第31話 ロッテ、ダンクに恋人がいることを告げる
ユーウエル邸を訪れる朝、ロッテの心臓は、まるで鐘のように鳴っていた。
真っ白なブラウスに紺のワンピースを重ね、マルセルから贈られた小さな銀のペンダントを首元に添える。鏡の中で深呼吸をひとつ。何度繰り返しても、不安は消えてくれなかった。
――ちゃんと、言えるかな。
恋人がいること。もう、誰かの妻にはなれないかもしれないということ。
「それでも、向き合わなきゃ……」
馬車が門をくぐり、深緑に囲まれた広い庭園を進む。懐かしさに胸が締めつけられそうになる。ここで過ごした日々、メイと笑い合った記憶、ダンクの静かなまなざし──すべてが、ロッテの中に色濃く残っていた。
扉が開き、使用人に案内されて向かった客間には、既にダンク=ユーウエル侯爵の姿があった。
変わらず冷静で、どこか物憂げな表情。けれどその眼差しは、彼女が訪れたことに、心からの歓迎を告げていた。
「ようこそ、ロッテ嬢。来てくれてうれしいよ」
「こちらこそ……お時間をいただき、ありがとうございます」
胸に手を当てて一礼する。その瞬間だった。
「ロッテーっ!」
弾けるような声とともに、扉が開いた。金の巻き毛を跳ねさせて、メイスィエが飛び込んでくる。ひと目でわかる、再会の喜びに満ちた顔。
「メイ……!」
ロッテも立ち上がり、思わず腕を広げた。少女は飛び込むようにその胸に抱きつき、くるくると笑った。
「ママに、もう会えないのかと思ってた! でも、お手紙くれたもんね。また会いたいって!」
ロッテの喉が詰まった。
──ママ。
それは、あの別れの日に呼ばれた、甘くて、切なくて、どうしようもなく嬉しかった言葉。
「メイ、私も、また会えてうれしいわ」
言葉にした瞬間、胸の奥にある迷いが、少しだけ溶けた気がした。
そのあとは、嘘のように時間が過ぎていった。
メイが庭で遊びたいと言えば、ふたりで花を摘み、押し花にして小さなノートに挟んだ。お菓子を食べれば、どっちがたくさんマカロンを重ねられるか競争になり、勝っても負けても笑い合った。
ダンクも微笑みながら、ふたりの様子を静かに見守っていた。時折、ロッテの目が彼に向くたびに、何かを言いかけては言えず、唇を閉じる。
──まだ言えてない。
気づけば、空が茜色に染まりはじめていた。
「……そろそろ、お時間ですね」
ロッテがそう言うと、メイがきゅっと裾をつかんだ。
「また来てくれる? 今度の花祭り、一緒に行こうよ!」
ダンクが立ち上がり、メイの小さな手を優しくとって言った。
「メイ、少しだけ待っていてくれるかな。ママと、大事なお話があるんだ」
「……うん、待ってる。お庭にいるね!」
少女が走り去ると、部屋に再び静けさが訪れた。
ロッテは意を決して、口を開く。
「ダンク様……わたし、あなたに隠していたことがあります。わたしには、恋人がいます」
声が震えた。けれど、もう止められなかった。
「卒業式の日に出会って、惹かれて……一緒に歩きたいと、そう思える人です。メイのことも、あなたのことも、大切だけれど……自分の気持ちに嘘をつきたくありません」
言い終えると同時に、涙が頬を伝っていた。
ダンクは、驚いた顔をするでもなく、ただ静かに彼女の言葉を受け止めていた。
「……そうか。やはり、そうだったのですね」
ロッテは顔を上げる。
「……怒らないのですか?」
「怒る理由など、ありませんよ。あなたが誰かを愛していると知っても、あなたという人を否定したくはない」
ゆっくりと、彼は言葉を紡いだ。
「……私は、あなたを縛りたくありません。王命という形であなたを手に入れても、それは本当の幸せではないでしょう」
そのまなざしは、まるで何もかも見透かしているようだった。
「それでも、願ってしまうのです。あなたに、私たちを選んでほしい。私だけではなく、メイも含めて。あなたのすべてを、受け止めるつもりです」
そして、ダンクは静かに膝をつき、彼女に向き直った。
「ロッテ=ルダムデン嬢。どうか、わたしの妻になっていただけませんか」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
すべてを知っていて、なお彼女を求めてくれるその誠実さに、ロッテの心は深く打たれた。
──わたしは、なんて幸せな人間なんだろう。
涙がもう一度こぼれた。けれど、今度は温かかった。
「ありがとう……お返事は、少しだけ、考えさせてください」
「もちろんです。焦らせるつもりはありません」
メイが戻ってきて、再び手を握ってくれた。
「ママ、今度の花祭り、一緒に行こうね! メイ、ママと花びら拾いたい!」
ロッテは笑って頷いた。
「ええ。行きましょう、メイ」
その帰り道、ペンダントを握りしめながら、ロッテは空を見上げた。
――今、わたしはひとつの選択の前にいる。
けれど、その答えを見つけるために、大切な人たちと過ごす時間が、何よりの道しるべになる気がしていた。




