麻雀の魔法 ~生前苦労して習得した魔法が転生先の異世界でチートスキルになるどころか現地の小娘相手にまるで通用しなかった件~
――畜生……どうなってやがんだ……?
男は頭を悩ませていた。
エアコンの生ぬるい風がもったりと雀荘の中を対流しているせいで、まだ昼過ぎだというのにさながら深夜のベテラン客との着卓に近い、息のつまるような感覚を錯覚する。
手牌は良い。今日しばらく麻雀を打っているが、配牌も引いて来る牌の運も極端に悪いわけではない。むしろ、安定して好調が続いていると言っていい。それに、
――俺は、今日は一度もそこまで誤った手は選んでないはずだ……。
という実感が、彼の中にはあった。
にもかかわらず、負けが込んでいる。それがどうしても信じられない。
上家が牌を積んだ山から一枚をつまんで手元へ引いて来ると、代わりに手牌の一枚を倒して晒し、場に六枚切りで並べられた捨て牌の河へと加えて捨て、今引いた牌は入れ替わりで自分の手牌に加えられた。一連のツモの動作のたびに、練り牌を打つ乾いた音が全自動麻雀卓の緑色のマットの上で弱められて卓上に響く。
男は、誰にも負けないはずだという強い自信を自身に持っていた。なんといっても彼は今はこれ一本で食っているのだ。賭けているものが違うし、そのために日々の全てを麻雀につぎ込んでいる。世間に庇護を求められる身分ではないものの、その分しがらみも無い。今まで打った経験は全て勝負強さとして彼の身になっており、今の生涯の糧となっている。度胸もまたそうだった。俺はこんな小さな麻雀卓に収まり切らないような、大きな勝負だってした事があるんだ。盗みをしても結局は捕まらなかった。密輸の手伝いも慣れたものだ。殺しだって……。
――殺し? 人間を殺すなんて、犬っころを殺すのと同じじゃないか。大した事じゃない。こいつらはただの動物じゃないか……。
彼は心の中でほくそ笑んだ。だが、そう考えて自分を鼓舞し直すたびに、
――その動物が、どうやって?
という疑問に立ち返ってしまう。
これがずっと彼を困惑させていた。
アナログ時計の単調な針の音が、彼を急かすとも焦らすともつかず、ただ雀荘の少し空いた客室で聞こえ続けている。
――こんな奴ら、どうって事も無えはずなのに……。
男は困惑の混ざった、劣勢に立たされた者の焦りを苦しげな表情ににじませつつ、ツモ山に手を伸ばして次の牌を自分の手牌に持ってきた。
南四局八巡目。男は親、東家である。
――張った!
男に待ちわびた手が入った。
今までネックだった嵌張の二筒が埋まり、ようやく戦える手になった。それも、一から九までの筒子が全てそろい、一気通貫の役が確定する方の聴牌である。立直をかければ親の三翻三十符、ロンであがれば5800点、ツモ上がりならば2000点オール。一着との差は6500点開いている以上は直撃でない限りツモあがりのみ。速さは申し分なかったし、一着との差は開いている。前に出ない手は無い。
しかし、そのために切る牌の事で、いったん立ち止まって確かめなければならなかった。彼はその牌を交互に指でなぞった。切るなら手の中で浮いている、この三索を場に捨てることになる。それで誰かにアガられたら全てはお終いで、その事が問題だった。
三索を手で小手返しして弄びながら、男は目線だけを動かして、他家の顔色をじろりと窺った。
男には、他のプレイヤーにどこまで手が入っているかを見抜く力がある。
上家と下家は安全だ。下家はとても聴牌には届いていない。上家もまだ手の内の揃い切らないイーシャンテンどまりだろう。アガられる心配はない。
問題は対面の女である。
童顔で背丈も青く、その割に肉置きだけは大人びた、あまりにも直線的な髪を長く伸ばすこの小柄な若い女である。女は幼げな印象の容貌とは裏腹な落ち着いた笑顔を一度も崩さない。
「ダンさん、長考ですか?」
わざわざ声を掛けてきたのが、さらに彼――ダンの調子を崩す。
ダンは彼女の手の内を読み取ろうと目を凝らすのに集中した。しかし何度彼女の表情や顔色を観察しても、彼女に手が入っているのか、聴牌しているのかは判別がつかない。分かるはずのものが分からなかった。ダンは仕方なく捨て牌を注視した。二索がかなり早い段階で切られており、その後六索も出ている。索子ではなく今しがた捨て牌として漏れ始めた筒子の方が、女の思惑の本線としてはくさい。この捨て牌なら、三索は問題無く通りそうに見える。見えるのが、彼女の信用ならないところでもある。
しかしそこまで考えてはいても、結局は前に出なくては逆転の目が無いダンの結論は最初から決まっていた。彼は三索に指をかけた。すでに彼女に気圧されつつあったのか、彼は好形への変化を口実に立直は掛けなかった。
彼が三索を、手牌に対する舌なめずりと自信の無さを隠すように静かに場の河へ捨てた時、
「ロン」
女の手牌が倒された。
「七対子・タンヤオで3200点、で終局ですね」
事も無げに軽く点数を申告した女は、口角をヒキガエルのように引き伸ばして笑みながら、一度ダンの顔を無用に見た。
――ま、まただ……。
ダンは顔をゆがめて、彼女の手の内を見下ろした。五萬、八萬、五索、三筒、六筒や七筒の二枚組に交じって、何度見ても一枚の三索の牌だけが単騎で手牌の端にある。
こうまでしてやられ続けるとなると、もはや一つしか考えられない。
――魔法が全く用を成してねえ……。
としか思えない。これだけは彼の中では明らかであった。
ダンは3200点分の点棒を女に手渡した。もはや気を確かにしなければ少し手が震えそうになるのが自分でも分かった。様々な理由からだ。魔法が何らかの手段で捌かれ、いなされているという事実に驚愕しているのもそうである。だが彼には何より、人間という一動物が魔法を知る自分に反抗している事が腹立たしかった。
――畜生……俺にはチートスキルがあるんだぞ? それさえ使えば、こいつらカモって人生みんな楽勝のはずじゃねえのかよ……!
ダンは心中で歯噛みした。
本名をドナルダン・ウェンティングといって、生前は妖精界コッティングリアでならず者をしていた男である。
妖精界コッティングリア。我々人類の住む世界・地球・次元とは、ほとんど似て非なるどこかに存在する異世界である。四季は美しく、草花も火山も吹き流れる風も海や川の水も、全てが色とりどりな豊かな世界である。魔力が普遍的・恒常的に存在する〈形而上世界〉の一つであり、一説によれば妖精界そのものが呼吸をしていて、別の世界から魔力を吸い寄せたり噴き出したりしているのではないかという学説もある。
我々が自らのこの世界を人間界と呼ぶのと同じく、妖精界に住まう者達もみな妖精である。神々四柱によって最初に生み出された土の種族ノームをはじめとして、直立したトカゲのような姿の火の種族サラマンダー、尖った長い耳と薄く透き通った翅を持つ風の種族シルフ、魚や水草のように優美な水の種族ウンディーネなど、多様な容貌・生態・能力を持つ種族が混ざって暮らしている。その差異は人間の人種的なそれなどは足元にも及ばないほどかけ離れている。例えばサラマンダーは卵生で、胎生の種族との間に子を成す事は生物学的に難しい。また植物的な種族であるドライアドは光合成が可能である他、大部分が両性具有で、〈雄花と雌花に分かれた〉性別や繁殖形態を持つ血族の方が少ない。ウンディーネ族にいたっては、体を液状に近づけられるというナマコに近い特異な能力を持つ。
彼らも人間と同じく、家々を並べて集落を作り文明的な暮らしをしている。我々人間の目から見れば、表面上は近世ヨーロッパに非常に近い。しかし内面的には大なり小なり異なる所があって、人類との共存が難しいほどの差異がある分野もある。彼らは人族と魔族に分かれて対立している。そのため、人族が住む地域と魔族が支配する地域では文化も価値観も何もかも異なる。エリグレニア地方では人族が優勢で、さらに魔族からも勢力を取り戻しつつあった。
ドナルダンはこのエリグレニア地方の東部から南東部を版図とするエシッド王国で生まれた妖精であった。冒険者のノーム族の男である。ノームは妖精界で最も多く暮らしている種族で、つばの無いとんがり帽子は彼らの象徴とも呼べる。
王宮や領主が気まぐれを起こすたびに鐘をやかましく鳴らしながら公告して回る触れ役という父親の役職を軽侮していた彼は、吟遊詩人の謳う勲歌に影響されてか、下級役人としての将来を捨てて一攫千金か死かの冒険者の世界へ飛び込んだ。
冒険者は腕前が全てである。安酒を手に毎日を無為に過ごすだけの輩が食っていけるような業界ではない。ドナルダンは、依頼が無い時は剣の素振りを渋々していた。彼が師事する剣士ヘルミナ・ヴェーゼベルガーは厳格で、もしも自己鍛錬を欠かしたとなれば、それはそれは激しく火山が噴火するのだ。
しかし剣の腕前は重要であるものの、しかしそれだけで成り立つというわけでもない。調査やら何やらで細やかに動けなければ、どうにもならない場合がある。そこでドナルダンは即席パーティを組んだ時に持てる役割を増やすべく、独学で占星魔法の基本的な技術も学んでいた。
が、ただでさえ剣の修行は厳しい。そこへさらに魔術を磨く二足の草鞋は、なまなかな道ではない。飽きっぽく堪え性の無い彼には難しいものだった。こういう奴なので、剣の方もなかなか上達しなかった。それが「腕が落ちた」とでも伝わったのか、評判に響いたようで仕事が減った。すぐに財布は寂しくなり、暮らしは苦しくなった。
それから半年後にはすでに、彼は空き巣に手を出していた。依頼を選り好み出来なくなったおかげで客層は変わり、あまりいい噂を聞かない知り合いも増えていた。そのうちの一人に誘われたのが依頼先での小遣い稼ぎで、
「ダン、これは斥候の訓練としてすっごく良いからさ……何、プロの冒険者のする事がバレるかよ……」
などと甘言をささやかれ、懐の寒いダンはつい乗ってしまったのである。
