第32話 ダンクから見たロッテとその恋人
ロッテが門をくぐる朝、すでにすべてを知っていた。
彼女には恋人がいる。あの卒業式の日、婚約を破棄された彼女が、次に選んだ相手──マルセル=ナントリーヌ。眼鏡の奥にどこか翳りを隠した、あの青年。噂でしか知らなかったが、学院の魔法術技では上位を争うほどの実力者だという。
だが、それ以上に耳にしたのは──ロッテが、幸せそうだったという話だった。
彼女が、笑っていたという。
その事実を知ったとき、心がかき乱れたのを覚えている。冷静を装っても、嫉妬は心に巣食って、簡単には消えてくれなかった。ロッテは、あのときのままでいてくれると思っていたのかもしれない。だが彼女は前を向いて、歩き出していたのだ。
──ならば、自分は何を願う?
憎むか? 奪うか? 否。どれも、彼女が望む未来ではない。
ロッテが幸せであってほしい。それだけは、変わらなかった。
メイスィエ──メイ──にとって、彼女はたったひとりの“ママ”だった。レッカがいなくなってからの3年間、誰にも甘えることができなかったこの娘が、あんなに素直に笑った相手。ならば、願うべきはたったひとつ。
彼女が、再びこの家に戻ってきてくれることだ。
だがそれは、ただの都合の良い夢かもしれない。ロッテが、自分たちを選ぶとは限らない。いや、むしろ──選ばない可能性のほうが高い。
それでも、迎えたいと思った。
だから、今日この日、彼女を招いた。
使用人が来客を知らせたとき、心臓がわずかに早鐘を打った。
けれど、部屋に現れたロッテを見た瞬間、すべての感情が静かに溶けていった。
──変わらない。けれど、変わった。
銀のペンダントが、陽光を受けて微かにきらめいていた。彼女の首元にあるそれを見て、胸の奥が少しだけ痛んだ。それは、彼女が選んだ恋の証なのだろう。自分ではない、誰かが与えたもの──それを身につけてきたということは、彼女なりの覚悟なのだとすぐに理解した。
それでも、再会の笑顔は、嬉しかった。
そして、あの声が響いた。
「ママーっ!」
あの子が、どれほどこの日を待ち望んでいたか。胸が詰まる。ロッテに飛び込むメイの背中を見ながら、口元に自然と笑みが浮かんだ。
彼女と過ごす時間は、まるで夢のようだった。
庭で笑い合い、花を摘むふたり。マカロンを積み上げて競うふたり。どれも他愛のない、けれどかけがえのない風景だった。そこに自分の居場所がないと知っていても、それでも、心が安らいだ。
やがて、陽が傾き、ロッテがようやく口を開いた。
──ああ、やはり。
彼女は震える声で、それでも真っ直ぐに告げてくれた。
自分には、愛する人がいる、と。
それは、痛みだった。刃を突き立てられるような痛み。
けれど、同時に、誇らしくもあった。
彼女が誰かを想い、誰かと生きると決めたのなら、それは彼女自身が見つけた幸せなのだ。
手に入れたいと願っていた存在が、誰かのものであると知る悲しみ。
それでも──
「私は、あなたを縛りたくありません」
言葉にすることで、自分自身が救われる気がした。
「それでも、願ってしまうのです。あなたに、私たちを選んでほしい」
メイだけでなく、自分自身も──彼女と生きていきたいと。
求婚の言葉は、決して軽いものではなかった。
誠実であろうとした。正直であろうとした。
彼女が、涙を浮かべて「ありがとう」と言ってくれたとき、自分のすべてが報われた気がした。
「お返事は、少しだけ、考えさせてください」
そう言われて、拒絶ではないことに、ほんの少し安堵する。
未来がどうなるかは、わからない。
彼女が自分を選ばない可能性のほうが高いかもしれない。
だが、かすかな希望だけは、確かに灯ったのだ。
ロッテがメイの手を握り、「行きましょう」と言ったとき、その笑顔が、夢のように美しかった。
──あの日、レッカと過ごした時間と同じくらい。
いや、それ以上に。
この気持ちが愛でなくて、何だというのだろう。
扉の向こうへと去っていくロッテの背中を、ダンクはただ静かに見つめていた。
彼女が選ぶ未来が、たとえ自分のいない世界だとしても。
それでも、願わずにはいられない。
──できることなら、その未来に、わたしもいさせてくれ。