第39話 怒りのダンク=ユーウエル 彼女を侮辱するな
「彼女を侮辱するな」──ダンク=ユーウエル視点
その報せを受け取ったのは、ちょうどロッテと娘メイが午後の読書を楽しんでいた時間だった。
「侯爵様、急ぎの報告です」
執務室の扉をノックもせずに飛び込んできた側近のレオンが、硬い表情で手紙を差し出した。
「ユトレヒト家の令息、ハーグが……」
「……彼がどうした?」
「本日、王宮のバラ園にて、ロッテ様に接触。……一方的な呼び止めと、会話の強要があったようです。周囲の貴族からも証言が」
「……は?」
ダンク=ユーウエル侯爵の額に、普段見せない深い皺が刻まれる。
冷静で通る彼の声が、一瞬だけ低く、冷え切ったものへと変わった。
「……彼は、何を考えている」
この件に関して、王宮もすぐに動いた。既に宰相の耳にも入り、ユトレヒト家に対して非公式の注意が通達されているという。
だが──それだけで済ませる気には、ならなかった。
「……ロッテには、もう話したのか?」
「いえ。メイ様とご一緒に庭園にいらっしゃるところを、中断するのは忍びなく……」
「正解だ」
ダンクは椅子から立ち上がった。手には既に手袋と外套が握られていた。
目指す先はひとつ。
──ユトレヒト伯爵家。
◇
重厚な扉が開かれ、従者たちが慌てて通される。
「ユーウエル侯爵が、直々に……?!」
「通せ!」
震える声に応じて、当主であるユトレヒト伯が現れる。威厳ある男だが、その目元には焦りの色が隠しきれていない。
「侯爵殿、これは一体──」
「……あえて、名指しで来たのだ。逃げも隠れもするなよ、ユトレヒト伯爵」
ダンクの言葉は静かだった。だが、その静けさの裏に潜む怒気は、誰の耳にもはっきりと感じ取れる。
「まず初めに。お宅のご子息、ハーグ=ユトレヒト殿が、私の婚約者──ロッテ=ルダムデン嬢に不躾な接触を行った件について」
「……話は聞いております。だが、まだ若く──」
「若気の至りで済ませるには、余りに不敬であり、失礼千万だ」
ダンクの青い瞳が鋭く細められる。
「私が怒っているのは、彼が再びロッテ嬢に接近したという事実だけではない。──彼女を、"取り戻せる"と高を括っていた、愚かな慢心に対して、だ」
ユトレヒト伯は一瞬言葉を失った。ダンクは続ける。
「自ら婚約を破棄し、ルダムデン家に多大な損害と恥をかかせた。その代償としての慰謝料と、信用の喪失。貴家が今なお立っていられるのは、国家の寛容さにすぎない」
足音が響く。
ダンクが一歩、ユトレヒト伯に近づいた。
「それを承知の上でなお、貴家のご子息は、今のロッテ嬢を"取り戻せる"と本気で思っている。──それが、私は何より許せない」
「ダンク侯……」
「ロッテ嬢は、今や私の婚約者だ。そして、あの子メイの母になる人だ。彼女は、誰かの所有物ではない」
怒りの言葉は鋭かったが、それ以上に、芯に温かさがあった。
ロッテのことを、妻としてでなく、人として見ているからこそ、ダンクの怒りは真に迫っていた。
「……私の家の者が、娘にそういう目を向けていたとは、思っていなかった」
ユトレヒト伯が、ようやく沈んだ声で呟いた。
だが、ダンクはその言葉に目を細めただけだった。
「……謝罪で済むと思っているのなら、貴方は私より甘い。二度とロッテ嬢の前に、ハーグ殿を近づけるな。これは、"父親"としての忠告でもある」
「忠告……とは?」
ダンクは静かに笑った。
その笑みは、冷たく、揺るぎないものだった。
「私は、一度妻を失っている。──大切な人を守れなかった痛みを、貴方は知らない」
ひときわ重く響く言葉に、ユトレヒト伯の顔が引き締まった。
「私は、二度と同じことを繰り返すつもりはない。ロッテも、メイも、これから私の家族になる。その家族を侮辱する者には──相応の報いを与える。それが、侯爵家の名にかけた誓いだ」
静かに、宣告のように放たれた言葉。
その場にいた全員が、ダンクの「本気」を感じ取っていた。
◇
その日の夜、ロッテの部屋。
静かにドアをノックし、ダンクは中へ入る。
「……あの、何か?」
「少し、顔を見たくなった。……大丈夫だったか?」
「ええ……メイちゃんと絵本を読んでいただけです」
ロッテは変わらぬ微笑みでそう言った。
けれど、わずかに沈んだ瞳の奥に、今日のことを思い出していることが見て取れる。
ダンクは椅子に腰掛け、少しだけ目を閉じた。
「……ロッテ」
「はい?」
「何があっても、私は君を守る。君を"戻れる場所"などと考える者には、私が直接釘を刺す。だから、どうか……」
彼は言葉を切って、続けた。
「もう、無理に笑わなくてもいい」
ロッテの肩が、ふっと緩んだ。
そして、ゆっくりとうなずく。
「……ありがとうございます。ダンク様」
その夜、彼女の笑顔は、涙を帯びていた。
それはきっと、守られることでしか得られなかった微笑。
ダンクは改めて誓った。
──もう、彼女を一人にはしない。