旅先で不用心な家を見つけると、ダンはすぐに忍び込んだ。主に生活必需品と小物と小銭を盗み出した。盗んだ分の半分は自分で使い、余った分は故買屋に売っていた。
しばらく空き巣暮らしをしている内に、彼の本業である冒険者稼業の方での依頼は減った。代わりに、アドベンチャーキーパーを通さない私的な依頼をよくされるようになった。その内容は正規の経路では頼めないような仕事ばかりだった。つまり、違法行為である。賭場の用心棒の真似もしたが、安価な殺し屋として使われる事の方が多かった。フラデマニー公国に母体がある犯罪組織がエシッド王国に食指を伸ばそうとしているそうで、最初に殺した相手はその組織のエシッド側の協力者である娼館のボーイだった。
ある日ドナルダンは、故買屋からより大きな仕事を紹介された。もはやダンはほの暗い水を飲まなければ生きていけない身だと見抜かれたがゆえだった。仕事は密輸の受け子だった。取引先と秘密裏に会って品の受け渡しをする目である。また、仕入れに付いても末端として動く事まで期待されているという。ダンはそれがおおかた、海賊か何かの手伝いだと当初は思っていた。
実際の雇われ先は、邪教のカルト教団であった。
彼ら邪教徒は、異界の蕃神を奉じている。そしてそれらがいつか妖精界に招来して全てを破滅へ追いやる事を夢見ていた。そのために、彼らは世の理を凌辱するための様々な手段を模索し、そしてついに恐ろしい技術・知見を手に入れた組織まで現れていた。
彼らの事はダンも職業柄情報として仕入れてはいたものの、しかしその実態や表に出回っていない力を知って驚愕しないではいられなかった。ダンを雇った組織では、なんと異世界との交信が頻繁かつ定期的に行われており、そこで供物と引き換えに異世界の物品を召喚して手に入れていた。つまり、未知の世界の者達と物々交換貿易をしていたのである。
未知の世界の未知の物品にはどんな危険があるか分からない。それに異世界人の価値観は不明で、何がきっかけで相手との関係が壊れ、攻撃をしてくるかも全く予想がつかない。別の組織では実際に、それが原因で奇妙な感染症を蔓延させられ、拠点が死の館と化して滅んだという。この危険な貿易の矢面に立って火箸の代わりを務めるのがダンに命じられた仕事だった。
ダンは、異世界人の姿を見た事は無い。しかしワープホールの奥から響いてくる、取引をしている異世界人の声を何度か聞いた事はあった。ダンが対話した異世界人は「カ・ウァトー」と名乗っており、いかなる言葉にも合致しない、抑揚の有無すら判別のつかない奇妙な言葉でよく独り言を言っていた。時折妖精界の言葉をたどたどしく繋ぎ合わせ、ぎこちない発音で片言に話した。カ・ウァトーは妖精界の事は半分も理解しておらず、それゆえにかえってごまかしが聞かなかった。
カルト教団は異世界の物品のうち、あえて妖精界にある物と大して変わり映えのしない物ばかりをカ・ウァトーから仕入れていた。高価で高機能な品は妖精界では使う術が無いらしく、また特異な物は見る者が見ればそれだけで足がついてしまうためだ、とカルトの神父はダンに説明した。仕入れた品は裏社会に流れ、好事家の手に高値で渡るか、あるいは魔族に納入される。不法商売の顧客は安全が守られていない事業者からは離れていくのだ。
ある日ダンは、故買屋経由で教団から呼び出しを受けた。曰く、
「ちょっと、いくつか面倒な品を仕入れて欲しい……報酬は弾む。先方は今度は売る品を妙な事で渋らない代わりに、こっちから買う品も容赦ない物をねだって来たんだ……ダン、お前も冒険者だろ?」
との事だった。ダンは胸を叩いた。
「よし来た、本業での依頼ってか……でも依頼票には、なんか適当な名目を書かねえと通らねえぞ」
「その心配はいらねえ」
「どういう意味だい?」
「他の冒険者の戦利品を盗めばいい」
「な、何だって……」
「冒険者が集めて持って帰ってきた品は、それを斡旋したフリーカンパニーが各所に売り捌く。アドベンチャーキーパーがその権利を持ってるからな。だが販売先が決まるまでの間は、そのフリーカンパニーの拠点に保管されてるはずだ……たとえどんな物でもだ。たとえ高価な物でも、危険な物でもだ」
「だ、だけどよ……」
「寝ぼけた事言うなよ? 許可や制度でがんじがらめにされて正規の手段ではそう簡単に入手できない物が、お前らの店の壁一枚向こうにわんさか唸ってるんだぜ、ええ? お前は盗みなんざあ慣れてんだろう?」
「何の事だか――」
「俺が知らないとでも思ったか、空き巣野郎……仕入れる物はわざわざ羊皮紙に書いておいてやったぜ。読んで覚えたらすぐ燃やせ。八日後までには持ってこい。いいか、近頃の王宮は異界の対策にめちゃくちゃ力を入れてやがる。それに異界の事にも詳しくなっていやがって、関わってるとバレたらすぐに捕まって処刑されちまうようになっちまった。下手な事したら、もうお前もただじゃすまないんだぜ。良いな……」
言うだけ言って、そのまま去ってしまった。
立ち尽くすダンの頭上で、薄暗い空を網掛けに立ち込める灰色の雲の合間を雁が飛んでいる。
次の日の昼。
〈赤き戦斧亭〉では慌ただしそうに小柄な女給達が、エールを載せたお盆を持ってせわしなく駆け回っている。
ドナルダンの所属は〈赤き戦斧亭〉という大きなフリーカンパニーである、宿酒場の店舗形態を採用する古き良き冒険者の宿である。宿酒場であるため一階は酒場、その上は宿泊施設になっている事は、ここでも変わらない。
時刻はもうすぐ昼飯時に差し掛かろうという時分である。日が上がり出した頃にもなると、所属冒険者達のうち住み込みでない者達もそろそろ依頼が来ているかを確かめるべく次々と来店しだす。依頼人の方は各々の都合で来るものの、定例の依頼の担当窓口の者なら大抵は朝に馬車を牽いて来て、到着は昼頃になる事が多い。そこへさらにここは飲食店である。昼になれば所属達が昼飯をひっきりなしに注文する。接客を担当する奉公人は右へ左へ飛び回って注文を取っては厨房まで出来上がったものを受け取って運ばなければならない。本来の冒険者斡旋業の方の客にも対応しながらである。つまり、きわめて繁忙する時間帯であった。
乱世に隙ありではないが、盗みを働くとすれば寝静待った夜よりも、むしろこの白昼に堂々と乱痴気に紛れた方が得策であるように彼には思えた。
ダンはエールを一杯だけ頼み、それを舐めるようにちびちびと飲みながら、店の奥の様子をじっと観察していた。店の奥の厨房では小柄な料理長が檄を飛ばしているのが見え、大柄な店主は玄関先で依頼に来た客と立ち話をしている。
少しすると、アスタンという背の高く肉置きの良い、まるで実は魔族で本当にサキュバスなのではと思うような容貌の奉公人が、相も変らぬやる気のなさそうな態度で店の奥から出て来たのが見えた。このアスタンという無気力な奉公人をダンは良く知っている。彼女は主に戦利品の仕分けを担当しており、所属冒険者が依頼先で手に入れてきた物品の買取から、売却先の大まかな選定と分類までを担っている。アスタンは真昼にも関わらず大あくびをしながら、何の用があるのか二階へ上がって行った。
つまり今、売却前の戦利品をまとめている大きな木箱の前には、誰もいなくなった事になる。
すかさずダンはさりげなさを装って立ち上がり、御不浄へ行くふりをして廊下へ出た。
一階・廊下はうって変わって、誰の陰も見えない。時折奉公人か料理人が駆け足で通り抜ける事があるが、今はそういう者もいなかった。誰も見られていない事を確かめつつ、懐から短い魔法の杖をそっと抜く。
ダンは、三つ魔法を唱えた。
一つ、危険予知の魔法。誰かが隠れていたり、攻撃を浴びせようとしたりすると、その瞬間に相手の緊張を瞬時に感じ取りやすくなる魔法である。一瞬先の出来事をあらかじめ察知し、不意を突かれにくくなる効果がある。ただでさえ危険と隣り合わせの上、遭遇戦自体も多い稼業には、自衛に重宝する術だ。効果時間は一時間ほど。
一つ、物を取り落としづらくなる魔法。使うと術者の意思に応じて手のひらに物が吸い付いたり離れたりするようになる。本来は柄を握る時にかけて剣を取り落としにくくするためのもので、これがあるだけで斬り合いの時に操刀の冴えが格段に上がる。効果時間は十分ほど。
一つ、幸運を呼ぶ魔法。判断基準が無い時に山勘で正解を選びやすくなり、また探し物も早く手に入りやすくになる力がある。冒険者にとっては、より高価な戦利品を獲るための術だ。効果を疑う者もいるが、彼は今までの本業で効果を実感している。効果時間は一時間ほど続く。
彼はまだこの三つしか覚えられていない。しかしいずれも十分効果が期待できるものばかりである。ならば、使えそうなものは全て使うのみだ。
魔法の効力で全身の感覚が鋭敏になるのを感じた後、ダンは目的の部屋へ忍び込んだ。
台所やパントリーのさらに奥には倉庫があり、食料以外なら備品から商品まで何でも置かれているこの場所は、極めて広い事を除けばほぼ物置部屋と呼んでもいい風情である。
壁一枚隔てた向こうは、厩になっている。
入ってすぐのところに無造作に置かれていたのが、その木箱であった。荷車に載せて使うような簡易なもので、腰の上までの高さまである大きなものである。
「あった、あれだな……」
ダンはそこへいそいそと近づきながら、懐から羊皮紙を取り出した。
「えーと、『手で持てる程度の大きさの魔族製ゴーレム』『大型肉食爬虫類の牙か頭骨』『妖精界独特な意匠のある、ラグか何かの布工芸品』『大きさ一ラマン以上の巨大魔結晶』、他には……」
メモ書きを読み上げながら、ダンは木箱の一つに手を突っ込んでお目当ての物を探し始めた。いずれもそう簡単に手に入る品ではないが、フリーカンパニーが卸す物としてそこまで珍しいわけでもない。探していればすぐに見つかるはずだ。布工芸品に関しては、どんな柄の物がカ・ウァトーが気に入るかどうかが不明なため、複数種類を持って行く事に決めた。
