第34話 手紙
花祭りの朝、王都はいつになく華やいだ空気に包まれていた。
通りには色とりどりの花が飾られ、店先には果実酒や花冠が並び、人々は笑顔で祭りの始まりを告げる鐘を待っていた。
しかし、王都南門の前に佇む一人の青年の心は、まるで冬の湖のように静かで、張りつめていた。
マルセル=ナントリーヌ。伯爵家の三男であり、礼装に身を包んだその姿は、祝祭の光の中にあっても一層目を引いた。
だが、彼はただ、じっと門の向こうを見つめていた。
足元には白馬を繋いだ馬車があり、御者は気遣わしげに彼を見ていたが、声はかけなかった。
──彼女が来る。
そう信じていた。信じていたからこそ、この場に立っている。
ロッテ=ルダムデン。
彼女と交わした、約束の日。花祭りの日。祭りの喧噪が、ふたりの新たな旅立ちの鐘になると信じていた。
だが、時は過ぎる。
正午を知らせる鐘が、遠くの塔から鳴り響いた。
その音を聞いた瞬間、マルセルの胸に冷たい風が吹き抜けた。
──来ないのか?
不意に、胸に重くのしかかる沈黙。
その時だった。
遠く、城門の石畳を蹴って、誰かがこちらへ向かってくる足音が聞こえた。
マルセルは顔を上げる。
──彼女だ。
真っ白な息を弾ませて走る小柄な人影。裾を翻してこちらへ向かうその姿に、マルセルの顔にぱっと笑顔が咲いた。
「ロッ……」
手を上げかけた瞬間、その笑みは凍りついた。
──違う。
彼女ではない。あれは、メイドだった。
リボンのついた白いエプロンに、栗色の髪。見覚えのある屋敷の使用人の一人だった。
マルセルの手が途中で止まり、無言でその場に立ち尽くす。
メイドは息を整えながら近づき、一礼して口を開いた。
「マルセル様でいらっしゃいますか?」
「……ああ、そうだ」
答える声が、自分でも驚くほどかすれていた。
彼女はポケットから一通の手紙を取り出すと、丁寧に差し出した。
「お嬢様からのお手紙を預かっております」
その手紙は、淡い桃色の封筒に丁寧な封蝋が施されていた。彼女の、筆跡のように静かで優しい色。
「ありがとう」
それだけ言うと、マルセルは封を切り、その場で手紙を開いた。
──風が一度、強く吹いた。
それはまるで、彼の胸の中の希望を攫っていくかのようだった。
手紙の中には、整った文字が並んでいた。
『親愛なるマルセル=ナントリーヌ様。
この手紙を受け取った時、あなたはどんな顔をしているでしょうか。
わたしは、あなたとの日々を思い返すだけで、胸がいっぱいになります。
あの寮の回廊を歩いた日。湖のほとりで語り合った夜。卒業式のあとの、あなたの言葉。
どれも、わたしにとっては宝物です。
短い間でしたが、わたしは本当に、あなたに出会えてよかった。あなたを愛しました。心から、深く、真剣に。
けれど……どうか、赦してください。
わたしは、そちらへ行くことはできません。
何度も何度も、心の中であなたと歩く未来を描きました。でも、その度に思い出すのです。父の笑顔、母の手、そしてこの国の空。
わたしは、あなたを愛しているのと同じように、家族を、国を、そこに生きる人々を愛しています。
だからこそ、行けないのです。
わたしの選択が、あなたを深く傷つけてしまうことはわかっています。それでも、どうか、あなたには前を向いてほしい。
わたしのことは忘れてください。
そして、あなたが、あなた自身の幸せを見つけてくれることを、心から祈っています。
マルセル、ありがとう。あなたの愛に包まれたあの時間が、わたしの人生の中で最も暖かな記憶です。
どうか、あなたに光あれ。
──ロッテ=ルダムデン』
読み終えた手紙を、マルセルはそっと胸に抱きしめた。
目を閉じると、彼女の声が、髪の香りが、微笑みが、脳裏をよぎる。
もう、その手は取れない。
だが、その愛は、確かにあった。
涙が頬を伝って落ちていく。
マルセルはゆっくりと馬車に乗り込むと、御者に静かに言った。
「……行ってくれ」
馬車がゆっくりと動き出す。
祝祭の喧噪から離れていくその道の途中で、マルセルは顔を伏せ、肩を震わせた。
嗚咽を漏らしながらも、手紙だけは、決して離さなかった。