第20話 一度だけの訪問
『一度だけの訪問』
春の陽差しが降り注ぐ昼下がり。ルダムデン伯爵邸の応接間は、香ばしい紅茶の香りに包まれていた。
ロッテは、母と向かい合ってソファに座り、父・エルマーは少し離れた書類机に腰かけている。重々しい空気をほどくように、母が銀のティーポットから紅茶を注ぎながら優しく口を開いた。
「ロッテ、今日いらした使者の話、聞いたわよ。ダンク=ユーウエル侯爵が、あなたに会いたいと」
「……はい。父様にも、もう伝わっていると思うけど」
ロッテはカップをそっと受け取り、視線を伏せた。
午前中、王都からの使者が訪れ、丁寧な言葉でこう伝えてきた。
「王命による縁談である以上、正式な拒絶の前に一度はお会いするのが礼儀かと。侯爵はそれ以上の無理強いは一切せず、あくまで形式的に“会っていただきたい”とのこと。娘殿にも、お顔を見せてほしいと」
父も母もその場に同席していた。使者はあくまで柔らかく、だが王命を受けた者としての威厳も持ち合わせていた。
「……わたし、最初は絶対に会いたくないって思ったの。でも……話を聞いているうちに、これは“誠意をもって断るための一歩”なんだって、思い直したの」
ロッテはゆっくりと父の方を見た。
「お父様。もし、わたしが一度だけ会って、それでも気持ちは変わらないって言ったら……そのあと、ダンク侯爵に正式にお断りしても、よろしいですか?」
エルマーは、腕を組みながらしばし沈黙し、やがて小さくうなずいた。
「当然だ。使者が言っていたように、形式的な対面にすぎん。お前の気持ちが揺らがぬのなら、それ以上の話になることはない。……王命とはいえ、我が家の娘を強制的に嫁がせる筋合いはない」
その言葉に、ロッテは胸をなでおろした。
母も穏やかな笑みを浮かべながら、そっと声をかけてくる。
「でも、ロッテ。一度お会いするからには、礼儀は大切よ。ダンク侯爵はレッカを心から愛していた人。あなたを“後添え”として見ているかは分からないけれど、少なくとも真面目なお人柄なのは確かよね」
「うん……母様の言う通りだと思う。レッカ姉さまのこと、ちゃんと胸に抱えたまま生きてきた人だって、わたしも思う」
「……それに、侯爵家の幼いお嬢さんにも会うのだろう?」
「……はい。前に会った時は、三歳ぐらいだったかしら。それがもう六歳になるって、時間が経つのは早いですわ」
ロッテは少し懐かしむような顔で答えた。
それと同時に疑念も浮かんだ。幼い娘──ロッテが“母親”のような役割を求められていたとしたら?
(マルセルと一緒にいたいという気持ちが一番大事。小さな子供のお母さんなんて、わたしにはまだ早すぎるし……とても考えられることではない。
父がふと、低い声で言った。
「ロッテ。侯爵が“お前に決定を迫るような態度”を取ったときは、その場で席を立っていい。その時点で、話は終わりだ。いいな?」
「……はい」
「だが、相手が誠意を持って接してくるのなら、お前も誠意で返しなさい。それが、ルダムデン家の娘としての矜持だ」
「……わかってる。自分で決めた道だから」
母がそっと手を添えてきた。
「ねえ、ロッテ。もしも……もしも、マルセルとこれからの人生を歩むつもりなら、この縁談をどう断るかは、本当に大事なの。誠実に、そして穏やかに終わらせてあげて」
「……うん。ちゃんとする。あの人のためにも、わたし自身のためにも」
窓から見える庭には、少し早咲きの白い薔薇が風に揺れていた。
未来の選択は、たった一度の訪問で変わるものではない──けれど、ロッテは覚悟していた。誤解を生まぬよう、誰も不幸にならないように、ちゃんと筋を通すと。
そして、父が口を開いた。
「……では、こちらから日程を調整して使者に返答を出す。ロッテ、体調を整えておけ」
「はい。ありがとうございます、お父様」
「一度だけ会う」
それは拒絶のための礼儀であり、心の整理のための時間でもある。
だが、心の奥底では、もう答えは決まっていた。
(わたしが行くべき場所は……マルセルの隣。それだけは、揺るがない)
ロッテは目を閉じ、静かに紅茶を口に運んだ。
その温かさが、未来へと向かう力になるように。