ダンは今、自分が唱えた魔法によって盗みが完璧に成功するものと思い込んでいた。まさか自分がバレて捕まるとは、毛の先ほども考えていなかった。
木箱の中身をひっくり返している内に、一着のマントを見つけた。大きな水玉模様の中にそれぞれ菊科の花の意匠が施されており、布工芸品として売るには適切に思えた。彼がその菊科の水玉のマントを手に取って見ているとその時、
「お前、一体何をしてるんだい……」
低く太い女の声が頭の上から響いてくるまで、ダンは背後に気が付かなかった。
彼の手の中にあった菊科の水玉のマントが頭上から取り上げられた。ダンは振り向いた。
すると薄暗い物置の中に、店主アーグステ・ズブレッツィの巨体と顔が浮かんでいるのが見えてしまったのだ……。
店主の体は極端に大柄で、背丈では周りから頭一つ飛び抜けていたダンすらも見上げるような上背の持ち主であった。その上鍛えられた体中の肉が盛り上がっていて分厚く、とても冒険者として歴の浅いダンの鍛錬では敵わないほどの巨躯なのである。
無論、店主は鬼の形相であった。
「い、いつの間に、どうして……?」
「そりゃあお前、あたしだって引退はしてもね、たとえ専門外でもね、お前くらいは欺けるくらいには斥候の真似事は出来るさ……何でこんなところにいるんだい……」
「いや、店主、いやその、へ、へへ……」
「いい度胸してるじゃあないか、自分が頭を並べてる店で盗み働こうだなんてさあ……」
「それは勘違いってもので――」
「しかもあたしの目の前でさ、この馬鹿野郎が!」
店主が落胆の混じった激高のまま、ダンの顔を強かに殴りつけた。
「うぐうっ……」
「お前の剣の先生、ヴェーゼベルガーさんから聞いてたんだよ、最近お前の様子がおかしいってのはね。それで隠れてこっそり気にしてやってたらどうだい。廊下で呪文をもにょもにょしながら、店の裏へ忍び込んでいくじゃあないか。このあたしの〈赤き戦斧亭〉の冒険者ともあろう者が、なんていうざまだい!」
店主は怒鳴り付けるや、怒りの勢いそのままにダンの首根っこを鷲掴みし、そのまま片手で持ち上げるとすさまじい膂力で彼を投げ飛ばしてしまった。
彼の体は宙を舞い、壁に叩きつけられた。全身を打った痛みにうめきながら、ダンは辛うじて上体を起こした。
壁の向こうからは、厩に止められていた客の馬が、驚き慌てふためいているのが薄っすらと聞こえてくる。
店主の長身が、体の前で菊科の水玉のマントを丸めながら、窃盗を働いたダンの事を、失望と義憤とがまじりあっためで軽蔑的にねめつけ、見下ろしている。
目を見開いて震えるダンの脳裏に、この時の光景がかき消しようもないほどに強烈に焼き付いた。
店主は腰の抜けて壁にもたれかかったままのダンの方へ、ゆっくりと詰め寄ろうとした。
しかしこの時、予想だにしていなかった事が起きた。巨体の店主アーグステがあまりにも強烈な膂力をもってしてダンの体を壁へ投げつけたため、築年数を重ねていて古いところもところどころある店の壁がその衝撃に絶えられず、板の壁のうち劣化したところへひびが入ってしまったのだ。
そこへ長身かつ鍛えられて背も高いダンがもたれかかり続けたために、ついに致命的な音を立てて割れた。
べったりと背中をつけていたダンの体は、壁に空いた穴からひっくり返って厩へ転がり出た。
驚いたのは馬である。宿酒場の中から凄まじい物音と怒鳴り声がしたかと思った途端、唐突に壁が壊れて中から見知らぬ何者かが絶叫しながら現れたのだから。
ダンがこれに気が付かず、突然立ち上がって逃げようとしたのも悪かった。馬房に繋がれていて逃げられない馬は、大きな体の彼を見て怯え、ついにパニックを起こした。混乱と驚愕のまま、繋ぎ場から綱を引き千切らんばかりに暴れ、その場で回りながらでたらめに頭を振り乱していなないた。
そして、不用意に近づいたダンに気が付くと、思いっきり後ろ蹴りを食らわせたのである。
自らの行いが巡った結果暴れ馬に遭ったダンは、当たり所が悪く、固い蹄を左胸でまともに受け止めてしまい、心の臓が破裂して死亡した。ダンことドナルダン・ウェンティングの〈享年〉は十九歳であった。
しかし彼はその後、永遠の眠りから目を覚ました。次に彼が目を開いた時、最初に目にしたのは軽トラックだったのである。
軽トラックが電柱に突っ込んだまま沈黙している。その後ろで、車一台分も通れるかという細い道の中央で、若い男が大の字になって倒れている。しかし軽トラックの中年運転手はバックをして電柱から少し距離を開けたかと思うと、なんと降りて心配するそぶりも見せず、後ろで伸びている事故被害者へ向かって悪態をつきながら事故被害者の救護義務を果たさずに現場を走り去ってしまった。
事故現場は通りから外れた両側一車線の細い坂道で、両脇を古民家のブロック塀と駐車場のフェンスに挟まれており、見通しは悪い。人通りも少なく、この交通事故を見ていた通行人はいなかった。古民家にもこの時人はおらず、警察・救急へも通報されなかった。
なので交通事故に遭ったこの若い男は、本来であればきっと、このまま不幸にも亡くなってしまっていた事だろう。
しかし男は軽トラックが逃走した、その直後に上体をやおら起こしたのだ。
事故直後から薄目を開けてぼんやりと見ていたトラックが離れていくのを眺めていた後、男は頭や打撲箇所を手で抑えながら、辺りを見回した。現場は二十一世紀初頭の日本のありふれた路地でしかない。
男にはこれが何もかも見慣れなかった。
頭を押さえ、力無く起き上がった男は、フェンスに手をつきながら朦朧とする中をかろうじて立っている。青息吐息の有様で数歩歩き、駐車場に停まっていた誰かのワンボックスカーであろうとかまわず寄りかかった。
その時、そのワンボックスカーのサイドミラーに、男の顔が映った。男の顔は一般的な日本人のそれで、東アジア的な直線的な黒髪の下に彫の浅い顔がある。
ドナルダン・ウェンティングは、自分が鏡に映った姿を見て、最初は理解が追いつかなかった。しかし自分の顔と髪をサイドミラーの前でしばらくべたべたと触っているうちに、ようやく自分が異世界に転生したことを悟ったのである。
それからしばらくの事は、ダンはあまりはっきりとは覚えていない。自分自身の体を操る事すらおぼつかない中で、突如放り出された何もかもが見慣れない世界を彷徨い歩く事は、彼自身にも予想出来ないほどの負担があったのだろう。
この世界は、元いた妖精界とは一八〇度異なる――いや、まず九十度異なっていた。周りの建物を構成しているのが直方体の石に似た物体、あるいは木材であろうもので、それらは石畳の敷石や板張りのように見える。にも関わらず地面は真っ黒な何かで土壁のように塗り固められていて、おかげで世界の壁と床が入れ替わったような奇妙な感覚に陥るのだ。
覚えているのはそれだけだった。おそらくは、この黒い地面の上で野宿をしようとしたのが悪かったらしい。一晩寝て起きた時には黒い地面はいつの間にか熱を帯び始めていて、気づけば鉄板焼きに近い状態になっていたのだ。慌てて立ち上がろうとするが、今度は辺り一帯の風が夏場のウンディーネの里のように湿っており、息も出来ないほどであった。だらだらと垂れ流れた汗は、体中に纏わりついたままいつまでも蒸発しない。立てば蒸し殺される。寝ていれば焼き殺される。
「何だよ、ここは……どうなってんだよ、俺は……死にたくねえ、死にたくねえ。俺は冒険者だぞ。野営が出来ないで死ぬなんて事が、あるもんか……」
母語であるノーム語で嘆いた声すらもかすれ切っていた。ダンはそのまま、いわゆる熱中症で倒れたのである。
次に意識が戻った時には、うんと涼しい空間で横たわっていた。
――何だ、ここは……?
ダンはうめきながら目を開いた。
大理石に似て非なる雰囲気を醸し出している天井と思われるものの、中央あたりに奇妙な長方形のくぼみにはまった細長い棒状の物体が白い光を放っている。それが狭い部屋全体を照らす機能をはたしているようだった。部屋は壁も床も白い。
――涼しいのは気分が良いが、つまり、俺はどこかに連れてこられたのか……?
ダンはいぶかりながら上体を起こして立ち上がろうとした。彼はベッドのようなものに横たえられていた。ベッド「のようなもの」というのは、その外観がベッドとは程遠く、むしろ馬車から座面だけ切り取って羊毛の敷物をかぶせたような、ソファに近いものだったからだ。部屋にある他の家具らしきものも、ダンのいた妖精界のそれとは、よく似ているようでどこかがずれているように感じられた。それが頭にめまいを覚えるほどの混乱を生みそうになって、気を確かに持つのが大変だった。
部屋には扉があったが、それもなぜか木ではなく金属製の上、全体にのっぺりと真っ白な絵の具のようなもので薄く覆われていた。
その扉が開き、何かが入って来た。それは、ノーム族とほとんど変わりないような姿をしていた。ただし髪の毛も目も烏のように黒く、そして信じられないほどまっすぐだ。緑色の前掛け風の見慣れない服装をしている。男性の現地人かと思われた。
いや、現地生物だ。
この目の前の前掛けの男からは、魔力を感じなかった。人族であれ魔族であれ、知性ある生物は必ず魔力を体に持っている。知性ある妖精を動物と隔絶させているのは、魔力を空気中から摂取したり体内で生成したりする能力、一言でいえば魔力吸排量の有無であり、動植物でも体に魔力があればそれは幻獣、無ければただの動物である。
つまり、目の前にいるこの前掛けの生物は、妖精界の知性ある妖精達と瓜二つでありながら、実のところ心の知性を持たない、動物なのだ! きっと妖精に擬態する生態を持つ恐ろしい生き物なのに違いない。このような生き物が存在するとは信じられなかった。自分は妖精界とは相いれない生物群共の世界へ迷い込んだのだ!
