第33話 母ムーダーの言葉、20年後を見て!
ユーウエル邸から帰宅した夜、ロッテは部屋の窓辺でぼんやりと空を見上げていた。
夕刻の庭でのこと──メイの笑顔、ダンクの言葉。
「……わたしたちを選んで欲しい」
その言葉は、まるで水面に投げられた石のように、ロッテの胸に波紋を広げていた。
部屋の扉を叩く音がして、母・ムーダーが入ってきた。
「ロッテ、お茶を淹れたの。よければ一緒にどう?」
「……うん、行く」
母に手を引かれ、ふたりはサンルームのような小さな応接間に座った。レースのカーテン越しに月の光がやさしく射し込み、花の香るハーブティーがほのかに湯気を立てていた。
カップを口に運びながら、母がふと語り始めた。
「昔ね、親しい友人がいたの。とても聡明で、優しい人だったわ。その人には立派な婚約者がいたのよ。でも、実は、心の奥には別の男性を想っていたの」
ロッテは静かに顔を上げた。
「……その方は、どうしたの?」
「とても悩んだ末に、その子は婚約者と結婚したわ。家も家柄も、将来の安定も考えて……そして、何より、家族の期待を裏切りたくなかったのね」
母の指が、カップの縁をなぞるように動く。
「時々、その人は言っていたわ。『あのとき好きだった人の人生、想像することがあるの』って。でも同時に、こうも言っていた──『きっと、あの人との暮らしはわたしには耐えられなかった』と」
ロッテは眉をひそめた。
「……なぜ?」
「その人は平民だったの。暮らしも厳しくて、将来の見通しもなかった。きっと愛だけでは生きられなかったと、自分に言い聞かせていたのよ。でも、それが悲しいってわけじゃないの。ただ、そういう選び方もあるってこと」
母はそっと微笑んだ。
「悩んだとき、その友人が言っていたの。『今じゃなくて、二十年後を想像してみるといい』って」
「……二十年後?」
「ええ。たとえば、好きな人と一緒にいた二十年後の自分。あるいは、婚約者と歩んだ人生の二十年後。どちらが笑っていられるか、どちらのそばに幸せそうな人たちがいるか……」
ロッテはそっとペンダントに触れた。
「周りの人の幸せ、か……」
「そう。自分の幸せの中には、周囲の人の幸せも入っているの。自分が好きな人が幸せでいてくれること。それも、自分にとっての喜びなのよ」
母の言葉が、温かな灯のように胸の中に差し込んでいく。
「……そのご友人は、今、幸せなの?」
ロッテの問いに、ムーダーはふわりと微笑んだ。
「ええ。とても幸せよ。可愛い娘と、優しい夫と一緒に暮らしているの。人生に後悔がないと言えば嘘になるかもしれない。でも、愛され、愛している今を、大切にしているのよ」
その言葉に、ロッテは胸の奥がじんわりとあたたかくなるのを感じた。
──選ぶということは、誰かを手放すということ。
けれど、同時にそれは、誰かを大切にするということでもあるのだ。
月の光の中で、ロッテはもう一度、そっとペンダントを握りしめた。