第11話 ふたりで進む未来 ―温泉旅行編―
『ふたりで歩む朝、ふたりで進む未来 ―温泉旅行編―』
朝食の余韻が残るキッチンで、ロッテ=ルダムデンは洗い終わったマグカップを丁寧に拭いていた。いつもの真面目な表情に少しだけ笑みを浮かべる彼女を、マルセル=ナントリーヌは静かに見つめる。
「……なんだか、ほんとに夢みたいだな」
ついぽつりと漏れたその言葉に、ロッテはくすっと笑った。
「何が?」
「昨日まで他人だったふたりが、今は一緒に台所に立ってるって」
「ほんとね。……でも、悪くない夢かも」
そんなやり取りのあと、ロッテは少し困ったように眉をひそめた。
「でもさ、マルセル……正直、街を歩くの怖いんだよね。卒業式の婚約破棄、結構いろんな人が見てたから……」
「ああ……それ、ボクも思ってました」
頷くマルセルの眼鏡の奥には、ほんのりとした気遣いの色がにじんでいた。
「だから、ボク、ひとつ提案があるんです」
「……提案?」
「この一か月の自由期間、どこかに旅行に行きませんか? ふたりで」
「……えっ?」
ロッテの目がまんまるになる。
「誰も知ってる人がいない場所で、少しだけ気分転換して、それからまた戻ってきてもいいと思うんです。……温泉とか、どうです?」
「温泉……!」
その響きに、ロッテの目がきらりと光る。
「いいかも! 温泉って言ったら、あの山のほうにあるって聞いたことある。確か、オルビス渓谷の湯治場……」
「ボク、地図と馬車の手配、すぐしますね」
「……ふふっ、頼りになるじゃん、マルセル」
その日の午後、ふたりは最小限の荷物をまとめ、小さな馬車に揺られて旅立った。
***
オルビス渓谷の温泉地は、王都から半日ほどの距離にある静かな谷あいの村だった。夜には星が降るように見えると評判の秘湯で、旅人や傷を癒す兵士たちがぽつぽつと訪れる。
「うわあ……!」
ロッテは宿に到着するなり、思わず感嘆の声をあげた。山間に建つ木造の宿舎はこぢんまりとしていたが、湯気がふわふわと立ちのぼり、どこか懐かしい匂いが漂っていた。
「部屋からも渓谷が見えるって。しかも、貸切の露天風呂つきです」
「えっ、すごっ! なんか、贅沢してない……?」
「昨日、泣いてた人へのごほうびです」
「……それ、自分にもごほうびってことでしょ?」
ロッテは呆れたように笑い、そしてふいに真剣な顔になった。
「ありがとうね、マルセル。本当に……逃げたいだけじゃなくて、わたしのことも考えてくれて」
「……当たり前です。ボクは、あなたと向き合いたいって思ってますから」
ふたりの視線がふと重なる。
ほんの一瞬の静寂のあと、ロッテがそっぽを向いた。
「……ねぇ、そろそろ温泉、行こっか」
「えっ、い、今?」
「うん。さすがに一緒には入らないけど……混浴の露天もあるって、さっき宿の人が言ってた」
「ど、どうしてそんな情報を……」
「ふふっ。女子ってそういうの敏感なんだよ」
顔を赤くしながらも、どこか楽しげなロッテを見て、マルセルもふっと笑った。
***
湯気の立ち込める岩風呂の端。木の仕切りを挟んで、ふたりは背中合わせで湯に浸かっていた。
「……あったかいね」
ロッテの声が、やわらかく響く。
「はい。……こんなに心がほどけるの、久しぶりかもしれません」
「わたしも。……あんなことで泣いたの、ほんとバカみたい」
「泣いていいんですよ。泣いて、笑って、それで前に進めれば……」
しばらく、湯の音と虫の声だけがふたりを包んだ。
「ねえ、マルセル」
「はい」
「……王宮魔法団って、やっぱり危険な任務もあるの?」
「ええ、場所によっては。でも、しっかり訓練されてますし、基本は王宮の警護や儀式関係が主です」
「……そっか。なら、ちょっと安心したかも」
「ロッテさん……」
「ん?」
「……いつか、正式にあなたの父上に挨拶に行きます」
「……えっ」
湯気の向こうで、ロッテは絶句した。
「い、いきなりすぎない!?」
「いずれ通る道ですから。あの、噂では……かなり娘さんに甘い方だとか」
「甘いどころじゃないよ……! 父さま、たぶん今も婚約破棄の件で怒り狂ってるし……『ハーグの首をはねてやる』って叫んでたって、聞いたよ」
「それは……ご挨拶、命がけですね……」
「うん、ほんとに気をつけてね……」
ふたりしてため息をつき、それから同時に笑い声を漏らした。
***
その夜、星が降るような夜空の下、ふたりは露天の縁に並んで腰を下ろしていた。湯上がりの頬が赤いのは、湯気のせいか、それとも別の理由か。
「明日は、近くの市場に行こうか。手作りのお菓子があるって」
「へぇ、それは楽しみですね。お土産にもいいかも」
「うん、父さまにも……」
言いかけて、ロッテはふっと言葉を切る。
「……マルセルと一緒なら、怖いものなんてないかもね」
「……ボクも、同じ気持ちです」
やがて、ロッテがそっと彼の手に自分の手を重ねた。
柔らかくて、少しだけ震えていて、でも確かなぬくもり。
未来はまだ、ぼんやりと霞んでいる。
けれど、ふたりで歩く一歩一歩が、その道を照らしてくれる気がした。
「……じゃあ、改めて。婚約者としての花嫁修業、がんばりますか?」
「今度は、ボクが先生になってもいいですか?」
「ふふ、先生。よろしくお願いします、マルセル先生」
旅の夜は、温かな湯のように、ふたりの距離を静かに近づけていった。