妖精界で生まれた彼には、人間界の人間はそう感じられたのである。
目の前の〈髪の毛がまっすぐすぎるニセ妖精の獣〉は、妖精の知性ある言語をまねたような複雑な音韻からなる鳴き声で二、三度短く鳴いた。しかしその直後には、
「……あの、お前、大丈夫か……?」
明らかに妖精界の公正契約語を操って話しかけてきたのである。
「なんだよお前……なんで妖精界の言葉を知ってるんだ……?」
「だってお前、さっき倒れた時に言ってたじゃねえか、『俺は冒険者だぞ』とか『野営が出来ないで』とか何とか。この言葉じゃなかったけどよ。俺はちったあ分かるぜ。空耳じゃねえかと疑ったが……もしも俺が偶然通りかからなかったら、お前今頃死んでたと思うぜ?」
「お前、何者だ……?」
「俺か? 俺は河東っていう者だ、河東範鐘っつって、この店で働いてる――」
ダンはその名前、そして河東の言葉の訛りを聞いて、その事に気が付くのに時間がかかった。
「お前が『カ・ウァトー』だったのか! 俺はこいつと商談してたのか……」
「……もしかして、ドナルダン・ウェンティングってお前か? マジかよ、妖精界には人間がいるのか!」
二人は思わぬ事に感嘆しあった。
それから二人は意気投合した。まずドナルダンが人間界の事について色々尋ねた。河東がそれに答えたり答えられなかったりしながら、ダンに一体何があったのかを尋ねた。
「それが、俺自身も分かんなくて……馬に蹴られて、俺はそのままおっ死んじまったものと思ってたんだが、目を閉じて開けたら、こんなところにいて……それに、こんな体になってて……」
「て事は元の世界じゃあ、そんな恰好じゃなかったのか?」
「当たり前だろ、俺はノームだぞ。ただのありふれたノーム。それがどうしてこんな〈髪の毛まっすぐすぎる族〉になってるんだよ?」
「ん? 妖精界に人間はいるのか? いないのか?」
「いねえに決まってんだろ……」と答えたものの、やや間をおいて考え直してからやはり、「……うん。いねえと思うぜ。異世界カルトのクソ牧師共がそんな都合の良いもん飼ってたら、多分俺なんかに取引させてねえ。それにこれは異世界カルト教団の連中が言ってたんだが、王宮もどうやら異世界の事を分かる奴を密偵に使っていろいろ探らせてるらしいんだ。主に、異世界カルト教団を摘発するためにな」
「やっぱりそういうのってどこでもアングラなんだな」
「少なくともその探らせてるって奴は、人間じゃなくて妖精なのに違いねえ」
「どうしてそう分かるんだ?」
「動物がしゃべったらおかしいだろ。噂になって密偵にならねえ」
「そりゃ人間は動物だろ」
「そうだよ……お前何言ってんだ? 妖精は生き物だが、動物じゃあねえよ。もっと上等なもんだ」
「そりゃあ差別的じゃあねえか?」
「何が? 何に対してだよ……やっぱりお前は俺が知ってるカ・ウァトーだ。この会話の通じなさはまさにそうだ。取引の時もそうだった」
「そうだ、『取引』で思い出した」河東は手を叩いた。「俺がこの前頼んだ商品ってのはどうなった? お前がこっちにいて、しかも不慮の事故っぽいって事は、商品って今仕入れはどうなってるんだ?」
「……品を手に入れる前に俺はくたばっちまった。俺は仕入れられてない。だから、もし教団の連中の中から後を継いでくれる奴が出て来れば、少し遅れて仕入れはされるだろう、が……果たしてどうなるやら……」
「そうか……」河東は肩を落とした。「良い小銭稼ぎなんだが、こりゃ今月は小遣い無し、か」
「そうだ、ずっと聞きたかったんだが、お前はどうやって俺達に接触したんだ?」
「聞いてねえのか? お前の言う異世界カルト教団って奴の方から話しかけて来たんだよ。寝てると、こう……頭の中に声が聞こえてくるんだ。最初は無視してたんだけどな。だけどちょっと入院した時、隣のベッドの患者の人が男装とスピリチュアルに詳しくてさ、言葉とかもその人から教わったんだ」
「へえ……」
「でもその男装家の人もいつの間にか死んじまったらしいし、やっぱりこの密輸ってヤバいのかな?」
「……そうか、これって密輸に値するのか……」
「とにかく、お前を見つけちまった以上、俺も見なかったふり出来ねえ。俺は今月はお前がしくじって死んだせいで金が無え。お前はこっちに来ちまった以上こっちで暮らさなきゃならねえ。どうせ行く当てなんかねえだろ、ダン?」
「だなあ……そうだ、俺これから一体どうしたらいいんだろう?」
「お前、俺の雀荘を手伝ったらいいよ。俺んちに居候するか、あるいは雀荘の上の階のどっちかに住んで暮らせばいいじゃんか。ただしお前が働いた分の給料は俺が半分もらうぜ。家賃と人間界の授業料だ。店長には上手いこと話、通しとくからよ」
河東は手を鳴らして会話を打ち切り、無理やり話を決めてしまった。ただし仮にそうしなかったとしても、どの道ダンには他に選べる道も無かっただろう。こういう事が数年前にあったのである。
「ダンさんは相変わらず無口だなあ。全然おしゃべりしねえんだから」
対面の眼鏡のサラリーマン風の客は、打ちながら他愛も無い話をするのが好きらしかった。
「麻雀は楽しく打たなきゃ。それとも麻雀だけに浸って楽しみたいって奴か?」
「それはそれで幸せな打ち方だなあ」上家の白髪の客も雑談に乗っかった。この老人もまた常連客で、定年退職後の年金暮らしでずっと暇をしているらしい。「それでずっと勝ち続けてるんだもんなあ。急にふらっと来て、そのまま居付いたと思ったら……若いのに馬鹿強いよねえ」
「全くだ。俺は次でラス半だから、今日こそわあとかぎゃあとか、とにかくおしゃべりを聞かせてもらいてえね」
眼鏡のサラリーマンの常連客はぼやくように言いながら、めくった牌を手配にいったん並べたものの、手牌の中に入れずにそのまま捨てた。こんな弛緩した対局が朝からずっと続いている。なにせ、平日の昼間から雀荘に入り浸るほど暇をしている奴が、四人も集まっているのだ。
しかしその中で一人だけ、ダンだけは他の着卓者とは事情、いや立場が実は異なるのを隠している。そして能力もだ。
眼鏡の常連客の次の巡目。彼が引いてきた牌をポーカーフェイスも何もないような様子で浮き立って手牌に加え、不用意に切った牌を見て、ダンはすかさず和了を宣言した。
「ロン。三色同順・ドラ一枚。5200点」
「うわちゃあ、嫌な声の聞き方しちまった……」
ダンの倒された手牌の前に、眼鏡の常連客は頭を抱えて嘆いた。
彼から点棒を受け取り、これで今ダンは一着に躍り出た。一度点数状況で余裕が出来るとダンは強い。そのままゲームが終局するまで点差を守り抜いた。この半荘で得た儲けは――今はゲーム内チップに換えられているが――現金に直せば六千円程度に相当する。
一方、眼鏡の客の方は今日一日で三万円以上負けてしまっている。
「これ以上負けたら明日食う昼飯代が無え。そろそろちゃんと外回り営業の仕事しないと財布がヤバくなってきちまったし、洗うよ。精算してくれ」
「はあい、かしこまりました――紅ちゃん、お会計してあげて」
河東が応対し、アルバイト店員に指図してレジへつかせた。
雀荘『ディンドン』は雑居ビルの一階にある小さな雀荘である。立地から客は少ない。しかし周りに競合する同業者の店舗が無いため、一定の固定客はある。高齢のビルオーナーの副業として開店したため店長はあまり顔を出さず、店員は全員忙しいためなかなかシフトに入りづらい。安定して出勤できる定員は河東くらいで、他には仏光山で有名な高雄出身の学生アルバイトである紅葉風しかおらず、それも学業を脅かさない程度にしか店に出られない。
ダンはそこで、客のふりをして麻雀を打つ店員、いわゆる〈裏メン〉として勤務する事となった。
『ディンドン』では店員二人で店を回す事になっている。しかし席が四人全員埋まらない卓が出た時は、二人のうちのどちらかがその卓に本走・代走として入らなくてはならず、接客が困難になりがちである。そこで客のふりをした従業員はそういう時に備えて店にいて、客と卓の調整を行うのだ。もちろん裏メンは麻雀を打ち続ける。そしてそこで買った分も裏メンの懐に入るのだ。店によっては裏メンは客から勝ってはいけないという制限を設けているところもあるが、『ディンドン』ではそうではなかった。
この仕事を『ディンドン』開店時から閉店するまでずっと続け、営業時間が終わったら河東の用意したマンスリーマンションへ帰って寝る、という暮らしを今のダンはしていた。このマンスリーマンションというのは本来、河東が妖精界と人間界を繋いでの異世界の物品の密輸出入のための魔法陣を設営・展開するために借りていた部屋で、取引が無ければ使われない。
この暮らしが今のダンには非常に都合が良く、甘い蜜を独占しているようなものだった。
ダンには、雀荘に来る他の客には無い特殊な能力を持っていた。人間界へ転生した後でも、妖精界で生前習得した魔法が使えたのである。
眼鏡の常連客が卓から抜けて一席分空いた分を、店員の河東が本走として代わりに入って埋め、次の半荘が開門された。全自動麻雀卓の中へ牌を流し入れた後、前のトップであるダンが卓のボタンを操作して次の対局を始めた。
卓の機械のドラムの中で牌が攪拌される音が中から響いて来るのと同時に、二段に積まれて並べられた牌の山と、各々の手牌十三枚が卓上へせり出してくるのに他の三人が気を取られている隙を突いて、
――この辺でそろそろ、もう一回唱えておくか……。
ダンは周りに聞こえないよう口の中で含むように、幸運を呼ぶ魔法を唱えた。
すると東一局からすでに効力が現れ始め、対局が始まった時点ではまるでてんでんばらばらのひどい配牌だったのが、ツモ巡が来るたびにずばり欲しい牌ばかり引いてくるのだ。さらにそこから代わりに捨てる牌を選ぶ時でさえ、指運がそのまま正解の選択となって、次の最高のツモを呼ぶ。
この理外の力によって、一切の無駄な巡目無しに手牌は前進し続け、手牌が配られた時の目も当てられない有様からは想像も出来ないほどたやすく聴牌までこぎつけたのだ。
無論、他家の牌を鳴かずに門前のまま、両面待ちを張ったので、
「よし、立直」
ダンはさっそく、機先を制する先制攻撃を仕掛けた。
麻雀は一局につきだいたい、十八巡まで手番が回ってくる。それを少なくとも八局――標準的な東南回しの場合である。短い東風戦ではその半分で切り上げられるため、半荘あたりの最低ゲーム数は四局である――は打つ計算になる。
それが、最初の一局をたった五巡目で、勝利目前まで引き寄せたのである。
この強運はもちろん、ついさっき唱えた魔法に由来する人為的な運勢である。
そしてその勢いのまま、
「ツモ! 立直・門前ツモ・平和・ドラが表裏で一枚ずつ乗って満貫の4000点・2000点!」
という中々上等な得点を早々にたたき出して奪い取った。
こうまで早い巡目でアガリをされては、他のプレイヤーにはどうしようも無い。三人とも仕方無さそうに点棒をダンへ支払った。それを受け取りながら、
――へっへっへ……簡単なもんだ。これが俺の力だ。勝てる力って奴よ……。
心の中で一人ほくそ笑んでいた。
妖精界で学んだ魔法の力さえあれば、人間界の人間風情には勝ちたい放題出来るのだ。得意げにならない方がおかしかった。
麻雀は運が強く絡む。だからプレイヤー四人は平等なのであり、また四人を平等に不平等な状況に立たせる事が出来る。しかしそれが一人だけ、この世界の原理原則を別の世界の物理法則で捻じ曲げて、偶然という誰の意図も介在しえないはずの聖域へ、好き勝手に追い風を吹かせてしまえるのである。
幸運を呼ぶ魔法たった一つで、これだけの無法が出来てしまう。
それを、ダンは三つも魔法を習得しているのだ。
何度か対局を重ねてゲームが進行し、東三局一本場を迎えた時、彼以外のプレイヤーは離れ始めた点差に危機感を感じ始めていた。無論その相手は、一着に躍り出ているダンである。
三人とも、表情は苦しげだが顔色は良い。ダンに逆転出来そうな良い手が入っていた。
その事は、ダンからすれば手に取るように分かる。
これは危険予知の魔法の力だった。他家の持つ他のプレイヤーへの攻めっ気や、自分の手牌が聴牌までこぎつけていよいよアガリの用意が整った時の得点意欲が、今のダンには攻撃を受ける危険性として肌で感じられるのだ。特に、手牌がアガリに必要な所定の形式に整ってあと一枚を待つだけの状態になると、彼の感覚はすぐさま鋭敏に、そのプレイヤーが聴牌した事を不当に察知してしまう。
つまり、周りの手の内の進行状況が一人だけ分かるという事で、麻雀に必要な心理戦で常に答えを覗き見出来る事に他ならない。この魔法、本来ならただ「もしも誰から後ろから忍び寄ってきていたら、すぐに気が付ける」というだけのものだった。それが、使う状況がボードゲームに変わっただけで、ゲーム性を踏みにじるほどの強力な不正行為に変わってしまうのだ。
他のプレイヤーがいかに相手の考えを読むかという事に頭を回している中で彼だけは、
――どいつもこいつも、少なくとも安手でもアガれは出来そうな手牌らしいな……。
くらいの事は、何の苦労も無く察せてしまうのだ。三人が自分の手番のたびに牌を引いてきて、手元へ引き入れるかそのまま捨てるかする動作を、彼は見る必要も無い。
ダンは、今同卓している他の三人の顔色をさりげなく確かめた。
左手側、上家の老人は櫛田とか言ったはずだ。ビールを飲みながら打つような、ただ楽しく打てれば勝ち負けは気にしないという手合いである。当然ながら、他のプレイヤーを出し抜いて勝ちにいこう、という気概も危険性も少ない。
反対側の下家は、外囿という若作りの激しいおばさんだ。黙って煙草を吸う姿は先ほどの眼鏡の常連客も絡みたがらないほど近寄りがたい雰囲気があるが、それだけだ。結局は趣味で打っているだけで、そこまで研究熱心な打ち手でもない。
対面は店員の河東である。彼はダンと異なり、自身の勝ち負けよりも客が円滑に楽しく打てる環境を整え、時折得点状況と順位を変動させて、客に退屈をさせないように打つ。密輸の収入もあり、わざわざ勝とうと奮闘する理由は無い。
卓での勝ち金で収入を得ているダンにとって、麻雀で儲ける意欲の無いこの三人は鴨に等しかった。
老人・櫛田の番が来て、また牌を一枚ツモった。引く時に自然と牌をつまむ指に力が入っている。
この力みを認識するよりも先にダンの目が光る。
――おっ、聴牌ったな?
