第42話 アイン=トホーフェン、バークに助けを求める
『桃色の願い、泥濘に咲く』
石畳の路地を踏みしめるたび、アイン=トホーフェンの小さな靴から、土ぼこりが跳ねた。
朝の王都は、いつもより静かだった。市場の鐘がまだ鳴らないうちに、アインは馬車も使わずに、徒歩で町の北へ向かっていた。バーク=ユトレヒトがいると聞いた、旧フランメ商会倉庫の片隅のボロ屋へと。
「バーク様……お願い、お願いだから……」
桃色の髪が汗に張りつき、喉はからからだった。けれど、止まるわけにはいかなかった。
あたしが恋をしたのは、無謀な恋だったのかもしれない。けど、あの夜、バーク様だけは笑ってくれた。すべて失っても、あの人は「お前は悪くない」と言ってくれた。
「ここ……だよね」
古びた建物の木の扉は半開きだった。薄暗い隙間から、煙草と古紙の匂いが漂ってくる。意を決して、アインは扉をノックした。
──トン、トン。
返事は、ない。
再び、トン、トン──。
「……誰だよ、こんな朝っぱらから……」
低く、擦れた男の声が奥から返ってきた。扉の向こうから現れたのは、以前よりも痩せたバークだった。かつての高級服は影も形もなく、今はほつれた上着に破れかけた眼鏡姿。けれど、アインにとっては、どんな王子よりも頼りがいのある存在に見えた。
「……バーク様っ!」
「……なんだ、アインか」
バークは少し驚いた顔を見せたが、すぐに険しい表情に戻った。
「こんな時間に……何かあったのか? ……まさか、家から追い出されたか?」
「ううん、違うの……でも、お願いがあるの……」
アインは、震える手でバークに請求書の写しを差し出した。バークはそれを受け取り、軽く目を通した。
「……ルダムデン家からの慰謝料請求……か」
その名前を見た途端、バークの表情が一変した。
「……また、ロッテかよ。あの女……どこまで俺様たちを踏み台にすりゃ気が済むんだ……!」
机の上のコップががしゃんと倒れた。バークの拳が震えていた。
「慰謝料? 百五十万レグ? 冗談じゃねぇよ。ユトレヒトの坊っちゃんが勝手に婚約破棄して、こっちにまで責任押し付けて……それで、こっちは全部払えって? てめぇ、ふざけんのも大概にしろよ、ロッテ……!」
アインは思わず、バークの袖を掴んだ。
「バーク様……お願い、助けて……。あたし、知らなかったの……こんなことになるなんて……! でも、でも、あたし……ハーグ様のこと、本当に好きだったの……っ!」
涙が頬を伝う。彼女の声は、必死だった。見栄も矜持も、今はもう、なかった。
それを見て、バークの怒りが一度だけ、静かに沈んだ。
「……お前さ、いつも無鉄砲だよな」
そう言って、彼はふっとため息を吐いた。
「俺様も、同じだったよ。惚れた女に振り回されて、家まで失って、でもな……今の俺様は、それでもまだ誰かを守りたいと思ってる。……アイン、お前を守りたいって思ったよ。あの夜も、今も、たぶんこれからも」
「……バーク様……」
アインの目が大きく見開かれた。
バークは、破れた机の下から一枚の帳面を取り出した。そこには、彼が一人で立ち上げようとしていた新商会の名簿があった。借金、投資、利率、交渉中の小商人の名前……無数の希望が走り書きされていた。
「これが俺様の……再起の計画書だ。まだ軌道にも乗ってねぇ。でも……お前が本当に必要なら、俺様はこれを使って戦う」
「戦う……?」
「ああ、あのロッテ=ルダムデンって女に。ふざけた金額の慰謝料を請求してきやがったことを後悔させてやる」
その目は、曇っていた。完全に狂人の目をしていた。
そこにあったのは、まさに闇だった。
「アイン。お前も俺様を信じろ。……必ず、この泥の中から、お前を引っ張り上げてやる。もう、あの冷たい伯爵令嬢の舞台に、俺様たちが振り回されるのは終わりだ」
「……バーク様……っ!」
アインは思わず、バークに飛びついた。涙が彼の上着に染み込んでいく。それでも彼は、その背を強く抱きしめた。
――こうして、もう一つの愚行が、王都の片隅で静かに始まった。




