第10話 完全手動(フルマニュアル)おじさんは、蟻退治をする
翌日のダンジョン探索は、不気味なほどスムーズだった。
マニュアル操作でヘイトを管理し、雑魚を引きつける。
そこに、舟木葵の魔法が突き刺さる。あるいは、刃が閃く。
互いの役割がカチリと噛み合う。
パズルのピースがハマるような快感。
最適化された狩りは、もはや作業に近い。
だからこそ、最奥の扉を開けるまでは、完全に油断していた。
『個体名解析完了。黄金級中位相当、原種個体――『人民を支配し蟻の女王』です』
ナビ子の無機質な声が脳内に響く。
薄暗い大空洞の中央。
脈打つ肉塊のような玉座に、その怪物は鎮座していた。
肥大化した腹部を引きずり、上半身は人間への擬態を諦めたように歪な外骨格に覆われている。
周囲を固めるのは、無数の兵隊蟻。
昨日戦った近衛兵の姿は、一匹も見当たらない。
「……『人民を支配』だと?」
バールを肩に担ぎ直し、鼻を鳴らす。
「アリの分際で生意気な名前だな。お前が支配してんのは、たかが虫ケラだろうが」
挑発が通じたのか、クイーンの複眼がぎろりと動く。
無数の瞳に、俺たちの姿が複写され、映り込む。
戦闘の火蓋は、唐突に切って落とされた。
兵隊蟻が殺到する。
攻撃予測線なんて便利なモノはない。
敵の動きだけを見てバールを振るう。
数は多い。だが、昨日の戦いでレベルが跳ね上がった肉体には、連中の動きが止まって見える。
最小限の動きで顎をかわし、すれ違いざまに、甲殻の隙間を叩き割る。
「舟木さんは、右翼を!」
「はい!」
短い呼応。
直後、死角を突こうとした兵隊蟻が、不可視の刃によって両断される。風魔法による斬撃。
速い。そして正確だ。
昨日の今日で、彼女は連携の呼吸を完全に掴んでいた。
順調に進む戦闘。
だが、第六感が何かがおかしいと警鐘を鳴らす。
(……数が、少ない?)
昨日、かなりの数を減らしたとはいえ、女王の間にしては防衛線が薄い。
女王自体の動きもどこか鈍い。まるで、何かに怯えているような――。
「湊さん、道が開きました!」
舟木の凛とした声が思考を引き戻す。
兵隊蟻の壁が崩れ、玉座への直線ルートが出来上がっていた。
罠か? いや、迷っている暇はない。
「ああ、一気に決めるぞ!」
地を蹴る。
あと十歩。バールの間合いに入る。
その時だった。
――キィィィィン。
耳鳴りではない。
脳髄を直接ヤスリで削られるような、不快な高周波。
クイーンが長い触角を震わせ、口腔から不可視の波動を吐き出していた。
『――平伏セヨ――』
システムログに、赤字で強制命令が流れる。
視界がぐにゃりと歪む。
脳の奥に冷たい指を突っ込まれ、かき回されるような感覚。
手足の自由が奪われ、強制的に地面へ縫い付けられそうになる。
「……ッ、の野郎!」
歯を食いしばり、体内の魔力回路を強引に回転させる。
血液と同じように、魔力を全身にポンプする。システムが脳に送り込んでくる電気信号を、物理的な魔力の奔流で洗い流すイメージ。
ドクン、と心臓が強く跳ね、視界がクリアになる。
やはり、効かない。システムから独立しているおかげで、状態異常の判定も穴だらけだ。
「舟木さん、今のうちに!」
隣を走る相棒に声をかけ――息を呑む。
舟木が、止まっていた。
うつろな瞳で、ふらりと膝をつく。
「……あ、れ……?」
「舟木さん!?」
好機と見たクイーンが、残った兵隊蟻をけしかける。
