第38話 俺様はまだ間に合う──ハーグ=ユトレヒト視点
「俺様はまだ間に合う」──ハーグ=ユトレヒト視点
──ロッテが、ダンク=ユーウエル侯爵と婚約?
王宮からの正式な報告が届いたのは、花祭りの翌朝だった。ロッテ=ルダムデンが、新たな婚約者と笑顔で寄り添う姿が、祝賀行列の中で目撃されたらしい。
その報せを聞いた瞬間、ハーグ=ユトレヒトの頭は真っ白になった。
「……なに、それ……ウソだろ?」
銀髪をかき乱しながら、彼は机に置かれた報告書を凝視する。
けれど、何度読み返しても、そこには確かに書かれていた。
──ロッテ嬢、花祭りにてユーウエル侯と共に登壇。婚約を国王が祝福。
「ふざけんなよ……そんなの、俺様に言わずに決めやがって……!」
拳が無意識に震えた。腹の奥に熱いものが湧き上がる。
悔しさ? 焦り? いや、違う。
「置いていかれた」っていう、信じがたい事実。
ついこの間まで、ロッテは自分の隣にいた。文句も言わず、黙々と政務の勉強をこなし、俺様のくだらない話にも耳を傾けていた。あの紫の瞳で、まっすぐに。
──そうだよ、ロッテは俺様の婚約者だったんだ。
それなのに、どうして、別の男と……?
しかもよりによって、あの堅物侯爵ダンクと? 未亡人で子持ちの堅物に、ロッテが笑顔を見せるなんて、信じられない。
「……ちがう、なにかの間違いだ」
ハーグはぽつりと呟いた。
「きっと、あいつだって俺様のこと……まだ少しは気にしてる。俺様みたいな男を、簡単に忘れられるはずが──」
「……忘れられているのだよ、現実はな」
背後から父の冷たい声が落ちてきた。
いつの間にか執務室に入っていたらしい。
「どうしても信じられんというなら、王宮へでも行ってみるがいい。今のロッテ嬢が、貴様をどう見るか……自分の目で確かめてこい」
「ふん、上等だ。ロッテの気持ちは……俺様が一番知ってるんだ。あいつはきっと、どこかで俺様のこと──」
「そうやって、都合よく思い込むのもいい加減にしろ」
父はきっぱりと言い放った。だが、ハーグの心には届かない。
──ロッテが、俺様を忘れるわけがない。
学院時代、誰よりも努力して、俺様についてこようとしてた。政略も家のことも理解していた。口数は少なかったが、そばにいると安心した。
──そう、あれが本当の婚約者ってもんだった。
「まだ、間に合う……まだ取り戻せるはずだ」
そう信じて、ハーグは立ち上がった。
彼なりのプライドが、胸の奥で囁いていた。
──ロッテが俺様以外を選ぶなんて、ありえない。
◇
翌日、ハーグは王宮の中庭を歩いていた。
情報によれば、今日はユーウエル侯爵一家が王妃様と謁見する日。おそらくロッテも付き添っているはず。直接顔を見れば、きっとなにかが動く。そんな根拠のない自信が、彼を突き動かしていた。
「……あれは──!」
バラ園の奥、白い日傘を差したロッテの姿を見つけた。淡いブルーのドレスがよく似合っている。そばには、あの男──ダンク=ユーウエルがいる。そしてその隣には、小さな女の子。
──娘か。
ハーグはギリッと歯を食いしばった。だが今はそれどころではない。
「……ロッテ!」
思わず声が出た。
ロッテがゆっくりと振り返る。驚いたように瞳を見開いたが、その表情は、昔のような動揺も、怒りもなかった。
──まるで、他人を見るような目。
「……ハーグ様。ごきげんよう」
静かな声だった。
「久しぶり」でも、「なぜここに」でもなく、「ごきげんよう」。
その一言に、彼女の立場と距離を突きつけられる。
「ロッテ……会えてよかった。話がしたい」
言葉を選ばずに言った。けれど、ロッテは微笑むでもなく、ただ首を横に振った。
「申し訳ありません。私はもう……あなたと個人的な関係を持つつもりはありません」
「っ……! 待てよ、それって──」
「正式な婚約破棄は、あなたの申し出によるものです。書面も取り交わしました。慰謝料の支払いについても、ユトレヒト家の判断です」
「違う! 俺様は──!」
なんと言えばよかったのか、自分でもわからなかった。
「本当は戻りたい」なんて、いまさら言えるはずもない。
そのとき、隣にいた小さな女の子が、ロッテの手をぎゅっと握った。
「ママ、お姫さまみたいだね」
「ふふ、ありがとう、メイちゃん」
そのやりとりが、胸にぐさりと刺さった。
ロッテの瞳は、もう誰かの未来を見ている。ハーグには、もう入れない場所にいた。
「……っ、ちくしょう……!」
悔しくて、どうしようもなくて、その場から背を向けることしかできなかった。
だが、それでもハーグの心は折れていなかった。
彼はひとり、王宮を後にしながら呟いた。
「……まだ、終わったとは言ってない。俺様が本気出せば、ロッテだって……」
もはや恋ではなく、執着だったかもしれない。
けれど、ハーグはまだ、自分が特別な存在だと信じていた。
──きっと、何かの間違いだ。
だからこそ、まだやり直せる。そう信じて、愚かな伯爵令息は、再び前を向く。