見立て通り、櫛田老人は切った後に自信満々にふんぞり返り、悠々とビールを一口飲んでいる。ダンは櫛田の捨て牌の河を確認した。まず字牌から切り出し始め、数牌は端である一と九の牌から捨てている。たった今切った二索が最後・最新の捨て牌。分かりやすくタンヤオ狙いの河である。
その直後のダンのツモ巡で引いてきたのは七筒である。
――そうと太刀筋が見えてりゃ、こんな血の匂いのする牌なんか切れるわけが無えよな?
そう決めつけて七筒を手の中に抱え込み、手牌の完成していた面子からさっさと二索を抜き取って捨て、櫛田に合わせ打ってしまった。
――もちろんこんな不利な勝負は降りる。というかこの手牌じゃ誰でもオリだ。
彼の手牌はとても揃っているとは言いがたく、アガリには程遠い。それを今、自らの手でさらに崩したのには理由があり、彼は聴牌までこぎつけられる可能性すら低い事を悟って、自らがアガる事は早々に諦め、他家のアガリ牌になりかねない牌を切らずにこの一局をやり過ごす、いわゆるベタオリを選んだのだ。
その数巡後に外囿夫人が不用意に切った四筒が、櫛田老人の待っていた牌であった。タンヤオ・ドラ一枚で2000点の安い手ながらも失点は失点であり、夫人の厚化粧の顔が歪んだ。
もしもダンが意固地にアガリにこだわってもがき続けていたとしたら、手が聴牌まで進まない内に早晩手牌からこぼれ出て、彼の失点となっていただろう。
――麻雀は冒険者稼業と同じだとは思わなかったな。撤退の判断が迅速かつ的確に出来てこそプロ。安全に帰還するまでが冒険だ。冒険と無謀は違う、ってか……。
ひどい手牌を眺める目が、誰に見せるでも無いしたり顔であった。
――俺には魔法がある。この事は河東も知らないはずだ。まさかこっちでも向こうの魔法が使えるとは思わなくて「使えねえ」って言っちまったからな、俺は。どうだ驚きやがれ、これが妖精界が誇る魔法の力よ!
ダンが自身の魔術的イカサマに自ら惚れ惚れとしているのにも当然ながら気づく事も無く、アガって上機嫌の櫛田老人はもちろん、趣味の醍醐味を味わった外囿夫人も牌を卓の機械の中へ流し込んで次の一局の用意をしながら、へらへらと雑談を始めている。
「まあやってくれたわね、先生。年下をいじめるなんて。次はあたしもやり返してやるわよ」
「それはこっちのセリフですよ、昨日はしこたまアガられたから、今日は運が戻って来たんですよ!」
「上機嫌ですねえ櫛田さん、やっぱりお仕事が調子良いと運も上がって来るんですかね?」
「そうとも! この前話したアブドゥッラー・アル=バルーシーって作家さん、俺が訳した日本語版を褒めて下さってね、オマーンからわざわざ電話掛けてきてくれて……」
「まあまあ、ウチのヘススって生徒は本を読むために日本語学校に通ってるような子ですから――」
三人の歓談にダンは交ざらない。人間界の言葉に訛りがあるため、河東以外には無口で通している。しかし本音を言えば、腹の中で彼らを嘲笑しているのに気付かれたくないからであった。
――俺様にしてやられ続けて、笑ってやがる! やっぱり人間共は馬鹿だ! 無能で、役立たずで、何も知らねえ、お人好しな、ただの動物だ! 俺達妖精には逆立ちしたって一生敵いっこない、下等生物だ! 悪いなカ・ウァトー、お前ら人間は俺という妖精のエサとして役立ててやるから、感謝しやがれよ!
また、積まれたツモ山と次の手牌が全自動卓からせり上がり出てくる。練り牌の光沢が、彼には金塊のように見えた。
店の奥の壁に掛けられた時計は、午後四時を回ろうとしている。仕事を早めに切り上げた人々で少しずつ客が増え始める時刻であり、『ディンドン』ではこのあたりの時間帯から混み始める。
一番奥の卓では、櫛田がビールのせいで三度目の御不浄へ発ったため、勝負が小休止となったところだった。彼を待っている間に外囿も職場へ必要な電話をかけなければいけない事を思い出し、席に座ったまま大慌てでスマートフォンへ唾を飛ばしているところである。店員・河東は他の客との接客のために中座している。
ダンはというと、頼んだ軽食の豚丼をかき込んで遅めの昼食代わりにしており、
――人間界の米は大粒というか、寸胴だな……それで芯が無くて食いごたえが無え癖に、いやにべたべたでスプーンに引っ付きやがる。食いづらいったらたまらねえ……。
などと心の中で悪態をつきながら、妖精界の食事を思い返していた。妖精界は一見するとヨーロッパ風だが、その実情は大きく異なる。妖精界、特に人族領元々は米食文化圏であり、そこへ品種改良の結果麦食・パン食文化が芽生えて後から混じった歴史を持つ。
ダンは河東に無理を言ってメニューに加えさせた、白いパエリアのような妖精界風の豚丼をスプーンで食べるのを習慣としている。この男、人間界に理解を示して解け込む気は全く無かった。そもそもどこからかノームのとんがり帽子に似たつばの無い尖ったキャップを見つけてきて買い、それを常に被っているような奴である。
豚丼を掻き込みながら、ダンは頭の中で今までの儲け額を簡単に計算してみた。買って負けてを繰り返して見せながら、差し引きこの半日で三万円近くはむしり取ったか。合法レートとしては高い方とはいえ少しやりすぎたかもしれないとは思いつつも、やはり勝つのは気持ちが良い。彼はあくまで店『ディンドン』の店員である。時給も彼に発生している。ただその分は河東に搾取されているため、麻雀の勝ち金で暮らさざるを得ない。
ダンは今彼が着いている目の前の卓をぼんやりと眺めた。
――やっぱりこの『機械』って物はゴーレムみたいで気分悪いな……。
という、妖精界では被支配階級だった歴史のある人族妖精らしい感覚も手伝って、目の前の全自動麻雀卓はどうしても異質で暗くて不気味なものに見える。
それでもこれが今の彼の、いわば金の成る木なのだ。
食べ終わった頃、ちょうど櫛田老人がハンカチで手を拭きながら戻って来た。ちょうどその直前に外囿夫人も電話を終えたところだった。
ところが、河東が中々戻ってこない。
店員が卓に入ってこないという事は、席を埋めておく必要が無くなった、つまり客が新たに来たのだろう。ダン達三人は店の入り口側に目をやっていた。
玄関口では河東が仁王立ちして、アルバイトの紅へ叱るでも談笑するでもない妙な口調で気を遣いながら指示を出しているところだった。
「――そうかあ、知り合いだったのか。それで案内するでもなくずっと待合席でしゃべってたんだなあ」
「えへへ、そうなんです、すみません、接客しないで」
「いやボーイさんね、あんまり彼女を責めないであげて下さいよ。バイトしてるのがバレたらどうしよう、ってびくびくしてたんですから。あたしには言わないでくれって口止めなんかして」
腰低く頭を下げている紅を、若い客の女が河東へ彼女をかばっている。
客はいかにも重たげな真っ黒な直毛を背中まで伸ばし、前髪も横一直線に切っているのが、今まで見て来た〈髪の毛まっすぐすぎる族〉よりも一際〈髪の毛まっすぐすぎ〉に見える。彼女は紅葉風とは同年代の若者だろう。いい加減〈髪の毛まっすぐすぎる族〉の顔にも見慣れてきたダンはそう見て取った。紅葉風よりも背の低い事といい顔立ちといい、ある面では歳の割にはかなり幼げな印象がある。しかし他の面では、胸元は大きく膨らんでいるし、顔つきからも話し方からも落ち着いていて非常に大人びているという正反対な印象を受ける。それがいささかちぐはぐでどこか滑稽だった。笑顔を常に浮かべているのが、天真爛漫な子供にも余裕のある紳士にも見えて、それがまた奇妙だ。
「何度も言ってますが、大丈夫ですって。学校にしゃべったりはしません。外国の麻雀をわざわざ学ぼうなんて、殊勝な麻雀打ちじゃあありませんか」
背の低い黒髪の少女の客は紅葉風と知り合いらしい。彼女から背中を叩かれて、紅葉風は心底安堵したようだった。
「いやいや、ここは良さそうなところですねえ……今打てますか?」
「ええ、今ご案内いたします。一番奥の、そこのお席へおかけください。今、当店のハウスルールをご説明しますので……」
黒髪の客は、ダンの対面の席に着卓した。
その後河東が、一見の客には必ず見せる物、聞かせる事を一通りこの少女の客の前に把握させた。この新顔に櫛田老人も外囿夫人も興味を持って、
「この店じゃ見ない顔だね。面子が変わって、流れも変わってくれるといいんだけどね」
「今はこんな若い女の子も麻雀なんか打つんだねえ、学生さんかい?」
「ええ、高校生で……麻雀には目が無くて」
「どうも年のいったおっさんみたいな子だねえ」
「おかげで学校じゃ浮いていますねえ。お手柔らかにお願いしますよ」
「なんて呼べばいいかい?」
「鈴木です、鈴木和泉といいます。ただの『泉』ではなく、天和の『和』がつく方の『和泉』です」
といって笑み、頭を下げた。
紅葉風がダンの豚丼の器を下げに来た。和泉はついでとばかりに、
「ああ、私にも飲み物をお願いしますよ」
「何にします、和泉さん?」
「アイスコーヒーを、砂糖無し牛乳入りで」
そう指を立てて頼む姿も変にこなれており、慇懃な話し方や態度と合わせて、余裕を持って遊ぶ大人というか、妙に世間擦れをしている。和泉はアイスコーヒーのグラスを受け取ると、
「あのアルバイトの彼女、ウチの学校に通ってる留学生の子でしてね。彼女が店員しているって噂で聞いて、思い切って放課後に原付を飛ばして来てみたのですが……いや、本当に良さそうなお店で安心しました」
と笑いながら、他三人のプレイヤーに話しかけた。
一人入れ替わっただけで、卓の雰囲気ががらりと変わったのが分かった。彼女は、客のあしらいが非常に手馴れているのだ。他のプレイヤーが快く打てるよう気を遣い、信頼関係を築いている。
和泉はその後も何度も周りに話しかけ、愛想よくしながら打ち続けていた。
こうして新たな面子を入れて再開された半荘だが、当初ダンにとってはやりづらく感じるものだった。ダンは妖精界の出身で人間界の言葉も文化もまだまだ分かっていないところがある。和泉のように他家が積極的に話しかけてくると、違和感の無い返答を考えて話す事に頭を使わねばならず、打牌に集中できないのだ。