鋭利な顎が、無防備な彼女の首を刈り取ろうと迫る。
思考より先に体が動く。間に割り込み、バールを盾にする。
重い衝撃が腕に走る。
「おい、しっかりしろ! 何された!」
背後の彼女に怒声を浴びせる。だが、返ってきたのは弱々しい謝罪だった。
「……すみません、足手まといに……」
意識はあるようだが、体が言うことを聞かないのか。
「今はそんなこと言ってる場合か!」
二匹目の攻撃を弾く。三匹目が横から来る。
ジリ貧だ。一旦引いて立て直すしかない。
「チッ、精神干渉か。『人民を支配』ってのはこういうことかよ……クソッ!」
悪態をつき、彼女を担いで一旦引くことを判断する。
抱え上げようと背を向けた。
無防備な背中を、彼女に晒した、その時。
鈍い音。
次いで、脇腹に灼熱が走る。
「……え?」
見下ろす。
脇腹――ダンジョン産素材で編み込まれた作業つなぎの、わずかなほころびに、深々と短刀が突き刺さっていた。
柄を握っているのは、白く細い手。
「……あ、あぁ……」
茶色の瞳が揺れている。
涙を浮かべ、絶望に染まった顔。
けれど、その手は熟練の剣士らしく、冷徹かつ正確に刃を捩じ込んできた。
「ぐっ……!」
激痛。脂汗が噴き出る。
彼女を突き飛ばし、どうにか距離を取る。
よろりと立ち上がった黄金級上位の探索者が、ゆらりと構えを取る。
隙がない。
支配され、衝撃を受けている意識とは裏腹に、肉体は殺人マシーンとして完成されている。
「逃げて……ください……! 命令に、逆らえない……!」
悲痛な叫びと共に、彼女が踏み込んでくる。
速すぎる。
Lv.323の剣聖。本来のスペックなら、Lv.252の俺より格上だ。
殺意の奔流。
バールで弾いた剣先が、頬を裂き、耳朶を削ぎ落としかける。
速い。これが黄金級上位の速度。
システム補正のない動体視力では、残像を追うのが精一杯だ。
「クソッ、昨日の勲章があれば……!」
後悔が脳裏をよぎる。
昨日のレアボスが落とした『女王の近衛兵勲章』。精神耐性を付与するあれを渡していれば、こんなことにはならなかった。
経験値欲しさにドロップさせなかった自分の浅ましさが、脇腹の傷より痛い。
「魔力を脳に回して弾くんだ! 違和感があるだろ! それをイメージで遮断しろ!」
切っ先をバールで逸らしながら叫ぶ。
「っ……! こんな時に、わけのわからないこと言わないでください……!」
舟木の剣閃が頬をかすめる。
焦点の合わない瞳から、大粒の涙が溢れ続ける。
嗚咽を漏らしながら、彼女は正確無比に心臓を穿とうとしてくる。
「俺は本気だ!」
「……っ、殺してください! 私ごと、やってください!」
黒髪のポニーテールを揺らしながら叫ぶ声が、洞窟に響く。
唇を噛み締める。
物理で解決できると思っていた驕り。そのツケが、最悪の形で回ってきた。
真正面からやり合えば、彼女を殺すか、俺が死ぬか。
あるいは――。
「……チッ」
大きく舌打ちをする。
そして、彼女に背を向けて走り出した。
「……え?」
呆然とした声が、背後に遠ざかる。
◇
(よかった、逃げてくれた……)
遠ざかっていく湊の背中を見送り、舟木は安堵と絶望を同時に飲み込んだ。
体は、もう自分の意志では動かない。
クイーンが触角を激しく震わせる。
『追エー! 殺セー!』
脳内に直接響く命令。
足が勝手に動き出そうとする。けれど、舟木は奥歯が砕けるほど噛み締め、その場に踏みとどまる。
(行かせない……!)
