第40話 ハーグ=ユトレヒト 追放される
「おまえは、我が家の恥だ」──ユトレヒト伯の決断
大理石の床に、鋭い足音が響く。
ユトレヒト伯爵家の一室、普段は重臣たちとの謁見に使われる奥の応接間に、緊張が満ちていた。
「……何の用だ、父上」
現れたのは、銀髪を無造作に撫でつけた青年、ハーグ=ユトレヒト。高慢な笑みを浮かべたその顔には、反省の色など微塵もない。
「……やっと来たか」
主の席に腰掛けていたユトレヒト伯は、書簡の束を机に叩きつけた。
「おまえが今日、ルダムデン伯爵令嬢──いや、今やユーウエル侯爵家の婚約者となったロッテ嬢に、王宮内で無断接触した件。すでに証言も報告書もすべて揃っている」
「……それで、何だって言うんだよ」
ハーグは肩をすくめ、椅子に深く腰を下ろした。
「俺様はただ、少し話しただけだ。昔の婚約者に、少し会って話しかけたぐらいで騒ぎすぎだろう?」
その言葉に、ユトレヒト伯の眉がぴくりと動いた。
「──少し、だと?」
「……ああ? 何か間違ってるか?」
「おまえは……!」
怒声が部屋に響いた。普段は沈着冷静なユトレヒト伯が、拳で机を叩きつけたのは、使用人の誰もが初めて見る光景だった。
「己が何をしたのか、まだ理解できぬか!! 貴様は、我が家の再起の道を──国への信頼を──すべて、自らの手で叩き潰したのだぞ!」
「そんな大袈裟な。……俺様は、ただ彼女を取り戻そうと──」
「ふざけるなッ!!」
雷鳴のような怒号に、ハーグの肩がわずかに震えた。
「おまえは、ロッテ嬢と正式に婚約し、その見返りとしてルダムデン家から多額の援助を受けた。家の経済を立て直す最後の希望だった」
「……知ってるさ。だが、俺様には彼女が合わなかっただけ──」
「だからといって、一方的に婚約を破棄し、あまつさえ慰謝料もまだ支払い切れていない状況で、また彼女にちょっかいを出しただと? 王家の前で、ユーウエル侯爵を侮辱するような真似を?」
ユトレヒト伯の声は、もはや静かだった。
だがその沈黙こそが、怒りの頂点に達したことを示していた。
「──おまえに、この家を継がせるわけにはいかぬ」
「……は?」
「本日をもって、ハーグ=ユトレヒト、おまえを家名より除籍する。今後一切、ユトレヒト伯爵家を名乗ることを禁じる」
その言葉に、ハーグの顔から笑みが消えた。
「ふ、ふざけ──」
「ふざけているのは貴様の方だ。ルダムデン家、ユーウエル侯爵家に対する信義も、王家からの信頼も踏みにじった愚か者め。もはや貴様に与える家の名も、土地も、金もない」
「お、俺様を追い出すつもりかよ!? この家の未来を支えてきたのは、俺様だぞ!」
「違う。貴様は、この家の未来を腐らせた疫病神だ」
ハーグが叫び、机を叩こうと立ち上がる。しかし、その腕を静かに制止する影が現れた。
家臣のひとり、老従者バルトだった。
「ハーグ様。……このバルト、二十年お仕えしてまいりましたが、もはや貴方に従うことはできません。どうか、立ち去ってください。伯爵様の命令です」
「……おまえまで、俺様を裏切るのか」
「裏切ったのは、貴方の方です」
バルトの目に、かすかな哀しみが浮かぶ。
「ご子息としての最後の命令です。屋敷のものを取りまとめ、明日までにこの屋敷を出てください」
ハーグの口元が、乾いたように笑った。
「……そうか。なるほど、俺様は、もう家族じゃないってことか」
誰も応えなかった。
その沈黙こそが、答えだった。
やがてハーグは、軽く外套を翻し、ドアの方へ歩いた。
その背は、かつての傲慢さを少しも失ってはいなかったが──そこにあったのは、間違いなく敗者の姿だった。
「──笑うがいいさ、父上。俺様が地に落ちたと、嘲るがいい。……だがな、俺様は絶対に終わらねえ」
振り返りもせず、扉を開け放つ。
「いつか見てろよ。ロッテも、ユーウエル侯も、全部……俺様の手で取り戻してみせる」
扉が閉まった。
静寂が戻る部屋に、ユトレヒト伯はゆっくりと腰を下ろした。
「──あれが、我が子か。……我が家の名を、あのようにして汚すとは」
老いた肩に、重く後悔がのしかかっていた。
だが、それでも彼は決断した。
家の誇りを守るために、息子を捨てるという決断を──。




