第1話 卒業式に婚約破棄されたロッテ=ルダムデン伯爵令嬢
『魔法学院、最後の一幕』
晴れ渡る青空の下、ネーデラ王国魔法学院の広場には、卒業生たちの笑顔が溢れていた。銀糸を織り込んだマントが陽にきらめき、魔法石で飾られたタクトが記念品として手渡されていく。華やかな卒業式。その中央で、ひとつだけ異様な空気が漂っていた。
「これ以上、俺様は君と婚約関係を続けるつもりはない。悪いが、今日で終わりだ」
その言葉に、会場の空気が凍りついた。
「……なに、言ってるの……?」
ロッテ=ルダムデン伯爵令嬢。銀髪をきっちり結い、理知的な眼鏡越しに目を見開いていた。彼女の横に立つのは、かつての婚約者、ハーグ=ユトレヒト。銀髪の美青年にして、オレ様気質の伯爵家の嫡男。式典の途中、突然の婚約破棄宣言だった。
「俺様、もうアインと付き合ってるから。あいつの方がよっぽど魅力的でさ?」
そう言って彼が肩を抱いたのは、ピンクの髪を軽やかに揺らした少女。アイン=トホーフェン、男爵家の令嬢。にやりと笑って言う。
「だってぇ、ロッテってお堅いんだもん。男の人、楽しませなきゃ♡」
会場がざわつく。教師たちは困惑し、生徒たちは動揺し、ロッテの目元にじわりと涙が浮かぶ。
「……一年後に、結婚するって……約束してたじゃない……」
「そんなの、気が変わったんだよ。俺様のせいにすんなよな?」
その瞬間、ロッテは耐えられなくなった。誇り高き彼女の頬に、一筋の涙が伝い落ちる。
「……やめて……もういい……っ」
振り返り、駆け出した。銀髪が宙に舞い、ドレスの裾が風を切る。群衆の視線を引き裂くように、ロッテは会場から飛び出して――。
「――きゃっ!」
誰かに思い切りぶつかった。
「あっ、だ、大丈夫ですか……?」
低く、どこか気の弱そうな声。ぶつかった相手は、金髪に分厚い眼鏡をかけた男子生徒――マルセル=ナントリーヌだった。物静かで目立たない、けれど学院でも知る人ぞ知る天才魔術師。実は隣国の伯爵家の三男で、わけあって留学中だったという噂もある。
「ご、ごめんなさい……! いま、わたし……っ」
ロッテは足元を見て顔をしかめた。どうやら、転んだ拍子に足を捻ってしまったらしい。小さく呻きながら地面にしゃがみ込む。
「足……ひねったみたいですね。すぐに医務室に……」
マルセルはおろおろとしながらも、そっとロッテの腕を取ろうとする。彼の手は冷たくも、どこか優しかった。
「ダメ……式場に戻るなんて……いやなの……」
ロッテはかぶりを振った。人の目が痛い。あの場に戻れば、また笑われる。噂される。傷が、広がってしまう。
「わかった……じゃあ、外に出ましょう。ボクが支えますから」
マルセルは眼鏡の奥で静かに目を細めた。ゆっくりと、彼女の体を支える。ロッテの体重を感じても、嫌な顔一つせず、むしろ少し照れたような仕草を見せるマルセルに、ロッテは一瞬だけほっとした。
学院の門を抜けると、夕暮れが街を金色に染めていた。ロッテの歩幅に合わせて、マルセルはゆっくりと歩いた。街角に立つ、木造の看板。その文字がマルセルの視界に飛び込んだ。
《蒼月亭 魔酒とハーブの宿酒場》
「……ん……」
マルセルが小さく喉を鳴らした。無意識に、口元がゆるむ。彼の頬がわずかに赤くなる。
「……飲みたいの?」
ロッテがふと、尋ねた。マルセルは慌てて視線を逸らした。
「い、いえっ、そんなことは……! た、ただ、ちょっと看板が……気になっただけで……!」
「ふふ。いいよ、わたし、おごってあげる」
「えっ……?」
ロッテは歩きながら微笑んだ。さっきまで泣いていたとは思えない、凛とした微笑みだった。
「わたしも今日は……ボロボロになって飲みたい気分なの。だから、付き合ってよ。……先に酔いつぶれたら許さないから」
「は、はいっ……!」
マルセルは思わず背筋を伸ばした。そして彼女の肩を支えたまま、ゆっくりと蒼月亭の木戸を開いた。
チリン、と澄んだ鈴の音が鳴った。夕暮れと、木の香りと、ほんのりと漂うハーブ酒の香りが、彼らを迎え入れた。
不思議な二人の、忘れられない夜が――始まろうとしていた。