脳筋である

「……座標が、ズレて……いえ、これは……」


 ナビ子の声は震えていた。

 視界に表示されるウィンドウには『ERROR』の文字が点滅している。

 演算ミス。

 それは、AIにとって存在意義を揺るがす致命的な失態。

 ましてや、そのミスがマスターの大切な人の死に直結するとあれば、彼女の精神回路が焼き切れても不思議ではなかった。


 だが。


「まだ諦めるなッ!!」


 一喝が、パニックを切り裂く。


「ダンジョンに戻って原種が格上になったせいで解析がバグったんだろ! なら、機械に頼らなきゃいいだけだ!」

『え……?』

「お前が言ったんだろ。『自律進化』を遂げた俺を、ダンジョンは排除したがってるってな」

『っ……!』

「だったら、話は早い。奴がダンジョン内で格上になるなら、尚更だ」


 暗闇を見据え、目をぎらつかせる。


「確実に俺を殺すため、奴は必ず俺の近くに潜んでいるはずだ。この辺りで、お前が探索できない空間はあるか? こうなったら総当たりだ!」


 それは奇しくも、セキュリティ用語で「総当たり攻撃ブルートフォースアタック」と呼ばれるものだった。

 理論的な解が見つからないなら、全ての可能性を片っ端から物理的に叩いて試行する。

 最も原始的で、最も非効率で――そして、システムが最も苦手とする「計算外の暴力」。


 迷いはない。

 十年間、システムに頼らず、自分の目と耳と直感だけで生き抜いてきた自負が、この背中を支えている。

 その熱量に当てられ、ナビ子の思考が再起動した。


『は、はい! ……三箇所あります! 空間歪曲率が異常に高いポイントが!』

「全部ぶち抜くぞ!!」


 即座に動き出す。

 残り時間、四十秒。

 迷っている暇など、刹那たりともない。


 一箇所目。

 岩壁の裂け目に、黒鉄のバールをねじ込む。

 瞬間、裂け目から不可視の刃が噴出した。


「グッ!?」

『空間断裂による気圧差の暴風カマイタチです! 奴が空間を食い破った影響でーー』


 頬が裂け、肩の肉が抉られる。

 意図的な攻撃ではない。単なる環境災害だ。

 だが、止まる理由にはならない。

 魔力を流して強制的に岩盤を爆破する。

 崩れ落ちた岩の向こうには――ただの行き止まり。


「ハズレかよッ! 次ッ!!」


 血を拭うこともせず、次なるポイントへ。

 残り、二十五秒。


 二箇所目。

 天井付近に空いた不自然な空洞。

 跳躍し、その内部へ飛び込んだ瞬間、天地が逆転した。


「うおッ!?」

『座標定義のエラーです! 喰われた空間の上下左右がデタラメに再接続されています!』


 天井へと叩きつけられる強烈なG。

 ワームの「食い残し」による影響だ。

 三半規管が悲鳴を上げ、吐き気がこみ上げる。

 普通の探索者なら、このまま平衡感覚を失って落下死していただろう。

 だが、空中で強引に体を捻り、魔力放出の反動を使って天井・・に着地する。

 そのまま重力に逆らって駆け抜け、奥を確認する。

 ……広がっていたのは、地底湖の水面だけ。


「ここも違う! クソッ、どこだ!!」


 残り、八秒。

 焦燥が喉を焼く。

 心臓が早鐘を打ち、肋骨がきしむ。

 三箇所目は、ここから百メートル先。

 黄金級(ゴールド)の身体能力ならば、造作もない距離だ。

 だが、今の俺にとっては永遠にも等しい長さに感じられた。


「うおおおおおおおおおッ!!」


 全身の魔力回路をオーバーロードさせる。

 筋肉繊維が断裂する音を聞きながら、床を蹴り砕いて加速する。

 視界が流線となり、音さえも置き去りにする。


 残り、六秒。

 目の前に、最後の「歪み」が見えた。

 空間そのものが捻じれたような、異質な気配。


「そこかああああああッ!!」


 減速はしない。弾丸となってその「歪み」へ突っ込む。

 右拳に全魔力を集中。

 物理的な壁ではなく、空間の壁そのものを殴りつける。


 世界が裏返るような酷い目眩。物理法則がねじ切れる音がした。

 不可視の障壁が薄氷のごとく砕け散り、世界が反転する。


 そこは、異質な空間だった。

 壁も天井もなく、ただ毒々しい紫色のもやが漂う虚無の空間。

