第18話 二人の旅立ち
『この夜が明けても、きっと』
王都の灯が、遠く小さく瞬いていた。
温泉街からの帰り道。ふたりきりの馬車の中で、ロッテとマルセルは確かに言葉を交わし、想いを伝え合った。未来への迷いと希望。やがてそれは、そっと指先を絡めるぬくもりへと変わっていった。
──そして今、ロッテは彼のベッドの中にいた。
夜はとうに更けている。
魔法学院の寄宿舎。卒業生のために一時的に用意された静かな部屋。窓の外には、まだ星がいくつか瞬いていた。
ロッテはゆっくりと目を開ける。隣には、眠るマルセルの姿。
静かな寝息を立てている彼の胸に、ロッテはそっと手を置いた。あたたかくて、広くて、少しだけ不器用なこの人のすべてを、自分は知ってしまったのだと実感する。
初めてだった。
恋人としても、ひとりの女性としても。
戸惑いや緊張はあったけれど、不思議と恐くはなかった。彼の手が優しくて、声が穏やかで、ただただ心が溶けるような夜だった。
「……マルセル」
小さく名前を呼ぶと、彼はうっすらと目を開けた。
「ロッテさん……? 起きてたんですか?」
「うん。ちょっとだけ、考え事してた」
「……体、大丈夫ですか?」
「ふふ、優しいね。平気。むしろ……幸せだった」
そう言って、彼の手を握る。
指先が触れ合うだけで、胸がじんわりと熱くなる。たった一晩で、ふたりの距離が大きく変わったのだと、改めて実感していた。
「ロッテさん……ボク、本当に……うれしかったです。こんなボクを、選んでくれて」
「選んだんじゃなくて、気づいたの。マルセルがそばにいてくれると、わたしの心が穏やかになれるって」
彼の胸にそっと額を預ける。静かな夜。言葉は少なくても、それだけで十分だった。
「明日……お父様に会いに行くんですよね?」
「うん。ちゃんと話すよ。もう、誰かに決められた未来じゃなくて、自分で選んだ道を歩きたいって」
それは簡単なことじゃない。ルダムデン伯爵家の令嬢として、そしていち人間としての覚悟が必要だった。
けれど、ロッテはもう迷っていなかった。
「わたし、あなたと出会えてよかった。本当に、よかったって思ってる」
「ボクも……ロッテさんがいてくれて、本当に救われたんです」
マルセルは、ロッテの髪に手を伸ばし、そっと撫でた。銀色の髪が、星明かりに照らされて揺れる。
「……じゃあ、もう少しだけ、このままでいてもいい?」
「もちろんです」
ふたりは再び、ぴたりと寄り添う。
心と心が重なって、静かな時間が流れていく。
言葉のいらない、あたたかくて穏やかな夜だった。
◆
夜が明けるころ。
鳥のさえずりが、寄宿舎の外から聞こえてくる。ロッテはそっと目を覚ました。
カーテン越しの朝日が、部屋をやわらかく照らしていた。
マルセルはまだ眠っている。眼鏡を外した素顔は、寝起きでもやはり整っていて、つい見入ってしまいそうになる。
「……さて。行かなきゃね」
小さくつぶやいて、ロッテは静かにベッドを抜け出す。身体には少しだけ昨夜の名残があったけれど、それもどこか誇らしく感じていた。
服を整え、髪を結い直し、最後に眼鏡をかける。
“いつものロッテ”に戻ったはずなのに、胸の奥はまるで別人のようにふわふわとしていた。
準備を終えたロッテは、そっとマルセルの頬に手を添えた。
「マルセル」
「……ん、ロッテさん……?」
まどろみの中で、彼が目を開ける。
柔らかく微笑む彼の目が、とても優しかった。
「行ってくるね。父様に、わたしたちのこと、ちゃんと話してくる」
「……はい。気をつけて。ボク、ここで待ってます」
ロッテは大きく息を吸い込み、そして彼の額に、静かにキスを落とした。
「心配しないで。ちゃんと帰ってくるから」
「ボク、信じてます」
ふたりは見つめ合い、少しだけ照れながら微笑んだ。
そして、ドアを開ける音がして、ロッテの姿は朝の光の中へと消えていった。
これが終わりじゃない。始まりなのだと、ふたりは知っていた。
この夜が明けても、心の中には確かに、互いの存在がある。
ふたりの未来は、これからゆっくりと形になっていく。
それはまだ小さな一歩かもしれない。
けれど、確かな希望を胸に――ロッテは歩き出した。