第44話 狂気の叫び、地獄に咲いた罠
狂気の叫び、地獄に咲いた罠
ユーウエル侯爵邸の朝は、いつも静かだった。
淡い陽の光が白壁を照らし、庭のローズハーブが香り立つ頃、ロッテ=ルダムデンは愛用の眼鏡を指で直しながら、書斎の机に並べられた書類に目を通していた。
「……下級貴族による記者買収の噂……?」
ダンクから渡された、内務省の報告書の一部に、そう書かれていた。王都告示録の怪しげな一面記事――卒業式の夜、ロッテがマルセル=ナントリーヌと過ごしたという、根も葉もない内容が取り上げられていた。
ロッテは唇を引き結ぶ。
「くだらない……けれど、放っておくわけにもいかないわね」
そのとき、トントンと控えめなノックが聞こえた。
「……ママ? あのね、メイ、お外でね、へんなおじさんに声かけられたの」
ドアの隙間から、小さな声が聞こえた。
ロッテははっとして立ち上がった。
「変なおじさん? どういうこと……? どこで?」
「えっとね、あのね……屋敷の門の外。お花見てたら、おじさんが“ロッテって本当はすごい悪い女なんだって”って……」
その瞬間、ロッテの瞳から一気に色が失われた。
「メイ……その人は、どんな見た目だったか覚えてる?」
「うん、黒いコートで、メガネしてて、……紙をメイに渡そうとしたの。ママの顔が描いてある紙……でも、メイ、いらないって言ったの」
ロッテはすぐさまダンクを呼び出し、屋敷の護衛に警戒を強化するよう指示を出した。
(これはただの中傷じゃない。……わたしの“娘”にまで手を伸ばしてきたということ。もう、見逃せない)
心の中に、冷たい怒りが渦巻くのを感じた。
***
一方その頃、旧フランメ商会の倉庫では、バーク=ユトレヒトが怒鳴り声を上げていた。
「なにィ!? 配ったビラを子供にまで渡したって? あのチンピラども、頭がどうかしてやがる!」
机を叩きつける音が、がらんどうの倉庫に響き渡った。
アインはその場にいたが、黙っていた。昨夜、彼女は王都に雇った情報屋を通じて、ルダムデン家の下男や使用人の周囲に“疑惑のビラ”をばら撒くよう命じていた。だが――
「まさか、メイちゃんにまで……そんなつもりじゃ……」
「言い訳はするな。お前の手で火をつけたんだ。だったら、最後まで燃やせ」
バークは冷たく言い放った。
だがその目は、どこか血走っていた。再起計画の帳面には、すでに新たな“手”がいくつも書き加えられていた。名家に仕掛ける罠、裏通りの商人との取引、腐敗した記者の買収――そして次に狙うは、ロッテの実家であるルダムデン家の財務書類だ。
「ルダムデン家の商会部門には、古い貸し借りの記録が山ほどある。俺様の親父もそこに金を貸してた記録があるはずだ。もし“過去の未清算債務”を見つけられれば、王都の評議会に訴えることだって可能だ」
「……でも、それって……ロッテ様だけじゃなくて、家族や後援してる商人たちまで巻き込むことに……」
アインがそう呟くと、バークは鼻で笑った。
「いいだろう。奴らはロッテの“舞台”を作ってやった奴らだ。だったら、同じ舞台ごと崩れてもらう。俺様たちは、誰かの踏み台にはならない」
アインは黙って、バークの隣に座った。
(泥の中で……私たちは何を目指してるんだろう)
問いかけるようなその瞳に、答えはなかった。
***
その夜。侯爵邸の一室では、ロッテとダンクが対面していた。
「……子供にまで中傷を仕掛けるような連中を、貴族の名を持つ者とは思えない」
ダンクの声は、静かながらも怒りを秘めていた。
ロッテは、膝の上で指を組みながら小さく頷いた。
「……わたし、やります。あの人たちに、ちゃんと償わせる。これはもう“私個人”の問題じゃない。メイを傷つけた時点で、もう……黙っていられないのよ」
メイは今、使用人と一緒に寝ている。けれど、母を見たときのあの寂しげな目――あれは、一生忘れられない。
ロッテは眼鏡を外し、じっとダンクを見つめた。
「侯爵様。……ルダムデン家の財務をすべて提出します。もし、“彼ら”が過去の貸し借りに訴えるつもりなら、先手を打って不正をすべて洗い出しましょう」
ダンクは黙って彼女を見つめると、ふっとわずかに微笑んだ。
「……分かった。だが、君の負担が大きすぎるのは本意ではない。こちらも王家の法務局に連絡し、彼らの動きに監視をつける。――もう、誰も君やメイを傷つけさせない」
その言葉に、ロッテはようやく少しだけ、肩の力を抜いた。
――もう逃げない。私たちは、真っ直ぐに戦う。
そしてその夜、ユーウエル侯爵家から一通の密書が、王家の法務局へと届けられた。
文にはこう書かれていた。
「バーク=ユトレヒトとアイン=トホーフェンによる、意図的な情報流布と名誉毀損の証拠が整いました。慰謝料請求の倍額返還と共に、王都追放の裁きを求めます」