しかし和泉はダンが無口な質なのを察すると、彼ではなく他の二人へ主に話しかけるようになった。
それに何といっても、和泉の打ち方というのは非常に都合が良かったのだ。
「よし、立直」
例の魔法の力で早々に手牌をそろえたダンは、立直を宣言してみせて新顔の出方を見る事にした。役らしい役も無く、待ちにいたっては三萬の辺張待ち、とあからさまに悪い。しかしこのなかなかアガれなさそうな待ちは、局を長引かせてじっくりと和泉の打ち筋を観察する時間を作るのにはかえってうってつけだ。ダンは五筒を、わざと見せつけるようにゆっくりと河に並べて横向きに曲げ、和泉の顔色をうかがいながら千点の点棒を供託した。
しかしそれを対面から見ていた和泉は特に大きな反応をせず、自分のツモ巡が来た時にはあまりにもあっさりとダンと同じ五筒を手牌から抜き出して合わせ打ち、あっけなくオリを選んだのである。
この局、ダンは無事にリーチを自力でアガった。
その後も何局か和泉がどういう時にどう打つかに注目しつつ打っていた。しかし和泉はあまりにも受け身な打ち手だった。他家が少しでも手牌の進行度で有利に立ったり、攻撃性を見せたりすると、すぐにアガる事を諦めてしまうのだ。ともすれば誰も聴牌など程遠い状態であろうと、自分のアガリよりも他家に利する牌を切らない事を優先してしまうので、
――何だよ、こいつは……まるで張り合いが無え。攻めっ気というか、冒険心が無さすぎらあ。危険を承知で踏み込まなきゃあ、戦利品が得られねえだろうに……。
ダンは呆れかえった。
とはいえ、和泉が麻雀を打つ姿を見る限り、
――しかし、打ち慣れてはいる様子なんだよな。
であった。和泉は打牌に時間がかからず、リズムは一定で、牌をつまむ手に迷いが無い。打牌の作法もしっかりしており、打ちぶりだけ見れば経験豊富で老練な手付きすらしている。その事を考慮すると、
――つまりこいつは、堅い打ち方する質って事だ。たまにいるよな。門前・黙聴派で、相手に放銃む事を何よりも恐れてる、異様に静かな手合い。
ダンは今までの麻雀漬けの第二の半生から、鈴木和泉の大まかな打ち筋をたった三局の間に見抜いてみせた。和泉は他家に常に目を配り、河に捨てられた牌から相手のアガリのために待っている牌を読み、それらの必要牌を自分が切らないように手元に残して安全な牌を切る事に注力する事で、まずは自ら進んで失点するような事を避ける、守備的なプレイスタイルが身に染みついたプレイヤーなのだ。その分アガリの機会を意図的に見逃しがちで、打点を伸ばす爆発力も無い。大勝ちこそしないが大負けも絶対にしない。確実に小勝ちする事を得意とする。櫛田・外囿の二人とは戦略の根本が異なっていた。
――って事は少なくともトーシローでは無えぞ? さり気無く打ってるが、あまりにも防御がガッチガチだもんな……。
ダンは眉をひそめつつ目も細めた。脇の櫛田老人と外囿夫人はただ趣味で打っているアマチュアであり、打つ手は単純だ。しかしこの対面に座る和泉という打ち手は、ただ自分が勝とうとするのではなく、勝負を降りてでも相手に勝たせまいとする方が結果的には強い事を理解しているのだ。しかもそれを彼女は人並み以上に徹底していた。子供のような見てくれだが、大人のような渋い打ち方をする。という事は、
――こいつアレか、子供みたいな見た目の種族なのか。ブラウニーみたいな……て事はこの〈髪の毛まっすぐすぎる族〉って血族の中に種族って概念が包含されてるのか! 河東の奴、嘘ついたな?
などと妖精界出身のダンは誤解するのであった。
和泉を入れての最初の半荘は東四局までが終わり、そろそろ南入して後半戦、南一局が始まる。
――なんにせよ、こういう奴が実は俺様にとっちゃあ一番楽勝な手合いなんだよなあ、へへ……。
舌なめずりをしそうになるのを堪えつつ、時計を確認した。そろそろ掛け直す時間だ。南一局の手牌が配られ、周りの注意は各々の手牌へ向いた。その隙にダンは再び危険予知の魔法を唱えた。
――これさえあれば俺は無敵。たとえ黙聴しようが、俺には人の手牌の進行度が見えるんだ。
ダンが詠唱のために口を独り言のようにわずかに動かしていた事に、和泉が気付いて見ていた事に、彼は気づいていない。
そのまま南一局は始まった。十巡後、ダンの右頬の肌に痺れるものがあった。下家の手牌をじろりとねめつける。
――外囿のババア、高い手で聴牌しやがったな……。
と彼の感性は結論付けた。
そして実際に、彼が察知した通り、彼女には純然帯么九・ドラ二枚の満貫8000点が確定、立直すれば跳満に格上げして12000点という勝負手が入っていて、無意識に顔色を隠そうとわざと紫煙をくゆらせている。
彼は、すでに彼女が聴牌にこぎつけている事を、魔法で見抜いていた。
――こういう黙聴が俺にとっては一番うれしいんだ。なにせ俺には黙聴だって丸わかりなんだから……。
魔法では役の内容までは分からないものの、帯么九という役は捨て牌が特徴的になりやすく、それと察しやすい。面子の全てに数牌の端・一か九の牌を絡めるという条件上、不要な字牌の他には数牌の真ん中である四、五、六の牌ばかりが捨てられるのだ。夫人にアガらせないためには――自力でのツモアガリという周りには防ぎようのないものは考えないとして――ダンは端に近い数牌一、二、三や七、八、九を切らないようにすれば、安全に外囿の手をかわせる可能性が高い。ダンは、それ以外の事は特に注意する事も無いと感じ、とりあえず自身の不要な牌の中から中央に近い五萬を切った。
誰もこれでアガるはずが無かったのだ。
「ロン。1600点」
しかし和泉が発声した。
「七対子のみの安い手ですみませんねえ……」
予期していなかった和泉のアガリにダンは硬直し、彼女の倒された手牌の前で瞠目した。
――なんだ!? 何が起きた? 俺に黙聴が見えねえはずは無えんだぞ!?
彼の魔法は正常にかかっていた。あらかじめ察知しなかった以上、和泉が聴牌している可能性は存在しなかったはずである。にもかかわらず七対子を張っていたという事は、和泉は何らかの理由で彼の魔法による感知をかいくぐったという事を意味する。人間が、である。そのような事態はあり得ない。魔力を持たない〈動物〉の人間にそのような能力は無いからである。では気を抜いていて気付かなかったのか?
ダンの混乱をよそに、またも和泉の周りで歓談が起き始める。
「渋いねえ……お嬢ちゃん、少しは打ってんな?」
「ええ、家が雀荘でしたので……小さな頃から客の方々に交じって打って、掛け算より先に麻雀を覚えたくらいでして」
「すごいねえ、英才教育だ。今どきの学生は本は読まなくなったかもしれないが、俺達の時代よりも賢い」
「そうだわ、紅ちゃんが言ってたわよ、『日本の麻雀は日本で友達から教わって覚えた』って。もしかしてあなたが教えたりした感じ?」
「ありがとうございます。ええ、僭越ながら。同じ麻雀部ですので、部長として……」
「外国から来た子にものを教えるのって、大変だけど楽しいわよね」
「全くですねえ。エドゥアルダっていうブラジル人の親しい知り合いがいましてね、彼女にも麻雀を教えましたよ。もうめきめきと強くなってまして。そうだ、今呼びましょうか……」
彼らがだらだらととりとめの無い話をしゃべり続けている間、ダンはずっとその事ばかり考えていた。
そして次の局でも、和泉は何事も無いように客あしらいをしながら、魔法のかかった血眼で卓上を見張るダンをからかうように、のらりくらりと打ち回し続けたのである。
――畜生……俺にはチートスキルがあるんだぞ? それさえ使えば、こいつらカモって人生みんな楽勝のはずじゃねえのかよ……!
歯噛みするダンの目の前でまた、機械上面に内蔵された豆粒のように小さなサイコロが錐揉みして転がり、手牌がせり出してきて配られた。全自動麻雀卓の機械が中で前の局の牌を攪拌する音が、エアコンの生温い『ディンドン』の店舗に響き渡っている。
何局も打ち続けている内に、ダンの中で一つの結論に至らざるを得なくなっていた。
――認めざるを得ねえが……このガキ、さては俺の魔法が効きにくい奴なんだな?
と見た。
確かに、攻撃意欲などの感情を含めた抽象的・観念的なものを術の対象としたり、行使の際に参照したりするような強力な魔法やアイテムなどに耐性・対抗力を得るための特殊技能の類は存在するらしい、という噂は彼は耳にした事があった。しかし彼女のそれは個人の能力というより、和泉の打ち筋・得意とする戦術・プレイスタイルに起因する耐性だと思われた。
彼女は極めて守備的なプレイヤーのため、明確に攻めっ気を出して打牌をする事がほとんど無い。強く攻撃意欲を出さないため、手が入っているかどうかの反応の差が、彼女は他の人間よりも微細だった。それで彼女が聴牌しているかどうかがかなり分かりにくかったのだ。魔法でも感知が難しいほどに。
危険予知の魔法は、術者に危険を及ぼす気が無いと反応しない。
――つまりコイツは『アガれれば御の字』とすらも考えてねえって事だ。他家に振り込まず、他家のアガリに与する牌を切らない事だけがこのガキの関心事。そしてあくまでもそのために自分のアガリって選択肢がある。不利な局をリセットして、他家のアガリの機会を潰すために自分がアガる。このガキにとってアガリは、自分が得点するための行為じゃねえんだ。そりゃあ、反応しねえわなあ……。
このような極端な価値観の対戦相手に初めて出くわしたダンは、苦笑を抑えきれなかった。
しかし裏を返せばそれは、鈴木和泉がそれだけ守備に発想が偏り、守備に気を取られやすい打ち手であるという事も意味する。
ずっと和泉に攻撃をかわされ、隙を突かれ、点棒を掠め取られ続けた結果、今のダンの点数状況は追い詰められており、点棒箱の中身はかなり寂しくなっている。半荘の残り局数も、もはや少ない。
――のっぴきならねえところまで負けちまった。こんなに金が減ったならもうしょうがねえ。
その上配られた手牌は、数牌は全くまとまりが無いというわけではないものの客風の字牌が多く、悪くは無いがとても冴えてもいない。この低劣な走り出しから巻き返すには、もはや手段を選んではいられない。
――使うか……三つ目の魔法を……!