 重力すら曖昧で、かつてワームに喰われたであろう探索者たちの装備品や瓦礫が、墓標のように浮遊している。


 その中心に、それはいた。


 境界を蝕む魔蟲きょうかいをむしばむまむし

 全長三十メートルを超える、悪夢のような巨体。

 とぐろを巻き、消化の微睡(まどろ)みの中にいる怪物が、侵入者に気づいて鎌首をもたげる。


『いました! ですが……!』


 ナビ子の悲鳴が響く。


『……ダメです! 原種の干渉により解析不能エラー……体内のどこに二人がいるか特定できません! ここから攻撃すれば、二人を巻き添えにする可能性が……!!』


 それは、AIが導き出した回避不能な絶望。

 万策尽きたかのような宣告。


 俺は走りながら、心底不思議そうに眉をひそめる。


「……は? 何言ってんだ、お前」


 残り、三秒。

 黒鉄のバールを構え、さらに加速する。


『え……? でも、二人の位置が分からないと……』

「忘れたのか。俺はずっと完全手動(フルマニュアル)でやってきてんだよ」


 視界には、何も映っていない。

 システムの補助線も、弱点マーカーも、敵の体力ゲージも。

 ただ、生々しい怪物の姿があるだけだ。

 視覚情報は役に立たない。

 ならば、聴覚だ。


 意識を極限まで集中させる。

 怪物の体内から聞こえる、消化液の流れる音、筋肉の軋む音、臓器の脈動音。

 その轟音のような生体ノイズの奥底に、耳を澄ます。


 ドクン……ドクン……。


 あった。

 微弱だが、確かに生きている鼓動。

 二つの小さな心音が、互いに寄り添うように響いている。

 かつて救えなかった先輩の鼓動を、俺の耳は忘れていない。

 だからこそ、聴こえる。


「二人の位置なんて、このゴミムシを見た瞬間に分かってんだよ!」


 残り、一秒。

 ワームが口を開き、迎撃の体勢を取る。

 遅い。

 今の俺には、止まって見える。


 跳ぶ。

 ワームの口腔から放たれた消化液の散弾を、空中の瓦礫を蹴って回避する。

 巨体の懐へ潜り込み、バールを振りかぶる。

 狙うは腹部、第三節の右側。

 そこから、最も強く鼓動が響いている。


「返してもらうぞ、猪狩先輩の……大事な人をッ!!」


 残り、ゼロ秒。


 閃光。

 魔力を極限まで纏わせたバールの一撃が、ワームの分厚い脂肪と筋肉を切り裂いた。


 裂け目から、大量の粘液と共に何かが吐き出された。

 青白い光の球体。

 それは地面のない空間を落下し――空中で抱き止める。


 光が粒子となって霧散する。

 腕の中には、粘液まみれになりながらも、互いに抱き合ったままの沙織さんと翔太君がいた。


「……ぁ……」


 沙織さんが薄く目を開ける。

 その腕の中には、気絶している翔太君がしっかりと抱きしめられていた。

 結界の残り時間はゼロ。

 二人の身体には傷一つない。


「間に、合った……」


 全身から力が抜けていく。

 三年前の後悔が、ようやく報われた気がした。


 ――しかし。

 物語は、ハッピーエンドでは終わらせてくれない。


「ギィシャアアアアアアアアアッ!!!」


 鼓膜をつんざく絶叫が、亜空間を震わせた。

 腹を切り裂かれたワームが、苦痛と怒りで発狂している。

 傷口から紫色の体液を撒き散らしながら、その巨体が赤黒く変色していく。


『警告! 原種ワームの暴走を確認! 体内の魔力炉が臨界点を超えようとしています!』

「自爆する気か……ッ!?」

『いえ、この空間ごと私たちを圧殺するつもりです! 亜空間の崩壊が始まります!』


 足場のない不安定な空間で、二人の守るべき人間を抱え、発狂した怪物と対峙する。


「……上等だよ」


 二人を背後に隠し、バールを構え直す。

 守るものが背中にある時、男は一番強くなれる。


 三年前。

 何もできずに立ち尽くした、あの日の絶望。

 それが今、ようやく、報われた気がした。

 しかし、脅威はまだ去っていない。

 クソ虫は殺し尽くさねば。


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