第41話 あたし、そんなつもりじゃなかったのに アイン視点
『あたし、そんなつもりじゃなかったのに』
朝靄の残る男爵邸の応接間に、重たい空気が漂っていた。
アイン=トホーフェンは、桃色の髪をふわりと揺らしながらソファに座っていた。窓の向こう、王都南の田舎の丘陵地には野花が揺れていたけれど、今のアインにとっては、そんな景色すらまるで色を失っていた。
「アイン、おまえ……本当に……どういうことなんだ!」
対面の椅子に座る父、トホーフェン男爵の額には、いつになく深い皺が刻まれていた。
「……ど、どういうことって、何が?」
アインは視線を泳がせながら、言葉を濁す。
「とぼけるな。これは……ロッテ=ルダムデン伯爵令嬢からの正式な請求状だ。慰謝料として──百五十万レグ!」
「……!」
アインの顔から血の気が引いた。手元に置かれた書状には、きっちりとした文字で、ユトレヒト伯爵家とその関係者、そしてトホーフェン家に対して法的責任を問う旨が記されていた。
「あたし……そんな、大金なんて……」
「我が家の年間収入の十年分だぞ!」
トホーフェン男爵は、怒鳴りながらもどこか情けない顔をしていた。あまりに現実離れした金額に、彼もどう対応すべきかわからないのだ。
「……でも、ハーグ様が、言ってたのよ……。『いずれ正室にする』って……『ロッテとはもう終わりだ』って……」
「その『終わり』が正式じゃなかったから、今こうなっているんだ!」
怒声がアインの胸に突き刺さる。
「俺はな、おまえがあのハーグとかいう伯爵子息にうつつを抜かしている間も、きっとそのうち冷めると思って見守っていた。しかしな……まさか本当にユトレヒト家の婚約をぶち壊して、こっちまで巻き込まれるなんて……!」
「……そんなの、あたし、聞いてなかったよ……」
アインは、指先を震わせながらつぶやいた。
あたし、ただ好きになっただけなのに。ハーグ様は、いつも優しくて、ちょっとオレ様なところが可愛くて、ふとした瞬間に照れたり、酔って甘えたり、あたしだけを見てるように思えて。
……だから。
ただ、彼のことを、誰よりも愛してただけなのに。
「……で、どうするつもりなんだ?」
トホーフェン男爵が、もう一度重たい声で問う。
「まさか、逃げるつもりじゃあるまいな?」
「違う……ちゃんと考えてる。……バーク様が、助けてくれるって言ってたの。『何かあったら言え』って……前に、そう言ってくれたの……!」
「……バーク?」
トホーフェン男爵の眉が跳ね上がる。
「助けてくれればいいのだが………無理なのではないか」
「いいえ、バーク様ならきっと助けてくれるはず」
アインは、ぎゅっと胸の前で手を握った。
あたしは弱くなんかない。誰にも愛されなかったら、自分で掴みにいくしかないって、そう思ってた。
──そして、いま、あたしは。
「会いに行ってくる」
「まて、アイン──!」
父の声を背中で聞きながら、アインは邸を飛び出した。




