40 完結
「君も本を全部読んだよね」
マスターに言われ、雫は頷いた。
「一颯はね、小さい頃から本当に根っからの優しい子だった。バイクレースの世界に縁があり、そこで闘いながら生きていくことは、それはそれで幸せなことだったと思う。だが、一方で、兄としてのプレッシャーや責任感、自分の弱さを見せられない中で、弟達をこの世界で守ろうとする孤独な辛さも抱えていたんだろう。ただ、何より辛かったのは、そんな中で、誰かに正直に弱音を吐いたり、甘えることが出来ない自分の情けなさだったようだね。人一倍優しいから迷惑をかけたくなくて、誰にも頼れなかったんだろう。私もこれを読むまでは、そこまで気づいてやれなかったなと思ったよ」
しばらく二人は何も言わなかった。
互いが、それぞれに一颯のことを考えているようだった。
マスターがしばらくして口を開いた。
「君は……そんなあいつの本心を見抜いていたように思うんだが」
雫はすぐに答えることが出来なかった。
マスターは、雫が話し出すのを待った。
雫は少し迷った様子をしていたが、静かにこう切り出した。
「この本、初めは一颯さんが書いたものを読むのが辛くて、見えないとこにしまい込んでいたんです。でも、颯流くんや颯くんが私を心配してくれてるのもわかっていましたし、読むことが私の責任じゃないかと思い始めて。読み進めるうちに……この本に書いてあるとおり、私が一颯さんをこう理解していたっていうことを、彼はちゃんと気づいてくれてたみたいです。だから一颯さんは、こんな私でも、頼って……結構甘えてくれてたんですね。その時には気づかなかったんですけど、あの時、そんな風に思ってたんだなっていうところが結構あって。それが、少しでも彼の助けになっていたならいいんですけど」
雫は少し照れながらそう言った。
マスターは本をめくりながら、その箇所を見つけては、フフッと声を上げた。
「私は一颯に『原稿が書き上がったらどうするんだ』って聞いてみたことがあってね。そしたら『本にする』って。『自費出版でいいから、本にしたい』と。『彼女は俺たちと絡んだせいで、三兄弟をたぶらかしたとか、変な噂をされてしまったことがあった』『そして、このことばかりが前面に出て、自分達のバイクに対する思いも、周囲に誤解されたりもした』『でも、渡来ファンでいてくれる皆さんやお世話になっている関係者の方々には、事実を知ってもらいたい』『自分達兄弟は、全てをかけてバイクに乗っているから』と。……後はね……」
マスターは雫に笑いかけると
「一颯は『俺のことを一番わかってくれている雫に、本になったら誰よりも最初に届けたい』『とても大切な人だから、彼女に一番に読んでもらいたい』そう言っていたよ」
雫は手で顔を押さえた。
堪えきれない涙が溢れ、ポタポタと、涙の雫が下に落ちた。
「本に最後、監修をして出版したのは私で、前と一緒の指定席にしたいと8耐のチケットを買ったのは颯流、本の最後のページにチケットを入れて郵送手続きをしたのは颯だよ。だから、実際に君に本を郵送したと言うのなら、私や颯流、颯になるんだけどね」
マスターは本を閉じ、雫の前にスッと置いた。
「でも、この本をあなたに届けたのは、間違いなく、一颯、本人の想いだよ」
マスターは
「ゆっくりしていって」
と言って階下に降りていった。
雫は二階の席から一度、窓の外を見た。
そして、まるで向かいの席に一颯がいるかのように
「ねぇ、一颯さん。私、あなたを少しでも幸せに出来たって、自信持っていいかな」
と呟いた。
そして、テーブルの上の
『 「鈴鹿の夏」 渡来 一颯 』
と書かれた本にそっと目を落とした。
雫は、一方通行の人波の中、今回は緊張ではなく、慣れた様子でその道を歩いていた。
そして、人混みを避けて端によると、しばらくこの時を噛み締めるようにその場に立ち止まり、視線を少し高く向けた。
私は一颯さんを見ているだけで幸せだった
優しいあの人が存在しているというだけで、本当に私は幸せだった
だから大丈夫
今、彼を思い出すだけで、心の底から幸せだと感じられるから
新たな夏。
雫は、自身が四回目となる『鈴鹿8時間耐久ロードレース』の入場ゲートをくぐった。
完




