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第37話 馬鹿者がッ!! ロッテの元婚約者ハーグ=ユトレヒト 父の怒り

「俺様の誤算」──ハーグ=ユトレヒト視点

 陽が西へと傾き始めた頃、ユトレヒト伯爵家の執務室には重苦しい沈黙が流れていた。分厚いカーテンの隙間から差し込む光が、銀髪の青年の横顔を淡く照らす。ハーグ=ユトレヒト。ネーデラ王国でも名の知れた名門貴族の嫡男であり、学院では“完璧な伯爵令息”として名を馳せていた男だ。


 ──少なくとも、あの日までは。


「馬鹿者がッ!!」


 怒号が部屋に響いた。応接用の机を挟んだ向こう側、壮年の男が怒りで顔を真っ赤に染めていた。ハーグの父、現ユトレヒト伯爵である。


「お前というやつは……よりによって、あのルダムデン伯爵家の令嬢との婚約を、なぜ勝手に破棄などしたッ!」


「……だってよ、父上。ロッテのやつ、地味でさ。真面目で優等生ぶってて、お堅いし……なにより、俺様に似合わねぇ」


 ハーグはあくまで涼しい顔でそう言い放った。が、その言葉はさらなる火に油を注ぐ結果となった。


「愚か者がッ!! 貴様はロッテ嬢の内面も知らずに……あれほど優秀で気品があり、将来を見据えて努力を怠らぬ令嬢など、王国中探してもそうはいないというのに!」


「……けどよ、俺様にはもっと華やかな女が似合うって噂されてたんだぜ。ロッテより目立つ子は山ほど──」


「貴様の見栄と噂のために我が家を潰すつもりかッ!!!」


 バンッ! 机を叩く音が重なり、ハーグの言葉は途中で遮られた。


 父の顔は怒りを超え、もはや絶望に近かった。


「知らぬとは言わせん。ルダムデン家からの資金援助がどれほど我が家の経済を支えていたか……あの婚約には、我が家の存続すらかかっていたのだ!」


「……そ、それは……」


「結婚を前提に、五年間で総額二万リーフもの援助を受けていたのだぞ。それが婚約破棄された今、慰謝料として全額返還を要求されている! さらに違約金として五千リーフを上乗せして、だ!」


「ま、待てよ、それって合計二万五千リーフじゃねえか!? そんなの、今すぐ用意できるわけ──」


「だから貴様は馬鹿なのだ! 用意できぬのなら、伯爵位を返上し、屋敷を手放すほかない!」


 怒声とともに、父は重く頭を抱えた。その姿は、かつて権勢を誇った名門の当主とは思えぬほど弱々しかった。


 ハーグは口を開けたまま、沈黙した。


 ──まさかここまでの事態になるなんて、夢にも思っていなかった。


 学院での婚約発表は華々しく、多くの貴族子女からの嫉妬を買った。ロッテ=ルダムデン。あの真面目で、どこか近寄りがたかった“氷の令嬢”。銀髪に紫の瞳は美しいが、どこか冷たく、愛嬌のない女だと思っていた。


 ──俺様にはもっと似合う相手がいる。


 そんな勘違いと、周囲の囃し立て、そしてちやほやしてくる華やかな女たちの誘惑に乗せられた。


 そして──卒業式の夜、彼はロッテに一方的に婚約破棄を告げた。


 あのときの、彼女の顔が忘れられない。表情は崩れなかった。だが、瞳の奥が──凍るように、静かに、そして深く絶望していた。


「……ロッテは、泣かなかった」


 ぽつりと呟いたハーグに、父は重々しい声で返す。


「泣くほどの価値もないと、見限られたのだろうな。貴様という男に」


「……っ!」


 その言葉は、意外なほどハーグの胸に突き刺さった。


 プライドの高い彼にとって、「見限られた」という言葉は、何よりの屈辱だった。自分を一番に思ってくれていたはずのロッテに、捨てられたという現実。彼女が涙を見せなかったのは、強いからじゃない──冷たくなるほどに、もう興味を失っていたからだ。


「……そんな、はずねぇ。俺様のこと、ロッテは好きだったはずだ」


 ハーグは唇を噛みしめる。今さらそんな言葉を呟いたところで、意味がないとわかっていても、口にせずにはいられなかった。


 そのとき、執務室の扉がノックされた。


「……父上、ユリウス様から書簡が届きました」


 入ってきた執事が差し出したのは、王宮からの封蝋がされた書簡。ハーグの父は眉をひそめてそれを開き、中を読んだ途端、さらに深くため息をついた。


「……ロッテ嬢が、ダンク=ユーウエル侯爵との婚約を受け入れたそうだ」


「……は?」


「今日、花祭りで三人一緒に歩く姿が王宮に届けられた。明日には公的な発表となるらしい」


「そんな……っ」


 ──あのロッテが、もう別の男と手をつないで歩いている。


 しかも、あのダンクとだ。王国でも屈指の実力派侯爵。亡き妻の残した娘とロッテが、家族になろうとしている?


「ふざけんなよ……」


 ハーグの拳が震えた。


「俺様のロッテだったんだぞ……!」


「違うな、ハーグ。ロッテ嬢は、最初から貴様のものなどではなかったのだ」


 父の声は静かだったが、厳しさを帯びていた。


「彼女は我が家を支えようとし、誠実に婚約者として尽くしてくれた。だが、それを踏みにじったのは……貴様だ。彼女はもう、貴様を一顧だにしない」


「……っく、ふざけやがって……」


 拳を机に叩きつける。だが、その怒りはすべて自分に向けられるべきものだった。


 ロッテは泣かなかった。罵らなかった。ただ、静かに去っていった。


 残されたのは、後悔と、慰謝料の請求書だけ。


 ──俺様は、なにを失ったんだ。


 ようやく気づいても、もう遅かった。


 ハーグは、空虚な目で窓の外を見つめた。


 外では、花祭りの音楽がまだ小さく響いていた。けれどその音は、彼の耳にはやけに遠く感じられた。


 春の花は、咲いても、戻ってはこない。

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