第35話 花祭り会場
一方、中央広場の花祭りの会場には、ロッテとメイ、そしてダンクの三人がいた。
初夏の風がそよそよと吹き抜け、広場の上空には白や桃色の花びらが舞い上がっていた。花壇には色とりどりの春の花が咲き誇り、青く澄んだ空には一片の雲すらない。まるで絵本のような景色だった。
メイは右手にロッテの手を、左手にダンクの手をしっかりと握っていた。三人で手をつないで歩く姿は、誰が見ても幸せそうに映っただろう。
「パパとママと、三人でおててつないで歩くの、夢だったの!」
メイは満面の笑みを浮かべて、花壇の花々や通りを彩る飾りを指さしては、楽しそうにはしゃいでいた。
「あの花、なに?こっちのは? あっ、音楽が聞こえるよ!」
楽団の奏でる音楽が高まり、通りでは人々が輪になって踊り始めた。子どもたちの笑い声が響き、大人たちはグラスを手に語り合い、屋台からは焼き菓子や果実酒の甘い香りが漂ってくる。
広場全体が、まるで祝福に包まれているようだった。
だが、その賑やかな空気の中で、ロッテはふと足を止めた。
──正午の鐘。
王都の塔から響く十二の鐘の音が、空気を震わせるように鳴り響いた。
胸の奥に、鈍く重い痛みが広がる。
──マルセルとの、約束の時間。
南門の広場で、彼は待っているだろうか。けれど、あの手紙はきっと届いている。メイドに託した、今の私の想いを込めたお別れの手紙。
彼の手を離すことが、彼にとっても自分にとっても、一番優しい選択だと思ったから。
もう、戻れない。
ロッテはそっと目を閉じた。まつげが震え、こぼれた涙がひとすじ、頬を伝って落ちる。
「さようなら……マルセル」
その小さな呟きは、誰にも聞こえないほど儚かった。
その様子を見ていたメイが、不思議そうに首をかしげた。
「ママ、ないてるの?」
「ううん、ちょっと目にゴミが入ったのよ」
微笑もうとしたが、声がわずかに震えてしまう。
その震えを感じ取ったのか、ダンクがそっと近づいて言った。
「それは大変だ。あそこのベンチで少し休もうか」
彼はロッテの肩をそっと支え、木陰のベンチまで導いた。
ベンチの脇では、白い藤の花が風に揺れていた。やさしく揺れる花房が、ロッテの心を少しだけ和らげてくれる。
ロッテは静かに腰を下ろし、大きく息を吐いた。涙はすでに乾いていて、頬に残るのはその名残だけだった。
見上げた空は、どこまでも高く、どこまでも青かった。その空に浮かぶ雲は、遠ざかる誰かの背中のようにも見えた。
──マルセル、あなたと出会えてよかった。
あなたに出会わなければ、私は今の私ではなかった。
ありがとう。ほんとうにありがとう。
心の中で、そっと祈る。
どうか、どうか幸せに。
その祈りは、花の香りと音楽の調べに乗って、空の彼方へと静かに昇っていった。
ロッテはふと、隣を見た。
メイがダンクに何か楽しそうに話しかけており、ダンクも穏やかな笑みでそれに頷いている。その光景は、まるで春の光に溶け込んでいるようだった。
──この未来を、大切にしていこう。
私が選んだこの道を、迷わず歩いていこう。
ロッテはゆっくりと立ち上がり、メイの小さな手を取った。
「さあ、行きましょうか」
「うん!」
メイはぱっと笑い、今度は自分からロッテとダンクの手を引くようにして歩き出す。
三人の影が春の光の中に伸びてゆく。花の香りが、また一段と濃くなった。
ロッテの一歩が、新しい人生の始まりをそっと告げていた。
【第一部完】




