第12話 ダンク=ユーウエル侯爵からの縁談状
『娘を想う父の手紙』
午後の日差しが、書斎のステンドグラスを淡い青と金に染めていた。
ルダムデン伯爵は、ネーデラ王国西部・ルダムデンを領土としている。その伯爵家の王都にある伯爵邸の一室で、エルマー=ルダムデン伯爵は無言のまま机に向かっていた。銀髪の髪を後ろに撫でつけた五十過ぎの男の顔には、深い皺と疲れが刻まれている。
その手には、一通の手紙が握られていた。
――ダンク=ユーウエル侯爵からの縁談状。
封は美しい紋章付きの赤い蝋で閉じられており、文面は完璧に整えられた貴族らしい礼節と文体で綴られていた。
内容は簡潔である。
「ロッテ=ルダムデン嬢との婚約を望む」
侯爵家未亡人の再婚先。貴族間の再婚は珍しくないが、今回の申し出はあまりに早すぎた。
つい先日、王立魔法学院の卒業式にて――娘ロッテは婚約者であったハーグ=ユトレヒトに一方的に婚約破棄され、王都でも小さな騒ぎになっていた。学院内では美姫と呼ばれ、才色兼備の娘として名を馳せていたロッテだったが、その件以来、彼女は行方をくらませていた。
「婚約破棄されてすみません。気分を変えるために温泉旅行に行きたいと思います。数日中に戻ります。ロッテより」
と簡単な手紙が屋敷に届けられていた。
その旅は数日で戻る予定なのだろう。しかし、彼女の行方は知れない。
王都でも、ルダムデン領でも、目撃情報は途絶えている。
「一体……どこに行ったんだ、ロッテ……」
重く呟く声に、老執事の気配も息をひそめていた。誰もが、伯爵の機嫌が悪いことを悟っている。
エルマーの目の前には、もう一つの問題があった。
――ダンク侯爵からの縁談申し込みには、「王命」が添えられていたのだ。
「この縁談は、陛下の意志によるものと承っております」
この一文が、すべてを変えていた。
国王の意志。拒絶すれば、ルダムデン家に不利益が生じる可能性もある。ましてや、侯爵家と伯爵家では、格も違う。
「間の悪いことに、娘は姿をくらましたまま。まるで、私に判断を迫っているかのようだ」
侯爵の側から見れば、むしろチャンスと見たのだろう。
元々、ダンク=ユーウエル侯爵とルダムデン家は遠い親戚にあたる。彼の前妻は、ロッテの従姉であるレッカだった。だが、彼女は病に倒れ、三年前にこの世を去った。
その後、侯爵は娘を抱えて未亡人となり、政務に忙殺されながらも、後妻探しを続けていたと聞く。そして、ハーグとの婚約破棄の報を聞くやいなや、即座にこの縁談を申し込んできた。
――どれほど早く準備していたのか。
エルマーは知らぬ間に机を拳で叩いていた。
「ふざけた話だ……!」
王命を盾に、娘を『補充』するつもりなのか。まるで、欠けた駒を埋めるかのように。
ロッテは、そんな扱いを受けていい娘ではない。
誰よりも誠実で、誰よりも努力家で――誇り高きルダムデン家の宝だ。
それなのに、運命は皮肉なもので。
最初の婚約は、愛のない政治的なものだった。
二度目は、王命ときた。
「ロッテが何を望んでいるのかすら、わからん」
見つけ出して問いたい。お前はこのまま、侯爵の後妻として生きたいのか? それとも、別の未来を探しに行ったのか?
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
「ロッテが、幸せでいてくれるなら……それでいい」
エルマーの声は、かすれていた。
娘が誰と結ばれようと、何を選ぼうと、自分はそれを応援する覚悟がある。だが、そのためには――まず、娘が自分の意思で帰ってくる必要がある。
彼女のいないこの邸宅は、まるで魂を抜かれたように静かだった。
庭の薔薇も、ロッテの世話がなくなってから元気がない。食卓も、妙に広く感じる。
このまま、王命に従い、ロッテを差し出すわけにはいかない。だが、拒めば家を危機に晒す。
「……まるで、悪い夢だな」
そう呟いたとき、扉が控えめにノックされた。
「伯爵様、王都より使者がまいっております。侯爵家からの再確認だそうで……」
「……出直してもらえ。今はまだ返答できん」
「かしこまりました」
使用人が下がると、エルマーはそっと立ち上がり、窓の外を見た。
春を迎えたばかりのルダムデンの森が、やわらかな陽光に包まれている。あの森の向こうには、きっとロッテがいる。自由を求め、自分の未来を思い描いて、どこかで迷い、どこかで笑っているのだろう。
「ロッテ。どうか……自分で選ぶんだ。誰の命令でもない、誰の期待でもない、お前自身の人生を」
父として、伯爵として――苦渋の決断を迫られる日々。
だが、彼の祈りはただひとつだった。
「……お前の幸せが、すべてだ」