ダンはにったりと笑った。雀荘の裏メンを初めてからというものほとんどした事の無い、牙を剥いた表情で。
和泉は相変わらず他プレイヤーに愛想良くする事に忙しく、
「――ええ、中々愉快ですよ。そうだ、その友達を今呼びましょうか? 彼女、今日本におりますから……」
などと話している。これのおかげで、ダンが何か独り言のようなものを呟いた事には誰も気が付かなかった。
もちろんそれこそが第三の魔法――物を取り落としづらくなる魔法の詠唱であった。無事に唱え終えた後、ダンの手のひらは触覚が明確かつ細やかに変化している。
上家の櫛田老人が切り、自分のツモ巡が回って来た。
本来であればここでダンは、二段に積まれた牌の山から新しく牌を一枚めくり取って来て、その次のツモ牌をただ手牌に加えるだけの動作をすべきである。当然、牌を取って来るのであるから、手牌から牌を持つ理由は無い。
しかしダンはそうせず、自分のひどい手牌の中から不要な牌をさり気無く手のひらの内側に忍ばせた。それから山へ手を伸ばした。
そして山からは一枚ではなく二枚をバレないように指で持ち上げ、手のひらの中に隠し持っていた不要牌を代わりに置いて、手を引っ込めた。
無論、不正行為である。
勝つためにダンはイカサマをした。麻雀の古くからの俗語で言えば「ギった」のである。山から不当に牌を持ってくる行為をそう呼ぶ。
一度のツモで引いてこられるのは本来ならば一枚。しかしそれを二枚引いてこれる時点で、手牌の進行速度は正規の倍である。山からツモを引いてくる際に手牌からの一枚と入れ替えているので、見かけ上は通常通り一枚だけ減ったように見えている。犯行そのものも一瞬の出来事なので、その瞬間に手を掴まれたりしない限りは、指摘されたところでなんとでも言い逃れは出来る。
そもそも、櫛田も外囿もたった今イカサマ行為があった事にすら気が付いていなかった。
――よし! この馬鹿共やっぱり気付いてねえな……。
山に置いてきた物とは別に本来の捨て牌をしたり顔で切って見せてから、二枚いっぺんに牌を入れ替える事に成功して見違えるように良くなった手牌に見惚れた。
――しかもギったらちょうど良いところを引いてきた。二三四の三色同順が目指せるようになった。
萬子は二萬・三萬・四萬がそろった。筒子は四筒だけ手の中にある。二筒や三筒がツモれなかったとしても平和かタンヤオのような別の役に移行すればいい。問題なのは索子で、二索と四索は確保しているものの、間の三索がすでに場に三枚切れてしまっているのだ。麻雀にて同じ図柄の牌は一種類につき四枚。最後の一枚を運良く回ってくる可能性に賭けるのは、たとえ幸運を呼ぶ魔法があるといっても分が悪い。すでに他の誰かの手牌の中で使われているかもしれないのだ。
――であれば……人が捨てた者から盗んで来るほかは無いよな?
立て続けに、今度は「拾い」というイカサマを行う事にした。
全体の捨て牌の中からじろりと探してみると、都合良く下家・外囿夫人の捨て牌の中にお目当ての三索が切られている。ダンはこれに目を付けた。
またも手牌から不要な牌を一枚抜き出して、手のひらの中に隠し持っておく。上家・櫛田が牌を切って自身のツモ巡が回って来た。ダンは通常のツモの動作を装って山へ手を伸ばす。
そこからの一瞬は、卓上の誰かが偶然視覚に捉える事が出来たとしても目を疑うものであっただろう。
外囿夫人の捨て牌の河の上空をダンの手が掠めた瞬間、場に捨てられていた三索の牌が重力を失ったように宙に浮かび上がったかと思うと、次の瞬間にはダンの手の中へ自ら飛び込んだのだ。それとすれ違うように元々ダンが隠し持っていた不要牌が音も無く卓上へ落ちた。
瞬き一つする間にいつのまにか、三索が並べられていたはずの場所には、全く別の牌が切られていた。そしてその三索は今ダンの手牌の中に、山からツモった牌と同時に収まったところだった。
ダンの手のひらは今、物を取り落としづらくなる魔法によって吸着力が増していた。これが殺陣の場面であれば、剣の柄を確実に握って剣を操る精度を高める、その程度でしか役に立たない。しかし剣よりもはるかに小さくて軽い牌が対象の場合、手のひらを近づければ思い通りに牌を吸いつけたり離したりさせられるのだ。
この事に気づいたのは、人間界に転生して一年が経った頃の事だった。負けが込んだある日、破れかぶれになった彼は願掛け程度の気持ちで縋るように魔法を唱えてから対局を始めた。すると、苛立ちで手遊びに小手返しを繰り返しているその指に、牌が磁石のように張り付いて離れなかったのだ。体内の魔力が尽きない限り、休憩・食事・睡眠での魔力の回復を欠かさない限り、人間界でも魔法が使える。
――俺はそういう肉体の生物なのだ。そういう上位存在なのだ。
この事実を発見して以降、彼はわざと客に勝たせた半荘を除いては負け無しとなったのである。
――この三索は放棄された遺跡から発掘された。俺の優れた魔法で探索した結果だ。全ての冒険者の夢、一攫千金の財宝を俺は掴み取ったんだ!
たった二、三巡の間に、ほとんどゴミのような不揃いだった手牌は、幾度ものイカサマによって、今や役をいくつも複合させた強力な手となっている。
そこへまたツモ巡が回って来た。彼がツモのたびに山から引く牌は、幸運を呼ぶ魔法によって必ずアガリに有用な牌に限られる。
周りから何も感じるものはなかった。危険予知の魔法によって、彼より先に手が入っているプレイヤーはいないという確信を持てた。
「よし来た……立直!」
ダンが自信たっぷりに牌を切りながら千点棒を供託したのを見て、彼以外のプレイヤーはたちまち弱気になって勝負を降りた。
魔の力を操る彼を驚愕させた和泉もまた、あっさりと今彼の捨てた牌と同じ牌を合わせ打ってしまった。オリたとしか思えなかった。
――やっぱりな! 嵩に懸かって強気に攻めれば、防御の上手い奴は自ら防御一辺倒になりたがるんだ!
あとは、最後の一枚をツモるか誰かが切るのを待つかしてアガるだけだった。この時間は短くも長くも感じられた。自分だけが優位に立っている楽しい時間は過ぎるのが早いものだが、それでもアガりの瞬間は待ち遠しい。
何巡かして、櫛田老人が打牌に時間を要するようになってきて、顔にも苦しげなものが混ざりだした。先手を取られた後から勝負出来るほど強い手牌状況でも無いが、勝負を降りたくても安全そうな牌が無いのだ。悩んで切る牌が今や危なっかしいものばかりである。そしてその時はとうとう訪れた。彼は二筒を切ってしまった。
「ロン! 高い方です」彼は大喜びで牌を倒した。「立直・タンヤオ・平和・三色同順と、裏ドラが――一枚乗って跳満、12000点!」
指折り数えて点数を申告し、鼻歌が今にも飛び出そうなほど得意になって点棒を櫛田の手からむしり取った。櫛田がダンから点棒のお釣りをさびしく受け取った。
しかし、
「すみません、あのう、すみません」
なぜか和泉が手を上げながら後ろの背もたれに体を乗り出して、店員を呼んでいる。駆け付けて来た紅葉風へ、和泉は質問した。
「ああ、この店のルールを確認させてもらっていいですかねえ」
「はいはい! ダブロンあり、トリプルロンは流局です」
「ありがとうございます」
ダンはいぶかって尋ねた。「どうしましたか?」
「じゃ、私もアガれますね。平和・一盃口の2000点です」
と言って、和泉もまた牌を倒したのである。彼は和泉の手牌をまじまじと見た。確かに客風の字牌を雀頭にした、アガリ形が両面で二筒・五筒待ちの、文句無しのアガリ形だった。
――オリた訳じゃなかったのか……あんなにあっさり切ったのは、あらかじめ安全牌が用意してあったからか?
彼女の黙聴が危険予知の魔法で見つけなかった事は、もはや驚かない。しかし、他の魔法を十全に活かして攻めたにもかかわらず、涼しい顔で凌がれた挙句むざむざアガリまで許したのだ。
――畜生! 畜生……魔法で力の差を見せつけてやったと思ってたのに……。
ダンは愕然としながら、口をぽかんと開けたり歯ぎしりしたりを繰り返しながら、和泉の顔と手牌を交互に見た。
彼と目の合った和泉が、飄々と言ってのけた。
「何か聞きたそうな顔をしていますのでお答えしますが……ダンさんは時折もにょもにょと独り言みたいなものを唱えますねえ。きっとそういうルーティーンで集中を保っているんでしょう、あなたが口の中で『もにょもにょ』をするたびにあなたに運が向く。私はこういうオカルト打法みたいな考えはめったにしないのですが……もしもそういう時のあなたが必ず使いたい牌を山から摘まみ取ってこれると仮定するならば、私のもとに来る牌とはつまりあなたには不要な牌という事です。そういう牌が来るという前提で構えていれば、あるいはすいすいと聴牌出来るのでは……と思いましてねえ」
ダンはさらに歯噛みした。
――魔法を逆手に取られたってのか? そんな話あるか!? 点差の方は高い手をアガってひっくり返したってのに……。
手牌や場の捨て牌・山を全自動卓の機械の中へ流し入れる手が震えている。
和泉は呑気に卓の下の手元でスマートフォンを操作しはじめた。しかしそれに気が付いた紅葉風が彼女を注意した。和泉は素直に席を立って通話をしに行った。スマートフォンを耳に当て、
「...Alô, alô? Eduarda-san, você está livre no momento? ...É, é....Há um estacionamento para bicicletas ao lado desse edifício. Minha Honda C 100 Dream está lá. Você conhece minha bicicleta, certo? ...」
ダンには聞いた事の無い言語を操りながら、玄関先へ一旦出て行く。
その時――和泉が『ディンドン』の外へ出るために店の玄関扉を開けた時、人影が見えた。人影はいくらか背の高い、サングラスをかけた老人だった。サングラスはティアドロップのレンズが嫌に濃いせいで顔が分からない。髭をきれいに剃り、丈の長い外套で全身を小奇麗に整えている。
だがその男はつばの無いとんがり帽子を被っており、ダンが妖精界にいた頃のノームの帽子そのものだったのである。
――なんだ、アイツ……!?
