第13話 ふたりで迎える夜、ふたりで重ねる想い
『ふたりで迎える夜、ふたりで重ねる想い』
オルビス渓谷の温泉宿。夜はすっかり更け、遠くから虫の音と川のせせらぎが静かに聞こえる。
ロッテ=ルダムデンは、浴衣の袖をひらりと揺らして縁側に出た。夜の風が頬をなで、湯上がりの火照りをやさしく冷ましてくれる。
「……なんか、眠れそうにないなぁ」
ぽつりとつぶやいたそのとき。
「おやすみ前に、ちょっとだけ飲みませんか?」
背後から声をかけてきたのは、マルセル=ナントリーヌだった。
眼鏡をかけたまま、彼は木箱から取り出したワインの瓶と、小さなグラスをふたつ持っていた。
「え、飲めるの?」
「宿のご主人が、“卒業祝いに”って。地元産の果実酒だそうです」
ふたりは湯上がりの体に浴衣姿のまま、縁側に並んで座った。
「乾杯、しますか」
「……うん。じゃあ、卒業と、自由になったことに」
カチンと小さく音を立てて、グラスがぶつかる。
夜空には星が広がり、ふたりの影を月明かりがそっと照らしていた。
ワインは香りが強く、けれどまろやかで、ほんのり甘かった。
「……あ、これ美味しい。ふわふわするかも」
「飲みすぎ注意ですよ」
「マルセルこそ……結構飲んでるんじゃない?」
「うっ……すみません、酔うとちょっと……気が大きくなるというか……」
「ふふっ。昨日の酒場、思い出した」
ふたりでくすりと笑い合う。少しずつ、距離が近づいていくのがわかる。
ロッテは湯飲みの底を眺めながら、ふいにぽつりとつぶやいた。
「ねえ、マルセル。わたし、今……すごく幸せかも」
「……ボクも、です」
「婚約破棄されたときは、本当にもう終わりだって思った。でも、こうして誰かと、同じ時間を過ごせるって……嬉しい」
「それがボクでいいなら、ずっとそばにいたい」
その言葉は、まっすぐに胸を打った。
ロッテの頬がわずかに赤く染まるのは、ワインのせいだけではなかった。
気づけば、ふたりの肩はぴたりと触れ合っていた。
「……ねぇ、マルセル。こっち向いて」
ロッテがそっと、彼の顎に指を添えた。
驚くマルセルの眼鏡を、彼女が静かに外す。
「……やっぱり、かっこいいんだね。眼鏡、なくても」
「……ロッテさん、ボク、今……心臓がやばいです」
「ふふ……じゃあ、こっちもやばいかも」
そのまま、唇と唇が、ゆっくりと重なった。
ふたりとも、緊張していて、どこかぎこちなかったけれど、それでも――あたたかかった。
しばらくして、離れた唇の間に、そっと息が交わる。
「……ロッテさん」
「ん……なあに?」
「今夜だけじゃなくて、ずっと……ボクのそばにいてくれませんか?」
彼の問いに、ロッテはまっすぐ目を見て、頷いた。
「うん。……わたしも、そうしたい」
その夜、ふたりは同じ布団に入った。
最初は少し離れていたけれど、ふたりの手はずっと繋がれていた。
マルセルが囁くように言う。
「寒くないですか?」
「ううん。……むしろ、あったかい」
「もっと近くに……寄ってもいいですか?」
「うん。……わたしも、そうしたいと思ってた」
肩が触れ、額が寄り添い、そしてもう一度、口づけを交わす。
優しく、静かに、けれど確かに、ふたりの想いは重なっていった。
掛け布団の中、ふたりは互いの心音を感じながら、言葉では語れない気持ちを確かめ合う。
それは決して激しいものではなく、ただ純粋に、お互いの存在を求め合うような夜だった。
過去の傷も、これからの不安も、いっときすべて忘れられるほどに――。
ふたりがひとつになったのは、心も体も、同じ未来を見つめたいと思ったから。
明け方、ロッテはそっとマルセルの胸に頬を寄せたまま、眠っていた。
マルセルは、その髪をそっと撫でながら、静かに微笑む。
「おやすみなさい、ロッテさん。……あなたが笑ってくれるなら、ボクはどこまでも、隣にいます」
新しい朝は、すぐそこまで来ていた。