それだけが、彼女に残された最後の抵抗。
言うことを聞かない「人形」に苛立ったのか、クイーンが自ら動いた。
巨大な顎を開き、迫ってくる。
逃げることも、剣を上げることもできない。
(あぁ……私、ここで死ぬんだ)
不思議と恐怖は薄かった。
走馬灯のように、記憶の断片が浮かんでは消える。
山梨の実家。武田信玄公に仕えた武家の末裔としての誇り。
幼い頃から叩き込まれた武田流の厳しい稽古。竹刀が打ち合う乾いた音。
「女だてらに」と陰口を叩く門下生たち。
それを見返したくて、誰よりも強くなった。
東京の大学に進み、自由を得たはずだった。けれど、ダンジョンという新たな戦場でも、結局は「強さ」だけが彼女の価値になった。
親から送られてくる見合い写真の男たちは、皆、彼女の経歴を知ると腰が引けていた。
――私より強い男でなければ、認めない。
そう言い続けて、誰にもなびかなかった。
もちろん、高ランク探索者の中には私より強い男性もいた。けれど、彼らは力に溺れ、我儘で、他人を見下すような者ばかりだった。
強さと人格は比例しない。むしろ反比例していく同業者たちの現実に、私はとっくに幻滅していた。
理想の王子様なんて、どこにもいなかった。
(湊さんは、弱かったけど……)
ふと、あの中年男性の顔が浮かぶ。
ここ3年間は、毎日スライム素材を持ち込んでくる変人。
「そんなこと言えるの湊さんだけですよ」と呆れながら、実は心地よかった。
黄金級に到達する才がありながらも、パートナーを失ったことで本気の探索を諦めた人。
完全手動でずっとやってきたと聞いたときは、正直ドン引きした。
けれど、背中を預けているときの、あの不思議な安心感はなんだったのだろう。
初めて、強さとか家柄とか関係なく、ただの「舟木さん」として隣にいさせてくれた。
(……最期に迷惑かけちゃったな)
あの人の心に、また一つ傷を増やしてしまった。
完全手動でここまで生き残れる、異質の才を持つ人なのに。
ああ見えて優しい人だから、ただの顔見知りである私が死んだだけでも、きっとショックを受けてしまうだろうな。
ごめんなさい湊さん。
クイーンの顎が、目の前まで迫る。
死の匂い。
けれど、舟木は目を逸らさなかった。
モンスターごときに屈してたまるか。最期まで睨みつけ、その醜い顔を目に焼き付けてやる。
彼女の視界いっぱいに、怪物の口内が広がり――。
風切り音。
直後、硬質な何かが砕け散る音が重なった。
舟木に降り注いだのは、自身の血ではなく、青黒い体液の雨だった。
目の前のクイーンの頭部が、まるで内側から爆発したかのように粉砕されている。
「……え?」
崩れ落ちる巨体。
その背上に、湯気の立つバールを振り抜いた姿勢の男が立っていた。
返り血で頬を汚し、つまらなそうに眼下の死骸を見下ろしている。
「……ふぅ。思ったより柔らかいな」
湊だった。
逃げたはずの彼が、いつの間にかクイーンの背後に回り込み、致命の一撃を叩き込んでいたのだ。
絶体絶命のピンチに現れたヒーロー。
自分より「格下」だと思っていた男の、圧倒的な一撃。
ドクン。
心臓が、これまでとは違うリズムで高鳴った。
熱が、首筋から頬へと一気に駆け上がる。
(……いやいやいや! これは吊り橋効果的な! そういうあれだから!)
ブンブンと首を振る。
システムによる洗脳は、クイーンの死と共に霧散していたが、別の意味で頭が混乱していた。
◇
少し時間を巻き戻す。
舟木さんに背を向け、通路の陰に滑り込んだ俺は、荒い息を整えていた。
脇腹の傷がズキズキと脈打つ。ポーションを振りかけるが、傷は浅くはない。
「クソッ、クソッ! なんであの時、勲章を吸収しちまったんだ!」
壁を叩きそうになり、寸前で止める。音は出せない。
『マスター、逃げましょう。今の彼女は敵性個体です。それも遥か格上、勝率は非常に低いです』
ナビ子の声は冷静だった。
「……分かってる」
論理的に考えれば、撤退が正解だ。ソロなら迷わずそうしていただろう。
だが。
脳裏に焼き付いているのは、泣きそうな顔で「殺して」と言った彼女の表情。
そして、いつも換金所で向けてくれる屈託のない笑顔。
(……見捨てるのか? あの人を?)
