36 前進
「いやぁー、この暑さで、選手もかなり疲労が溜まってますからね。終了まで、後、二時間を切ってからの転倒者やトラブル続出で、次々と順位が入れ変わっています。今年の8耐は波乱含みで……」
と言った実況が一度止まった。
「おっと!また転倒か!」
アナウンサーの悲鳴のような声が響く
「これは……。渡来です!渡来が転倒!渡来颯が転倒しました!」
雫は顔を伏せて耳を押さえた。
しかし、絶叫のような実況中継は、消えることはなく
「弟の颯が転倒しました!あっ、立ち上がった!大きな怪我は無いようですが、少し腕を押さえてるか。バイクは!?……起こしましたね。腕が痛そうだが、何とか起こして。んっ?どうやら、エンジンがかからないのか?!」
何故か中継が静かになった。
「あっ……。ピットまで押して行く気か?腕は……あれ、前に痛めてるとこじゃないですかね。ただ……押しますね。これは、何とかピットまで戻って、兄の颯流にバトンを繋ぎたい!」
またアナウンサーは少し黙り込んだ。
中継にはあり得ないほどの沈黙が続いた後
「去年の8耐を思い出しますね。二人はね、一颯の分も一緒に走ってますから。諦めるわけにいかないんでしょうね」
雫は必死で顔を上げた。
息が苦しく、自分が何かに押しつぶされそうだったが
行かなきゃ!
その思いで、雫はメインスタンド方向へ走った。
間に合うことはわかっていた。
走りながらも、走らなくても充分間に合うことはわかっていた。
しかし、自分だけゆっくりと戻るつもりはなかった。
1分1秒でも早くたどり着きたかった。
夕方になってもまだ暑さは続いていた。
走っては息が切れて少し歩くも、またすぐに走り出した。
メインスタンド近くまで来て、雫は立ったまま膝に手を置き、俯いてハァハァと肩で息をした。
後、もう少し
雫はメインスタンドの建物に目を向け、歩き出そうと上体を起こした。
その時、雫の耳に一方的に聞こえたのは
「一旦……渡来颯が止まったようですね。やはり押して戻るのはこの暑さでは限界か?!渡来兄弟はここでどうなるのか?!」
「あー!無理か?!腕にきてそうだ。渡来颯どうする!」
「颯が立ち止まったまま動きません!!」
その瞬間
ずっと考えないでおこうと思ったあの日の実況が聞こえた。
『あーっと!転倒!!3台!いや、4台が絡んでいる!』
『……チームと、それに……あっ!これは15番だ!15の文字が見える!最後に巻き込まれていたのは、渡来一颯!渡来一颯が転倒している!あぁー、どうしたんだ!立ち上がってこない!』
『一颯が倒れたまま動きません!!』
雫は力なくその場に立った。
あの日もこうやって雫は立ち尽くしたままだった。
思考は全て止まった
なのに、なぜか涙だけは流れた
全ての人の時計は午後7時30分に向かっていたはずだった
ただ、ここで時計が止まった人達がいた
そしてまた、それぞれが、それぞれに、ゆっくりと針を動かし始めた。
しかし、雫だけが、まるで置いてきぼりを食ったように、時間が止まったままとなった。




