第48話 マルセルとロッテ=ナントリーヌの幸せな日々
◆花祭りの約束◆
―ロッテ=ナントリーヌ視点―
「ふふ、そういえばさ」
マルセルが、ゆるく微笑みながら口を開いた。その眼鏡の奥にある金色の瞳が、どこか意味深に光る。
「君と婚約破棄したあの、ハーグ=ユトレヒト。あの銀髪の“俺様”伯爵令息には……しっかりと、お礼をしておきたいね」
その言い方が、あまりにも優雅で、そして――恐ろしく静かだったので、わたしは思わず身をすくめた。
笑っているのに、笑ってない。怒っているのに、穏やか。それが、マルセルという男だった。
「……マルセル、顔が怖いわよ」
「そう? あはは、つい本音が出たかも」
そう言いながらも、彼の笑みはますます鋭くなる。
「アイン=トホーフェン嬢にもね。“あたし”って自分のこと言う、あのピンク髪のお姫様には……別口でね」
くすくすと、彼は笑った。だけどその声は、まるで冷たい絹のように背筋を撫でてくる。
「お父様、こわい……」
後部座席で丸くなっていた娘のメイスィエが、ぽつりと呟いた。わたしの銀髪を受け継ぎ、瞳の色はマルセルそっくりな娘――すこし気の強い9歳の少女だった。
「ご、ごめんごめん! 今のは冗談だよ。ほら、パパはいつでも優しいでしょ?」
「ほんとにぃ〜?」
少しだけ疑いのこもった声に、わたしたちはまた笑った。
それは、どこかでずっと憧れていた“普通の幸せ”のかたち。子どもたちと笑い合い、隣には誰より信頼できる夫がいる。
あのとき、もしわたしがあの場所へ行かなかったら――こんな未来には、きっと辿りつけなかった。
「……思い出しちゃった」
わたしは、遠くを見つめながら呟いた。
「“二十年後を見て”って、あの時言われたのよ。未来を選べって。でもあのときのわたしには……今日が見えていなかった」
マルセルがそっと、わたしの手を握った。
彼の手は、あのときと同じ――でも、あのときよりもずっと、あたたかかった。
あれは、十年前の花祭りの朝――
王都ネーデラは、いつになく華やかな空気に包まれていた。
通りには色とりどりの花が飾られ、果実酒の香り、花冠を抱える子どもたちの笑い声、屋台からは甘い焼き菓子の匂いが漂っていた。
でも、王都南門の前だけは、違った空気が流れていた。
そこに立っていたのは、一人の青年。
マルセル=ナントリーヌ。隣国フリューゲンの伯爵家三男。分厚い眼鏡越しでも、その整った顔立ちが隠しきれない金髪の美丈夫。祝祭の朝に、黒の礼装で立ち尽くす姿は、まるで絵画のようだった。
足元には、白馬を繋いだ馬車がある。御者は何も言わず、ただ静かに彼を見守っていた。
──彼女が来る。
彼女は、来てくれる。
それだけを信じて、彼はその場に立っていた。
けれど、時は残酷だ。光と笑いが満ちる街の空に、正午の鐘が鳴る。
──来ないのか?
その瞬間、彼の胸に冷たい風が吹き抜けた。
季節は春だというのに、心は冬の湖のように凍りついた。
けれど――
そのときだった。
石畳の向こうから、誰かが駆けてくる音がした。
小さな足音、息を切らしながら全力で。
マルセルが顔を上げる。視線の先には、銀の髪をなびかせて走ってくる少女。
「マルセル――!」
その声を聞いた瞬間、彼の中の氷が溶けた。
「……ロッテ」
互いに抱き合い、言葉では語りきれなかったすべてを、その温もりで伝え合った。
彼女の頬は涙で濡れていたけれど、その瞳には迷いがなかった。
未来を選んだ少女と、彼女を信じて待ち続けた青年。
ふたりは、愛を確かめ合いながら、ゆっくりと馬車に乗り込んだ。
「準備はいい?」
「ええ、もちろん」
そのまま、馬車はゆっくりと城門を離れ、王都の外れ――フリューゲン王国へと旅立っていった。
背後に響く鐘の音は、祭りの始まりを告げる祝福の鐘だった。
でも、あのふたりにとっては――
新しい人生の幕開けを告げる、特別な鐘の音だった。
「――ロッテ、泣いてる?」
「えっ……あら、ごめんなさい。少しだけ、思い出があふれて」
マルセルがやさしく、わたしの涙を指でぬぐった。
「やっぱり、あのときの君を選んでよかった」
「……わたしも。あなたを信じて、走ったあの瞬間を、ずっと誇りに思ってる」
わたしたちの会話を、後ろの座席から二人の子どもがじっと見つめていた。
「パパ、ママって、恋人だったの?」
「ふふ、秘密よ」
「でも、ふたりとも泣いてるよ?」
「それはね、大人の幸せの涙なの」
笑って、また泣いて――
馬車はネーデラの道をゆっくりと進んでいく。花咲く丘を越え、約束の地へ。
10年の時を越えて、ふたりはふたたび帰ってくる。
あの朝に交わした、“花祭りの約束”を胸に抱いて。




