第二話 墜落令嬢
「テリア・フラメル。俺の顔に覚えはあるか」
兵士の一人が兜を脱ぐ。その下から出てきた黒髪の中年の男に、しかしテリアは全く覚えが無かった。
彼女はとにかく、人の顔だけは忘れないように教育されてきた。その彼女が覚えていないのだから、まずそもそもあった事すらないのだろう。
「申し訳ありませんが、記憶には。ここで初めてお会いするのではないでしょうか」
「そうだろうな、貴様ら貴族は、下々の人間の事など知らぬだろう」
吐き捨てる男の言葉には、はっきりと侮蔑が混じっていた。
本来、伯爵階級である彼女にそのような口をきくのは不敬罪で拘束されてもおかしくはない。罪人の血族として拘束されている立場ではあるが、それでもテリアが貴種である事実は変わらない。にも拘わらず、男は彼女に対する侮蔑の意思を、隠すつもりもないようだった。
周囲の兵士達に、それを止める様子はない。それは、テリアの目にはむしろ男に賛同しているようにも見えた。
ここに来て、テリアは嫌な予感がしてきた。
精一杯の気勢を張って、男を宥めようと声を上げる。
「……今のお言葉は、聞かなかった事にします。それで、何故このような事を。貴方達の任務は、私をポールウィン男爵の元へ護送する事のはずでは……?」
「俺の娘は、貴様の父親に売り飛ばされた」
だが、テリアの言葉に返ってきたのは、端的な恨みの言葉。テリアは緑色の目を見開いた。
「そ、それは……」
「今年で16になる。良い嫁ぎ先を考えてやろうと、方々に話を通していた。それが固まってきた頃に、突然勤め先から姿を消した。勝手に縁談を進めた事に腹を立てたのだろうか、最初はそう思ったが一週間、二週間、ついには一月。とうとう娘は返ってこなかった。あちこちを探して回り、ついに娘の名前を見つけたのが……事件の犠牲者のリストだった。俺の気持ちが、貴様にわかるか、テリア・フラメル」
男が煮えたぎるような憤怒を口から吐きながら、剣を引き抜く。それに合わせて、周囲の兵士も剣を抜く。
テリアはとっさに馬車の車掌、他の兵士に視線を向けるが、彼らはつまらなさそうにその場を見ているだけだ。小さく笑っている者もいる。
じり、と兵士達が剣を手に包囲を狭めてくる。
テリアの背後に、逃げ場はない。じり、と後退ると、崖が崩れ、一つかみほどの土が遥か下方へと落ちていった。
テリアはなんとか兵士達を説得しようと声をあげる。
「その事について、私には何かを言う権利はありません。ですが、この護送任務は、皇太子殿下直々に命じたもののはずです。ここで私を害しては、貴方達の不利益になるだけです。お考え直しを……」
「そんな事はどうでもいい! 貴様が人身売買に無関係であった事も、皇太子殿下の心証も、何もかも! 俺は、娘の仇を討ちたいだけだ……!」
「ひっ……」
血走った目で、男が剣を向けてくる。
顔を青ざめさせて、テリアは鈍く輝く剣の切っ先に目を奪われた。
駄目だ。
今更、何を言ってもこの人達は止まらない。
「どうせここは蛮族の領域だ。護送中に襲撃を受け、守り切れなかったとでも言えば面目は立つ」
「真相を察した所で、皇太子殿下も我々を表立って罰する事はあるまい。いや、仮に罰されたとしても本望だ」
他の兵士達も、口々に恨み言をつぶやきながらにじり寄ってくる。
突きつけられた剣の切っ先が喉元へと向けられて、テリアはじりじりと後ろに下がろうとしたが、下げた脚のかかとが空を踏んだのを見て息を飲んだ。
もう、下がる場所はない。
「死ね、テリア・フラメル!」
「っ!?」
大声を張り上げ、男が剣を振り上げた。雷のように落ちてくるその刃から逃れようと、テリアは背後へと飛び退り。
「あ……っ」
下がった先に、地面はない。
一瞬の浮遊感の後に、死神の手が彼女の手を強く引いた。
「きゃああああああああ……」
悲鳴の尾を引いて、少女の体がおちていく。その姿は崖下に広がる木々の間に吸い込まれ、そして見えなくなった。
それを崖上から見届けた兵士達が顔を見合わせる。
「……死んだか」
「この高さだ、助かる訳が無い。仮に木の枝に引っかかったりして生きながらえても、大怪我は免れられない。そっちの方が悲惨かもな、血の匂いを嗅ぎつけた獣に生きたまま貪られるだけだ」
「あるいは、人食いの蛮族にでも拾われるかだな」
吐き捨てて、兵士達は馬車に乗り込み、来た道を引き返した。
◆◆
崖の上から墜落したテリアは、果たしてどうなったのか。
大樹海を埋め尽くす、巨大な木々。鋭くとがった葉と、太い枝をはやす木々の根元は、意外にも草木は少ない。乾いた腐葉土が敷き詰められた地面の上に、一人の少女の姿があった。
「う、うぅ……」
テリアは、生きていた。
だが、無事とは言い難い。
大木の葉と枝に受け止められた事で辛うじて落下死は免れられた彼女だったが、そこから地面までの高さは、大怪我をするに充分だった。それに加え、鋭い葉や枝が服ごと彼女の肌を傷つけ、全身に切り傷のような血が滲んでいた。
「い、痛い、痛いよ……」
これまで感じた事のない激痛に泣き言を漏らす。特に、左足が酷い。脚の感覚が途中から無いくせに、激痛だけははっきりと伝わってくる。傷の具合を確かめるのが恐ろしい。捻挫どころではない、骨折か、下手をしたら足が途中で無くなってしまっているのではないかとテリアは思った。
「誰か、誰か助けて……」
か細い声で助けを求めるも、答える声はない。
「誰か……」
それでも声を張り上げるテリア。と、そんな彼女に答えるように、近くの繁みががさがさと動いた。
人? 一抹の希望にテリアの顔が輝く。だが、その笑顔は次の瞬間、恐怖に凍り付いた。




