第5話 マルセル、ロッテ=ルダムデンと朝食を楽しむ
『ふたりで歩む朝、ふたりで進む未来』
小さな宿舎のキッチンには、パンの香ばしい匂いと、焼き立てのベーコンの音が漂っていた。
「……へぇ、意外。マルセルって料理できるんだね」
朝の光に照らされながら、ロッテ=ルダムデンはテーブルについたまま、マグカップを両手で包みながら微笑んだ。彼女の銀髪はまだ寝起きでふわふわしている。だがその姿は、どこか無防備で、やけに可愛らしかった。
マルセル=ナントリーヌは、フライパンを傾けながら少し照れたように笑う。
「料理は……昔から一人の時間が多かったので。ボク、兄たちがみんな立派で、実家ではけっこう空気みたいな存在で……」
「へぇ……意外だね。伯爵家の三男坊なんでしょ?」
「ええ。でも、上が優秀すぎると、下って空気になるものですよ。それに、故郷ではあまり家にいたくなかったから……」
ふっと、ロッテの視線が彼の背に注がれる。
「……女の子に追いかけられて、逃げてたって話、ほんとだったんだね」
「ほんとですよ。こっちは必死でした……あんなにしつこいとは思わなかった」
マルセルが苦笑する。
そして、焼きたての料理がテーブルに並ぶ。ふわふわのスクランブルエッグ、香ばしいベーコン、ハーブ入りのパン、そして温かいスープ。
「わっ、なんか……カフェみたい。ほんとに上手なんだね……」
「ボク、こう見えて一人暮らし歴長いですから」
ロッテは口に運んだ瞬間、思わず笑顔をこぼした。
「ん……おいしい。おいしすぎる……昨日あんなに泣いたのに、笑っちゃうくらい」
「昨日は……いろいろありましたからね」
マルセルは苦笑して、スープをひとくち啜る。
「卒業式で婚約破棄されて、酒場で泣き崩れて、そのあと……」
「……そのあと?」
「……さすがに口には出せませんけど」
ロッテの頬がぱっと赤く染まる。
「……ばか。言わないの、そういうの」
「すみません」
マルセルが眼鏡の奥で目を細めて笑う。ロッテは照れ隠しにパンをかじった。
しばらくの沈黙ののち、マルセルがふと思い出したように言った。
「……あ、そういえば。昨日は卒業式だったんですよね、ボクたち」
「うん、そうだったね。もう生徒じゃなくなるって、なんだか実感わかないけど」
「わかります。……でも、いよいよ四月からは王宮魔法団に配属されるんですよ、ボク」
「えっ……そうなんだ!?」
ロッテの目がぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「うん。留学扱いだったけど、優秀な成績だったからって推薦されて。そのまま王宮に勤めることになって」
「すごいじゃない! マルセル、王宮魔法団員……」
「まあ、三男坊なので、出世コースとは無縁ですが。でも、ボクにはそれで十分かなって」
ロッテはそっと微笑んだ。
「うん……似合ってるかも。王宮で真面目に働く姿、ちょっと想像できる」
「ありがとう。正式な配属は四月からなので、今は一か月だけ自由なんですよ」
「ふーん……じゃあ、その一か月、わたしと一緒にいてくれる?」
「え?」
「いや、だってさ……今のわたし、もう花嫁修業の予定も消えたし。逆に自由の身で」
ロッテは軽く笑って見せるが、そこにはほんの少し寂しさが混じっていた。
「……でもさ、なんか今の状況、嫌じゃないなって。昨日はほんとに最悪だったけど、マルセルと一緒にいて、ちょっと気が楽になったの」
マルセルはその言葉を、黙って受け止めた。
「……ボクで、いいんですか?」
真面目な声音で問う。
ロッテは少し驚いたように目を見開き、そしてふっと笑った。
「なに言ってるの。イケメンだし、優しいし、料理上手だし……これ以上何を求めるの?」
「……ボク、性格はあんまり……」
「真面目すぎて、ちょっと固いところもあるけど。でも酔うとナンパになるし、バランスは取れてるんじゃない?」
「そこは評価しないでほしいです……」
二人して笑い合う。
「ハーグとの婚約なんか、正直、義務感と家の都合でしかなかったし。昨日のことがあって、逆に良かったかも。……自由になれて、マルセルにも出会えて」
その笑顔は、昨日泣き崩れていた少女とは思えないほど、明るかった。
「……ロッテさん」
「ん?」
「……もし、本当にボクでいいなら。ちゃんと考えていきませんか? ふたりで、これからのこと」
ロッテは一瞬驚いたあと、ゆっくりと頷いた。
「うん……わたしも、ちゃんと向き合ってみたい。もう逃げないって決めたから」
どこかで壊れた過去を、ふたりで少しずつ、積みなおしていくように。
それがどれだけ遠回りで、回り道でも――隣に誰かがいるのなら、前を向ける。
「よし、じゃあ今日から、婚約者としての花嫁修業を再スタートかな?」
「えっ!? は、はやくないですか!?」
「ふふっ、冗談だよ。でも……ちょっとだけ本気」
「……心臓に悪いです……」
そう言いながらも、マルセルの顔はどこか嬉しそうだった。
朝食の時間は、ゆっくりと、穏やかに流れていく。
卒業の翌朝、ふたりは新しい日々の始まりを、笑顔で迎えていた。
まだ未来は、どうなるかわからない。
でも今は――ふたりでいるだけで、それでよかった。