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第19話 揺れる縁談

『揺れる縁談』

 春霞のなか、ルダムデン伯爵邸の庭には淡い花が咲き始めていた。けれど、ロッテの心は、その穏やかな景色とは裏腹に、張りつめた空気に満ちていた。


 久々に帰ってきた屋敷の重厚な扉をくぐり、執事ヴィントに出迎えられたとき、父の書斎にいると告げられた。


「……すでに、お嬢様のお戻りをお知りです」


「そう……ありがとう。ひとりで行くわ」


 ロッテはため息をつきながらも、意を決して書斎の扉をノックした。


「お入り」


 父・エルマー=ルダムデン伯爵の低く冷静な声が、部屋の奥から返ってきた。


 ロッテは静かに扉を開ける。書斎の中央に立つ銀髪の男、鋭い灰色の目。その背筋の伸びた姿が、いつもよりほんの少しだけ、重たく見えた。


「久しいな、ロッテ」


「お父様……」


 静かに椅子に座ると、父もその向かいに腰を下ろした。


「卒業式の日にいなくなったと聞いて、どうなることかと思ったが……無事で何よりだ」


「……ご心配をかけて、すみません。でも、少しだけ時間が必要でした」


「理由は聞かなくてもだいたい察しはつく。ユトレヒト伯爵家の坊主には、私も腹を立てている」


 エルマーの声は冷たく沈み、ロッテは少しだけ胸を痛めた。


「でも……今日はそのことで来たんじゃないの」


「ほう?」


「……マルセル=ナントリーヌさんと、正式にお付き合いをしています。旅の間に……たくさん話をして、お互いの気持ちを確かめ合いました」


「ナントリーヌ家の三男坊か。真面目で筋の通った青年とは聞いているが、第三子である以上、爵位も相続せんぞ」


「それでも構いません。わたしは、彼と一緒に生きていけるなら……それで」


 父は一度だけ深く目を閉じると、机の引き出しから一通の封書を取り出した。


 ロッテの胸が、ざわついた。


「……これは?」


「ダンク=ユーウエル侯爵からの縁談状だ。王命で正式に届けられた」


「……!」


「彼の妻、レッカが亡くなって三年。彼には六歳になる娘がいる。知っての通り、ユーウエル侯爵家は軍部の要。政治との関係も深い。加えて……お前の従姉を、最後まで誠実に愛し、支えた男だ」


 ロッテは唇を噛みしめた。


 ダンク。赤髪に黒い瞳。感情をあまり表に出さない、真面目な人。レッカの通夜で顔を合わせたきりだったが、あの時の沈痛な表情は忘れられない。


「王命、というのは……わたしに断る権利はないってこと?」


「そうではない。王の意志は、あくまで“推薦”だ。だが……もしこれを断れば、政治的に波紋が生まれるのも事実だ」


 ロッテは息を呑んだ。視界の隅で、春の陽が差し込む。


「でも……それでも、お父様はこの手紙を、わたしに見せた」


「私はお前の父であり、この家の当主だ。だが、お前はもう子どもではない。人生の伴侶を誰にするか、それを決めるのは……ロッテ、お前自身だ」


「……!」


「仮にお前がマルセルを選ぶというのならば、私は彼をこの屋敷に招いて話をしよう。爵位がないことも、国籍が違うことも問題ではない。ただ──お前を本当に幸せにできるかどうか、それだけを問う」


 ロッテの瞳に、じんわりと涙がにじんだ。


「……ありがとう、お父様。でも、やっぱりわたし……ダンク様じゃない。マルセルがいい」


「理由を聞かせてくれるか?」


「わたしが傷ついて、もう誰も信じられなくなりそうだったとき……マルセルは、手を伸ばしてくれた。肩を抱いて、泣いても怒っても、全部受け止めてくれたんです」


 父は黙って、娘の言葉を聞いていた。


「きっと、ダンク様も素晴らしい方だと思う。でも……彼が愛したのは、レッカだった。わたしが代わりになれるわけがない。誰かの“代わり”じゃなくて、“わたし”を見てくれる人がいい」


 その言葉に、父はふっと目を細めた。


「なるほどな……お前は昔から、誰かの後ろではなく、自分の足で立とうとする子だった」


「だって……ルダムデン家の娘ですもの」


「……まったく、強くなったものだ」


 しばらく沈黙が流れた。


 そののち、父はゆっくりと縁談状を封筒ごと仕舞い込んだ。


「わかった。王には、私から説明しよう。……マルセルとのこと、正式に話を進めるなら、近いうちに彼を呼びなさい」


「はい……ありがとうございます」


「ただし、ひとつだけ条件がある」


 ロッテはびくりと背筋を伸ばす。


「な、何ですか?」


「この先、どんな困難があろうとも、自分で選んだ男だと胸を張って言えるように生きなさい。それが、家を出る娘としての覚悟だ」


 ロッテはきゅっと胸元を押さえ、深く頭を下げた。


「はい。必ず、証明してみせます」


 窓の外では、庭の花がひらひらと舞っていた。


 王命すら超える、父と娘の信頼。


 ロッテは、未来を自分の手で選び取った。

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