第9話 エルマー=ルダムデンから見た婚約破棄劇
『伯爵の慟哭 ―ルダムデン家の誇りと怒り―』
卒業式当日、城下町の大通り沿いにあるルダムデン家別邸の一室で、ルダムデン伯爵は書類に目を通していた。
銀縁の眼鏡の奥の瞳は鋭く、魔法省からの正式な文書に一字一句の見落としも許さぬ気迫で対峙していた。
彼の名はエルマー=ルダムデン。王国でも屈指の老舗貴族、ルダムデン家の現当主であり、王国議会の上級議員でもある。
その厳格で理知的な振る舞いから「氷の伯爵」と称されることもあるが、彼の冷徹な仮面の裏には、誰よりも強い誇りと責任感が秘められていた。
そして――誰よりも、娘を大切に想っていた。
ロッテは彼にとって、唯一の娘であり、ルダムデン家の未来そのものだった。
幼い頃から聡明で真っ直ぐな娘を、誰よりも誇りに思っていた。
今日の卒業式には、自ら式場まで足を運ぶ予定だったが、急な議会関係の使者との面会が入り、やむなく執事のグレーヴスを代わりに向かわせていた。
――それが、すべての始まりだった。
「……伯爵。報告がございます」
書類に目を落としていたエルマーが、ぴたりと動きを止めた。
部屋に入ってきたのは執事長グレーヴス。年齢は五十を超えているが、背筋の伸びた姿勢と洗練された物腰は、まさにルダムデン家の顔とも言える存在だった。
「……ロッテの様子はどうだった? 卒業式は無事に終わったのだろう?」
伯爵の問いに、グレーヴスの顔が一瞬だけ曇った。その違和感に、伯爵は眉をひそめた。
「……伯爵……申し上げにくいのですが、式典の場で……ロッテお嬢様は、ハーグ=ユトレヒト様より婚約破棄を――」
「……なんだと?」
氷のように静かな声だった。だがその裏には、嵐のような怒気が渦巻いていた。
ルダムデン家の令嬢に、公衆の面前で、卒業式という門出の場で――婚約破棄だと?
「詳しく話せ」
「はっ。式の終盤、壇上にてユトレヒト様が一方的に婚約破棄を宣言いたしました。理由は……アイン=トホーフェン嬢とお付き合いされているとかで……」
「……貴族の、しかも伯爵家の嫡男が、そんな軽率な振る舞いを公の場で行ったというのか?」
手元のグラスが小さく震えた。だが、それは伯爵の怒りを反映したものではない。彼の指先から漏れ出した魔力が、抑えきれぬ激情の証として空間を歪めたのだ。
「娘は――ロッテは、無事なのか?」
「……それが。式の途中で、会場から姿を消されました。しばらくは人混みに紛れて見失っておりましたが、先ほど学院側から、現在も行方が分かっていないとの連絡が……」
その瞬間、エルマー=ルダムデンの怒りは、恐怖に変わった。
誇り高き令嬢が、公衆の面前で辱めを受け、誰にも見つからぬまま姿を消した。
彼女が受けた精神的打撃を思えば、いかなる過ちも想定せねばならなかった。
「なぜ、目を離した! なぜ、ひとりにしたのだ!」
「……申し訳ございません。ユトレヒト家に抗議の使者を出す準備を進めていた隙に……まさか、お嬢様があれほど傷ついているとは……」
グレーヴスが膝をついて詫びるのを、エルマーは黙って見下ろしていた。
怒りの矛先を誰かに向けることで、このどうしようもない焦燥が晴れるわけではない。だが、気を抜けば、理性が崩れてしまいそうだった。
「今すぐ、捜索隊を出せ。学院周辺、市街地、宿場町、可能性のある場所はすべて洗え。娘の命に関わる問題だ」
「はっ。ただちに人員を」
「そして――ユトレヒト家には正式な抗議を出す。婚約破棄を公の場で行った非礼は、ルダムデン家への侮辱に等しい」
「承知いたしました」
グレーヴスが去ると、伯爵はしばし椅子にもたれ、額に手を当てた。
普段の彼ならば、このような狼狽など見せることはない。だが今、父としての心は――折れそうだった。
ロッテは、常に完璧であろうと努力してきた。
家の名に恥じぬよう、礼儀を学び、剣術も魔法も人一倍努力してきた。
そんな娘に、なぜあのような仕打ちが――。
「ロッテ……どこにいる……。頼む、どうか、無事でいてくれ……」
かすれるような声が、書斎の静寂に溶けていった。
ふだんは決して揺らぐことのない男の祈りだった。
ルダムデン家にとって、誇りよりも重いものがあるとすれば――それは、ただ一つ。
娘の命と尊厳。
今この瞬間、エルマー=ルダムデンは、「氷の伯爵」ではなく、ただの父親として、心の底から娘を案じていた。
その想いが届くように――彼は立ち上がった。
「ロッテ……お前が無事で戻ったとき、もう一度、心から笑えるように……」
その背中は、震えていた。けれど、決して折れはしなかった。
ルダムデン家の誇りは、たとえ傷ついても、決して消えはしない。
それが、彼の、父親としての――強さだった。