第29話 ロッテ=ルダムデン、マルセルに会う
ネーデラ王国の魔法学院の寄宿舎には、朝の光がまだ柔らかく差し込んでいた。馬車が石畳をゆっくりと進み、ロッテ=ルダムデンは重い気持ちを胸に、それを見つめていた。
彼に、会わなければならない。
わたしが、父様にあなたのことを話すといったのだから。
寄宿舎の門をくぐり、中庭を横切っていく。初春の風が制服の裾を揺らし、ロッテは深く息を吸い込んだ。金色の髪、分厚い眼鏡。遠くに見えたその背を見つけただけで、胸の奥がきゅっとなった。
「……マルセル」
振り向いた彼の表情は、どこか硬かった。
「ロッテ……来てくれたんだね」
「うん。話があって」
彼の部屋へ通されると、ロッテはゆっくりと、しかし包み隠さず、すべてを話した。
王命で父にダンク=ユーウエル侯爵との縁談が持ちかけられたこと。
実際にダンクに会ったこと。
その娘、メイスィエという可愛らしい子と触れ合い、心が揺れたこと。
マルセルは黙って聞いていた。しかし、彼の拳は膝の上で固く握られ、瞳の奥に揺れる感情を隠しきれていなかった。
「ロッテ……君は、ダンクと……結婚するつもりなのか?」
「それは……まだ、決めてない。だから……迷ってるから、あなたに話に来たの」
言葉を選びながら、ロッテはまっすぐに彼の目を見た。マルセルは俯いたまま、震える声で言った。
「王命って……逆らえないんじゃないのか? 貴族の娘は、国のために結婚するのが務めなんだろ……? でも、ボクは──嫌だよ」
「マルセル……」
「逃げよう、ロッテ。今からでも。ボクの祖国─ーフリューゲン王国に逃げれば、誰も追ってこれない。伯爵家の三男なんて捨てて、普通の人として暮らすんだ。……君さえいれば、それでいい」
ロッテの胸が強く打ち鳴った。頭ではわかっている。逃げることがすべてではないと。でも、彼の真剣な眼差しに、心が揺れた。
「……考えさせて。マルセル。わたし、自分の気持ちに、まだちゃんと向き合えてないから……」
彼は黙って立ち上がり、そしてそっとロッテを抱きしめた。大きくて、あたたかい手。震えるほど切実な想いが、抱擁にこめられていた。
「ボクは……君を失うくらいなら、死んだ方がいい」
耳元で囁かれたその言葉に、ロッテは思わず震えた。
「……そんなの、ずるいよ」
「ごめん。でも、それがボクの本心なんだ」
目を閉じると、マルセルの唇がそっと重なった。優しくて、切なくて、涙が出そうになるような口づけだった。
その夜、ロッテは彼の部屋に泊まった。
窓の外には月が昇り、静かな光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
ロッテは彼の胸に抱かれながら、自分の心に問いかけ続けた。
この人と生きていく未来。
それは、きっと幸せで、だけど現実から逃げることになるかもしれない。
それでも、彼の腕の中はあたたかくて、優しくて。
「……マルセル」
そう呟いて、ロッテはそっと彼に触れた。彼の瞳が真剣に揺れ、そしてふたりは、言葉のいらないぬくもりを分かち合った。
夜は静かに更けていく。
少女は、ひとりの女性になろうとしていた。
翌朝、ロッテが目を覚ますと、マルセルは机に向かって何かを書いていた。彼女に気づくと、優しく微笑みながら言った。
「ロッテ、七日後の花祭りの日、正午、街の南門で待ち合わせしよう。フリューゲンへ出発する準備はボクが全部する。君は、手荷物だけで来て」
「……うん。わかった」
その決意に、ロッテは静かにうなずいた。
その後、ふたりで朝食をとりながら、マルセルは未来のことを語り始めた。南国フリューゲンの温暖な気候、透き通った海、陽気な人々──。
「商売を始めるのも悪くないよ。市場で雑貨を売ったり、食堂を開いたり……。それとも、ボクたちの魔法の腕を生かして、冒険者になるのも楽しそうだよね」
そう言って楽しそうに笑うマルセルに、ロッテもつられて笑顔を見せた。
「わたし、錬金術得意だから、薬を作るのもいいかも」
「それなら、きっと町のみんなに喜ばれるよ」
夢のような未来を語り合うひととき。現実の困難を忘れさせるような、あたたかく穏やかな時間だった。
やがてロッテは立ち上がり、寄宿舎を後にした。彼女の背中には、まだ迷いがあったけれど、心の奥には確かな灯がともっていた。
三日後、南門へ行くか、それとも──。
その答えは、自分で決めなければならない。
少女は、確かに前を向こうとしていた。




