第22話 一緒の夕餉《ゆうげ》
『一緒の夕餉』
陽が傾きはじめた頃、ロッテはそっと腰を上げた。
「では、そろそろ……失礼いたします」
メイスィエが膝の上で気持ちよさそうに寝息を立てていたのを、慎重にそっと抱き上げ、横のソファに移す。
その髪を優しく撫でてから、ロッテは立ち上がり、ダンク=ユーウエル侯爵に深く頭を下げた。
「本日は、本当にありがとうございました。メイスィエちゃんにも……突然で、驚いたけれど……会えてよかった」
ダンクはゆっくりと立ち上がり、ロッテに向かって丁寧に頭を下げ返す。
「こちらこそ、突然の訪問にもかかわらず、誠意をもって応じてくださったことに、心から感謝しております。……メイも、きっと……今日のこと、一生忘れないと思います」
「……ええ」
そう言ったその瞬間だった。
「まっ……待って!」
小さな声がして、ふたりが振り向くと、メイスィエがソファの上で半身を起こしていた。
紫の瞳には涙が浮かび、ロッテをじっと見つめている。
「ママ……帰っちゃうの……?」
ロッテの胸が、ずきんと痛んだ。
「メイ……わたしは、その……」
「やだ……帰らないで。ごはん、いっしょにたべよ? ママと、はじめて……ごはんたべたいの」
ふらふらと立ち上がって、よろけながらもロッテの手に縋りついてくる。
「ママがいると……おいしくたべれるって、夢でしってたの……。いっしょに、いっしょにたべたい……!」
小さな手が、ロッテの手をぎゅっと握る。
その純粋すぎる思いに、ロッテの心は揺れた。
(こんなに……こんなに、誰かに必要とされたことなんて、あったかしら……)
「……」
ロッテは迷った。
けれど、メイは──レッカ姉さまの娘だった。
従姉妹というには血が近く、姉妹というには距離があったあの人。その人の、たったひとりの忘れ形見。
そして、目の前のこの子は、母という存在を必死に求めている。
(わたしじゃないって、ちゃんとわかってる。でも……今だけは……)
「……わかりました。メイちゃん。じゃあ、今日は……ごはんだけ、一緒に食べましょう」
「ほんとっ!? ママ、ほんとに……!?」
メイスィエの顔が、ぱあっと花が咲いたように明るくなった。
「うん……本当よ。でも“ママ”じゃなくて、“ロッテ”って呼んでくれる?」
「……ママじゃ……ダメ?」
「……それはまた、あとで考えましょうね」
ロッテが優しく笑いかけると、メイはうれしそうに頷いた。
「わーい! やったぁっ!」
そんな様子を見守っていたダンクは、ふっと息を吐き、ロッテに深々と頭を下げた。
「……本当に、ありがとうございます。私からも、心からの感謝を。……あの子は、妻を失って以来、“家族”というものをうまく理解できなくなっていた」
「……そう、だったんですね」
「レッカが亡くなったとき、メイはまだ三歳にもなっていなかった。だから……彼女には、母と一緒に食卓を囲んだ記憶が、ほとんどないのです」
その言葉に、ロッテの中にまた一つ、小さな灯りがともったような気がした。
(思い出がないなら、せめて……一度でも、記憶に残る“夕食”を)
こうして、ロッテはメイスィエとダンク=ユーウエル侯爵とともに、屋敷の夕餉を囲むこととなった。
***
ダイニングに通されると、食卓には彩り豊かな料理が並べられていた。
だが、決して華美ではなく、どこか温かみのある、家庭的な品々。
「今日は、メイの好きなものを……と伝えてありました」
「……ご配慮、ありがとうございます」
ロッテが椅子に座ると、すぐにメイスィエが横の椅子にちょこんと腰を下ろし、手をつないできた。
「いっしょに、いっしょにたべよ!」
「ええ、いただきましょうね」
祈りの言葉を口にして、ロッテはフォークを手に取った。
最初に手を伸ばしたのは、温かなじゃがいものポタージュだった。
「おいしい……」
「でしょっ! このスープ、わたし大好きなの!」
「メイちゃん、好きなものがたくさんあっていいわね」
「うんっ。ママといっしょに食べると、もっとおいしいの!」
また“ママ”と呼ばれたが、ロッテは訂正することができなかった。
この子にとっては今、この時間こそが夢に見た“現実”なのだろう。
そんな中、ダンクが静かに語りかける。
「……今夜の記憶が、あの子にとって、どれほど貴重なものになるか……私には痛いほどわかります」
「わたしに、できることがあるなら……それは、うれしいことです」
夕食のあいだ、メイはずっと笑っていた。
スープを飲みながら、ロッテの袖をちょいちょいと引き、小さな声で自分の好きなお菓子の話をしたり、お庭で散歩した出来事を話したり。
ロッテは、まるで自分が誰かの“帰る場所”になったような、不思議な気持ちに包まれていた。
(わたしは、この子の“ママ”にはなれない。でも……)
もしも、あのレッカ姉さまが今も生きていたなら。
きっと、今日のように、笑いながらメイと一緒に食卓を囲んでいたのだろう。
そんな“もしも”を、ほんの一日だけでも、わたしが埋めてあげられるなら。
それはきっと、悪いことじゃない。
「……ママ?」
「え?」
ふと顔を上げると、メイがほほえんで言った。
「また、明日も……ごはんいっしょにたべようね?」
ロッテは、すこしだけ目を伏せ、やわらかく笑った。
「……それは、ちょっと考えさせて?」
「えーっ、やだぁー!」
くすくす笑いながら、幼い娘の声が広がっていく。
その声が、屋敷の広い天井に届くころ、ロッテの心には、一つの迷いが宿りはじめていた。




