第6話 ロッテ視点で見たマルセル
『ふたりで歩む朝、ふたりで進む未来』 ― ロッテ視点 ―
パンの焼けるいい匂いが、眠気を追い払ってくれた。
目覚めたばかりの私の鼻先をくすぐるその香りに、気づけば自然と笑みが浮かんでいた。
ここは、小さな宿舎のキッチン。豪華な屋敷の朝食とは違うけれど、私はこの場所が好きだった。
あたたかくて、穏やかで、そして――マルセルがいるから。
テーブルについたまま、両手でマグカップを包む。カモミールティーの香りが胸の奥にまでしみ込んでいくようで、ようやく心が落ち着いた。
彼はキッチンの向こうで、静かに、でも確かな手つきで朝食を作っている。金色の髪が朝の光を受けて、まるで物語の王子様みたいにきらきらしてた。
「……へぇ、意外。マルセルって料理できるんだね」
私の言葉に、彼は少しだけ肩を揺らして笑った。
「料理は……昔から一人の時間が多かったので。ボク、兄たちがみんな立派で、実家ではけっこう空気みたいな存在で……」
空気、なんて言葉がマルセルに似合うはずないのに。
でも、たぶん、そういうふうに感じさせないくらい、彼はいつも誰かの後ろで静かにしてきたんだろう。
「……女の子に追いかけられて、逃げてたって話、ほんとだったんだね」
「ほんとですよ。こっちは必死でした……あんなにしつこいとは思わなかった」
冗談めかした言い方だったけど、あの時の彼の表情には、ほんの少しだけ、昔の傷跡がにじんでいた。
でも――そんな彼が、今はここにいる。
私の前で、笑ってくれている。
焼きたてのベーコン、ふわふわのスクランブルエッグ、ハーブパンに優しい味のスープ。
食べる前からもう、幸せで満たされていた。
「ん……おいしい。おいしすぎる……昨日あんなに泣いたのに、笑っちゃうくらい」
「昨日は……いろいろありましたからね」
そう、昨日は――卒業式で、私は婚約を破棄された。
ハーグ=ユトレヒト、あの自信過剰で“俺様”な男に、突然の別れを突きつけられて。
しかも理由が「アインが可愛いから」って……本気で呆れた。
あたし、とか言っちゃうような桃髪の子に、私の努力が全部負けたと思うと、泣けてきて――
でも、その夜、私を支えてくれたのがマルセルだった。
「……さすがに口には出せませんけど」
彼が言いよどんで目をそらしたその一瞬に、顔がカーッと熱くなるのがわかった。
「……ばか。言わないの、そういうの」
「すみません」
でも、謝る彼の顔は、ちょっとだけ嬉しそうで。
それに釣られて、私の気持ちも少しずつほぐれていくのを感じた。
「……そういえば。昨日は卒業式だったんですよね、ボクたち」
「うん、そうだったね。もう生徒じゃなくなるって、なんだか実感わかないけど」
ほんの少し前まで、あんなに忙しかった学院生活。
その全てが、今ではもう“過去”になってしまった。
「でも、いよいよ四月からは王宮魔法団に配属されるんですよ、ボク」
「えっ……そうなんだ!?」
驚いて顔を上げると、彼はちょっとだけ照れたように、眼鏡の奥で目を細めていた。
「留学扱いだったけど、優秀な成績だったからって推薦されて。そのまま王宮に」
「すごいじゃない! マルセル、王宮魔法団員……」
「まあ、三男坊なので、出世コースとは無縁ですが。でも、ボクにはそれで十分かなって」
謙遜するように言うその姿が、私はとても好きだった。
自信家でもなく、偉そうでもなく。誰かに認められることよりも、自分のやれることを静かにやっていく――そんな彼だから、私は安心できる。
「……じゃあ、その一か月、わたしと一緒にいてくれる?」
気づいたら、そんな言葉が口をついて出ていた。
驚いたように目を見開いた彼に、私は少しだけ苦笑いする。
「今のわたし、もう花嫁修業の予定も消えたし。逆に自由の身でさ。……昨日はほんとに最悪だったけど、マルセルと一緒にいて、ちょっと気が楽になったの」
「……ボクで、いいんですか?」
その問いかけは、まっすぐで、優しくて――そして、少しだけ不安げだった。
「なに言ってるの。イケメンだし、優しいし、料理上手だし……これ以上何を求めるの?」
素直な気持ちだった。……嘘なんて、一つもなかった。
「……ロッテさん」
「ん?」
「……もし、本当にボクでいいなら。ちゃんと考えていきませんか? ふたりで、これからのこと」
彼の声が、少しだけ震えていた。
でもその言葉は、私の心の奥深くに、まっすぐ届いた。
「うん……わたしも、ちゃんと向き合ってみたい。もう逃げないって決めたから」
たぶん、まだ未来は不確かで。
傷ついた心は、そんな簡単には癒えない。
でも――
「よし、じゃあ今日から、婚約者としての花嫁修業を再スタートかな?」
「えっ!? は、はやくないですか!?」
「ふふっ、冗談だよ。でも……ちょっとだけ本気」
「……心臓に悪いです……」
笑いながらも、彼の頬はほんのり赤くて。
その表情が、私はすごく、すごく好きだった。
卒業の翌朝、私たちは新しい関係を一歩ずつ始めていく。
まだ先のことは、誰にもわからないけれど。
でも今だけは――
ふたりでいるだけで、それでよかった。