第46話 ロッテとダンクとメイのこれからの時間
桃色の終焉、光差すその先に
――北辺鉱山。
冷え込んだ岩の谷間を、冷たい風が吹き抜ける。空は曇りがちで、陽が差すことはほとんどない。枯れた木々と煤けた建物が並ぶ、辺境の労働区域には、王都の華やかな香りなど、かけらも残っていなかった。
重たいツルハシの音だけが、静かな朝を刻んでいる。
アイン=トホーフェンは、その細い腕で必死に石を掘っていた。服は泥と埃にまみれ、爪も割れている。唇は乾き、肌はかさついていた。
けれど、もう泣く気力すらなかった。
彼女の横には、同じようにツルハシを握る一人の男――バーク=ユトレヒトがいた。かつてはユトレヒト家の坊っちゃんと呼ばれていた男も、今では痩せ細り、頬がこけている。
「……なあ、アイン。覚えてるか?」
「……なにを……?」
「初めて、あの路地裏の屋台で、一緒に食ったホットパイの味」
「……覚えてる。……でも、あたし、もう忘れたい」
そう言って、アインはツルハシを握り直した。
あのとき、自分たちはただ悔しかった。名家に奪われ、忘れられ、切り捨てられた自分たちが、再び誰かに認められたくて、必死だった。けれど――やり方を、間違えた。
「……ロッテ=ルダムデン。あの女……強かったな」
「うん。……あの人には、勝てなかった」
二人の声は、風にかき消された。
――桃色の願いは、こうして泥濘の底に沈んだ。
***
王都ルメリア――春。
侯爵邸の庭には、可憐な花々が咲き誇り、穏やかな日差しが降り注いでいた。ロッテは草花の間に座り、裁縫道具を手にしていた。針先が震えないようにと深呼吸をして、小さなハンカチにメイの名を刺繍していく。
「わたし、こんなこと……昔はできなかったのに」
呟いたロッテの背中に、あたたかな影が差す。
「最近、ずいぶん上手くなったね」
ダンク=ユーウエルが微笑みながら、庭に足を踏み入れた。肩には仕事帰りの疲れが乗っていたが、その表情は柔らかい。
「お帰りなさい、ダンク様」
「ただいま、ロッテ。……ああいや、“ただいま、ロッテ”でいいか」
ロッテは小さく笑って、手の中のハンカチをしまった。
メイが走ってくる気配がして、二人は自然とその方を振り返る。
「パパー! ママー! 見て見て、お花いっぱい咲いてるよ!」
「ほんとだ、メイ。春だね」
ロッテはしゃがんで娘を抱きしめた。
あの日から、すべてが少しずつ変わっていった。
ロッテは、失った過去にすがるのをやめた。ハーグにも、マルセルにも、もう未練はなかった。愛していた日々があったことも、忘れたりはしない。けれど、それは“終わったもの”であり、今を生きる彼女を縛るものではない。
ダンクは、彼女に再び家庭という灯をともした。冷静で無口な男だが、ロッテが苦しいときは手を差し伸べ、嬉しいときはそっと微笑んでくれる。
「ねぇ、ママ。今日は、みんなでご飯食べよう?」
「ええ。メイの好きな焼きリンゴを用意してるわ」
「わあっ!」
メイの笑顔に、ロッテも自然と笑みを返した。
“幸福”は、声高に語るような大げさなものではないのかもしれない。けれど、静かに隣にいる誰かと、ささやかな笑顔を交わせるなら――それでいい。
***
夜。ロッテは書斎に一人でいた。
机の上には、一枚の手紙が置かれていた。送り主は、旧王都新聞社の元記者であり、かつてアインが買収しようとした人物だった。
『ご報告申し上げます。貴女の名誉を守るため、当時の記録をすべて破棄いたしました。ご安心を――貴女の品位は、何者にも汚されておりません』
ロッテは静かに目を伏せた。
守られたのではない、自分で守ったのだ。泥に足を取られそうになったとき、進むべき方向を見失わなかったから、ここに立てている。
――今なら、過去の自分にも言える。
「わたしは、負けなかったよ」
呟きとともに、ロッテは立ち上がった。
書斎の扉を開けると、ダンクがちょうど部屋の前に立っていた。ロッテは少し驚いたように彼を見たが、彼は微笑んで手を差し出した。
「夜風でも、浴びに行こうか」
「……ええ、行きましょう」
手を繋いで歩く庭には、桃色の花が咲いていた。
あの気分が沈んだ願いとは違う、新しい春の花が――
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