第30話 ロッテの決意 ダンクにすべてを打ち明ける決心を
寄宿舎の門を出て、ロッテは一度だけ振り返った。赤レンガの塔が暮れなずむ空に溶けていく。
もう、戻ることはないのかもしれない。
マルセルのあたたかな腕のぬくもりが、まだ左肩に残っていた。
あの人は、わたしを選んでくれた。肩書きも立場もすべてを背負った上で、それでも「君と生きていきたい」と言ってくれた。
──だから、わたしも逃げたくなかった。
たとえどんな反応が返ってきても、自分の気持ちを偽りたくない。
父様にも、母様にも。そして、メイの父であるダンク=ユーウエル侯爵にも。
「……逃げるだけが、わたしの選ぶ道じゃない」
自分に言い聞かせるように小さくつぶやいて、ルダムデン邸の門をくぐった。
銀の髪が微風に揺れ、歩くたびに草の香りが微かに立ちのぼる。玄関の扉を開けると、母・ムーダーがリビングから顔を上げた。
「おかえりなさい、ロッテ。ずいぶん遅かったのね」
「うん、寄宿舎にちょっと忘れ物を取りに行って……それから友達の家に一泊したの」
母の瞳は一瞬だけ揺れた。でも、何も言わずに、ふんわりと笑ってうなずいてくれた。
その優しさがうれしくて、でも、胸が少し痛んだ。きっと、母はすべてを察している。わたしの言葉の足りなさも、心の揺れも──全部。
自室に戻って、カーテンを閉めた。机に置きっぱなしだった便箋の束を取り出す。
思いを言葉にするって、こんなにも難しいことだったんだ。
インク瓶を開けて、羽ペンをそっと持ち上げる。
深呼吸をひとつ。
──伝えよう。素直に、まっすぐに。
心の中にいるマルセルの声を思い出す。
『ロッテ、君は君のままでいい』
その言葉をお守りにして、便箋の上に文字を綴っていく。
『拝啓 ダンク=ユーウエル侯爵閣下
突然のお便りをお許しください。
先日はお時間をいただき、ありがとうございました。あの日、貴方のお言葉を受け、わたしは自分自身と静かに向き合いました。
そして、ある決意をいたしました。
今、わたしは心からお話ししたいことがございます。できましたら、メイスィエちゃんにもお会いできたらと願っております。
ご都合のよい日をお知らせいただければ幸いです。
ロッテ=ルダムデン』
一文字ずつ、心を込めて書き上げ、封をして蝋を垂らす。
ルダムデン家の紋章を押すと、蝋が固まる前に微かに指が震えた。
この一通で、すべてが変わるかもしれない。
けれど、何もせずにいたら、何も変わらないまま終わってしまう。
執事に手紙を託し、扉を閉めたあと、ロッテは小さく深呼吸をした。
夜。ベッドに横になっても、心がざわざわとして、なかなか眠れなかった。
もし、ダンクが怒ったら? 「そんな不始末を受け入れられると思うか」と拒絶されたら?
もし、メイが幻滅したら……?
怖い。
でも、それでも、わたしは今度こそ向き合いたかった。
マルセルに出会って、少しだけ変われた自分を、ちゃんとこの世界に立たせたかった。
──嘘をつくことだけは、したくない。
そうして、目を閉じることもできぬまま朝を迎えた。
窓の外には、いつもと同じ鳥の声。けれど、胸の奥には、いつもとは違う重みがあった。
朝食を終えた頃、執事が控えめに声をかけてきた。
「ロッテお嬢様。お手紙をお預かりしております」
息を呑んで、ロッテは手紙を受け取った。
封蝋には、ユーウエル家の紋章。
――開けるのが、こんなにも怖いなんて。
けれど、手紙はごく簡潔だった。
『お便り拝見いたしました。
明後日、昼過ぎに邸にてお待ちしております。
ダンク=ユーウエル』
「……ありがとう。準備するわ」
返事をした声が、自分でも驚くほど静かだった。
部屋に戻って、小さなトランクを取り出す。
着替えと、上品なリボンの髪飾り。マルセルから贈られた、小さな銀のペンダントも。
そのペンダントをそっと手に取って、胸にあてた。
マルセルの手のひらのあたたかさがよみがえる。彼のあのまなざし、声、約束。
――わたしは、ちゃんと自分の意志で生きていく。
鏡に映る自分に、もう一度言い聞かせる。
たとえどんな言葉をぶつけられても、ちゃんと受け止める覚悟はある。
明後日、わたしはユーウエル邸へ行く。
過去も、愛も、未来も、ぜんぶ背負って。
胸を張って、伝えに行く。
──わたしは、自分で自分の道を選びました、と。