自問する。
答えはすぐに出た。
(いや、無理だ。……寝覚めが悪すぎる)
深く息を吐き出し、覚悟を決める。
黒鉄のバールを握り直す。
「ナビ子。昨日の舟木さんの言葉、覚えてるか?」
『え? 音声ログ検索……『気配察知が無かったら気づかない』……ですか?』
「ああ。……賭けだ。だが、やる価値はある」
呼吸のリズムを変える。
心拍数を落とし、筋肉の緊張を解く。
システム補正のない、純粋な身体操作による隠密。
システムに依存した今の探索者たちは、「気配察知」スキルのアラートに頼りきっている。逆に言えば、システムが感知しない「ただの石ころ」になれば、認識できない。
あのクイーンも同じだ。システムを使って命令を下している以上、索敵もシステム依存のはず。
(待ってろよ、バカ真面目な受付嬢)
闇に溶ける。
音もなく戦場へ戻る。
舟木さんは視線だけでも抵抗しながら、クイーンの前で立ち尽くしている。
クイーンの意識は完全に彼女に向いていた。背後はガラ空きだ。
俺の存在を示す赤いマーカーは、奴の視界には映っていないはずだ。
足場を駆け上がる。
音を殺し、殺気すら殺し、ただの現象として、バールを振り下ろす。
◇
そして現在。
クイーンの死体から飛び降り、肩を回す。
「……ふぅ」
脇腹が痛むが、動けないほどじゃない。
倒れ伏した女王を見下ろし、首を傾げる。
なんだか、思ったよりも手応えがなかった。昨日の近衛兵とそれほど強さが変わらなかった気がする。
(洗脳に特化してる分、素のステータスが低かったとかか? まぁ、女王が一番強い必要はないからな……)
「なんか、コイツ弱くなかったですか? あれ、大丈夫ですか? まだ洗脳残ってます?」
顔を赤くして首を振っている舟木に声をかける。
「! こ、これは吊り橋効果的なあれですから! 病気とかじゃないです!」
「え? いや、なんかコイツ弱くなかったですかって聞いたんだけど」
「……あ、はい。そんなことないと思います」
真面目な受付嬢は、咳払いを一つして赤面を収めると、真剣な表情でクイーンの死骸を見た。
「黄金級上位で、格上である私を、不完全とはいえ一瞬でここまで支配できる能力がありました。もしこれが同格の、システム依存の探索者だったら……抵抗する間もなく完全に意識を乗っ取られていたはずです」
彼女は俺の方を向き、まっすぐな瞳で言う。
「湊さんが異常なだけですよ。『気配察知』にも引っかからずに、背後を取るなんて」
「そうですかね? なんか再生も遅いし、装甲も思ったより脆かったんですよね」
足元に転がる、大層な名前をしていた原種のアリの残骸を見下ろす。
死体はすでに消滅し、いくつかの確定ドロップアイテムだけが残されていた。
「なんにせよ、これで崩落の原因は取り除けました。ありがとうございます、湊さん!」
「まぁ、仕事ですし。それに、舟木さんが引き付けていてくれたおかげです」
「いいえ! 私なんて操られてただけですし……それに」
彼女は一歩踏み出し、俺の手を両手で包み込んだ。
温かい体温が伝わってくる。
「湊さんは、命の恩人です! 逃げずに助けてくれて……本当に、ありがとうございました!」
「……大袈裟ですよ。まぁ、なんにせよ、休日出勤はこりごりですよ」
「そうですか? やりがいのある仕事だったら、休日出勤も楽しいですよ? 私は今回の件の報告書を作成しなければならないので、もう少し協会で仕事をしていきますし」
舟木さんがほっとしたように、それでいて少し悪戯っぽく笑う。
つられて肩の力を抜く。これで一件落着だ。
そんな安堵の空気が、心地よく場を満たしていく。
◇
だが、彼女たちは知らなかった。
本当の脅威が別に存在していたことを。そして、すでに足元にはいないことを。
『モウスグダ。アノ魔力の匂イガ、強クナッテキタ』
巨大なワームは、上野ダンジョンの地下水脈を抜け、地上への境界を喰らいながら進んでいた。
土砂と共に、コンクリートの瓦礫が崩れ落ちる。
頭上に微かに見える光。そこからは、かつて味わったことのない濃厚な餌の匂いが漂っていた。
『コノ上ダ。美味ソウナ、女ト子供ノ匂イ』
真の脅威は、既に「目的地」に移動を開始している。
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