ダンは驚愕した。妖精界にしかないはずの帽子をかぶった男が、人間界に現れているのである。それも、妖精界から転生してきたダンがいる店の前に立っているのだ。
サングラスとノーム帽の男は物腰は穏やかそうに見え、店先で河東に対して何か話をしていた。しかしその河東は明らかに青ざめていた。
――あの帽子は何度見ても見間違いじゃねえぞ。王都の〈デルドリニン・キャップス〉で売ってる帽子だ。河東が慌ててるって事はアイツが密輸で売ったわけでもなさそうだ。少なくとも俺は河東に卸した覚えは無え。て事はアイツは王都エシッディアからわざわざこっちに持ってきたとしか考えられねえが……?
彼の脳裏に横切ったのは、牧師の男が言っていた「異世界カルトへの秘密裏の監視」の事であった。曰く、彼の故郷エシッド王国の王室には直属の捜査班が組織されており、異界に関わる者達を見つけ出しては、秘密裏に処理している、と裏社会ではもっぱらの噂なのである。彼らはそのために国内の暗部が異世界に接触を図りはしないか目を光らせるのみにとどまらず、自ら異世界についての情報を仕入れ、その技術を調べ、それに対抗するための手段を持っているのに違いない、との事であった。
当然、彼ら自身が異世界間を転移する技術を保有していても、何らおかしくはない。
そして、そういった意味では非常に胡乱な帽子を被った男が、彼のいる店の前に現れたのも、
――絶対に偶然なわけが無え……。
と彼は思わずにはいられない。
玄関先で辛うじて見える河東の姿は、サングラスとノーム帽の男と話をしているというよりむしろ男に尋問されているように見え、明らかに顔は強張り、狼狽している。そしてサングラスの男が河東の肩あたりを手で小突くように押すと、河東が短く絶叫しながら後ろから何かに引っ張られるように体勢を崩したように見えた次の瞬間には彼の姿は見えなくなってきた。
――なんだ? 何だよあのグラサン野郎! アイツが……アイツがカルトの連中が言っていた『異世界関与取り締まり』って奴なのか……!?
思わずダンの顔が青くなり、こめかみから汗が垂れて顎まで伝い、それを拭った。そうとは知らない櫛田と外囿の二人は、ダンの顔が急に強張ったのを不思議そうに見ていた。
「いや、すみません。すぐに戻って来るつもりだったのですが、思わぬインシデントの報告がありまして……」
通話を終えた和泉が、へこへこと頭を下げながら戻って来た。彼女も玄関先にいたはずである。しかし彼女は彼らの事には一切触れる様子は無かった。サングラスの男と河東の事など全く見えていなかったと言わんばかりだった。玄関の扉は、和泉が戻って来る時に閉められてしまい、外の様子は今はもう見えなかった。
彼女が戻って来たので、彼女がスマートフォンを鞄の中にしまうのと同時に、卓が再開された。麻雀卓の上で放置されていた牌を各々が確認し、親が仕切り直しの第一打を切った。
しかしダンは今は麻雀どころではなかった。サングラスとノーム帽の男の事が気になって仕方が無い。ダンは玄関口に背を向けるように座っている。玄関であのサングラスとノーム帽の男が河東に一体何の事を話していたのか、河東はどうなったのか、玄関先にいたはずの和泉は無関係ではないのか、という疑問がどうしても付きまとい、背中側へ意識が散る。それでも対局は容赦なく進行してゆく。
点棒状況の方は、跳満の大物手をアガった事で改善し、現時点で二位へ急浮上し、いくらか余裕が出来ていた。代わりに、ダンと和泉の両方へ振り込んでしまった櫛田老人が順位を四位まで後退させ、口をへの字に曲げて余裕の無い表情で終始自身の手牌だけをにらみつけている。ビールに口を付ける事も出来ないようだ。一方で現時点で一位の外囿は、ダンに僅差まで詰め寄られたにもかかわらず、彼ではなく和泉の方にずっと目線が向き続けていた。実年齢よりも若々しく見られたい彼女なので、自分よりも年下の同性の若者に敵愾心を抱き、仮想敵としてみなしているのかもしれない。和泉が着卓してからというもの、心なしかたばこを深く吸うようになり、灰を落とす頻度が落ちていた。そして問題の和泉は現在三位。変わらず、大人びた直毛の長い黒髪の中の童顔に愛想のよさそうな笑顔を固めている。その天真爛漫そうに口角を横へ引き延ばした笑顔がダンには無性に不気味に感じ、まるでヒキガエルのようにすら見えた。
ダンは浮足立って回らない頭のまま牌を手に取った。差し当たり北から切り出した。
しかし配牌はひどい。字牌は四枚もあってそれが何ら重なっておらず、数牌は両面どころか対子も嵌張も無く、てんでんばらばらと言いようがない。
次巡、ダンのツモ番が回ってきた。しかしツモは前巡・第一打と同じ北であった。切ったばかりの牌を手に入れても仕方が無いので切る他に無い。
――畜生、配牌も悪けりゃツモも効かねえ!
捨て牌が被って出だしで足踏みするなど、通常のプレイヤーはともかく、ダンにはあり得ない事である。ダンは顔を上げ、壁に掛けられた時計で時刻を確認した。
一時間が経っている。
――魔法がちょうど切れてきやがる時間……!
幸運を呼ぶ魔法の効果時間がすでに切れていた。手牌もツモも悪くなっているはずであった。思わぬ難敵・和泉を攻略する事に気を取られ、謎のノーム帽のサングラス男や河東の消滅を目撃して動揺してしまった事も重なって、うっかり魔法をかけ直すタイミングを逸し、幸運を呼ぶ魔法がかかっていない状態で対局を再開してしまったのだ。その上、直前の和泉に魔法を詠唱しているのを指摘されている手前、再び表立ってはやりにくい。
――よし、こうなったらもう一度拾うか……。
物を取り落としづらくなる魔法はかけたばかりで、まだ効果時間が続いている。ダンは再び手の中に不要牌を握り込んだ。
バレないように指をそろえて手の甲を丸めて次のツモ巡を待っている時、不意に和泉が話しかけて来た。和泉がダンへ話しかけて来たのはこれがほぼ初めての事である。
「そうだ、ダンさんと言いましたか」
「な……なんだ?」
「さっきの三索ですがね、見えてましたよ」
「なんだって……」
声が震えていた。ダンはまじまじと和泉の顔を見た。和泉の目は鈍く光っている。
「早業でしたねえ。視界の端で捉えるので精一杯でしたが……しかしあんな、牌が浮き上がるほど高いところから拾ったら、横から見えるに決まってるではありませんか」
「うっ……」
手の中に隠していた不要牌が転げ落ちていた。
櫛田老人と外囿夫人はイカサマの告発を耳にして、露骨に疑るような表情でダンの顔を覗き込んでいる。
麻雀でのイカサマは原則として、現行犯でなければ指摘はほぼ不可能と言って良い。そうでなくては不正行為の立証には証拠が不十分で、ただの言いがかり以上にはならない。しかし、こうまで不信感を買い注目も集めてしまっては、そのまま厚顔無恥にイカサマを続けるような蛮勇も出来なかった。すごすごと素直に空手でツモ山に手を伸ばす。
その時、ふと和泉の指摘を頭の中で思い返して、
――って事は後ろの玄関からも、あのグラサンのノーム帽の親父からも見えてたんじゃ……?
という疑念が頭をもたげて来た。
――まさかあの親父、前使った時にもいたのか? それで俺の事がバレたんじゃ……?
一度そう心の中で考えてしまうと、もうダンの中で心当たりはそれだけになってしまい、今度はこの事ばかりが頭の中を回りだす。こうなるといよいよ麻雀の方へ頭が回らない。しかし対局中に玄関の方を振り返る訳にもいかない。ダンは思わず、あのサングラスのノーム帽男と一緒にいた河東の姿を店内に求めて目だけで探した。
しかし店内にはアルバイト店員・紅葉風の姿しか見つけられなかった。
河東がいつまでたっても帰ってこない。
――まさか、さっき……あのグラサン親父に消されたのか? それとも攫われたのか?
恐ろしい予感が彼の中で巡りだす。彼も元はといえば冒険者、依頼を請けて調査などをしている内に恐ろしい暴力行為や後ろ暗い陰謀に、自らも切った張ったで挑みかかる形で触れて来た者で、こういうギャング的な発想や感性は前世・前職のおかげで鋭敏である。
――もしもそうだとすると、あの男は人間界側のカ・ウァトーだけじゃなく、妖精界側で仕入れをしてた俺の方まで……?
そして彼の知覚は、危険予知の魔法とは関係無しにそれの強い予感を感じ取っており、背筋が凍り付いていた。
「ポンだ!」出しぬけに櫛田老人が発声した。
「え?」
上の空になっていたダンは目の前の対局に引き戻された。彼は何も考えずに發をツモ切りしたところだった。
「その發はポンすると言ったんだ!」
櫛田老人が自分の手牌の中から自身の持っていた發の対子二枚を倒して晒し、ダンが今切ったものと合わせて三枚揃いの刻子にした。彼は今まであまり他家の牌を鳴いて副露するような打ち手では無かったので、ダンは面食らった。
鳴きが入ってツモ巡がずれたので、また彼の手番となった。九萬だった。幸運を呼ぶ魔法が無いとやはりツモ運は悪い。彼はツモった牌を手牌に入れずそのまま捨てた。
「あたしもチーしちゃうか。チー!」
外囿夫人も副露した。ダンが切った九萬を彼の捨て牌から取り、手牌から倒した七萬・八萬の両面の塔子と合わせて手牌の脇に晒した。
二人が早い巡目から食って鳴きを入れる鳴き麻雀派に宗旨替えをした。点棒に余裕のある外囿夫人はともかく、負けているはずの櫛田老人までもが安い手に落としてでも早いアガリを目指しているのは普通ではない。よほど手が悪くても早々にアガリを諦めるとは思えない。彼は最下位なのだ。不正行為をしているかもしれないプレイヤーとは楽しく打ち続けられないと考え、さっさとアガリを出して局を潰して半荘を少しでも早く終わらせ、退店したくてたまらないのだ。よく見れば櫛田老人の顔はビールも手伝ってかなり赤らんでいた。
せっかくの鴨が帰ってしまう。というより、この卓がお開きになった時、もしかしたらあのサングラスの男が入れ替わりに入って来て彼に何かをするのではないか、という恐怖が頭をよぎる。本当に卓を続行させる事を考えるのであれば、裏メンも店員である以上他の客が入ってきたら席を代わってやらねばならないので、そうなる前に櫛田をさっさと帰らせてしまう方が良い。しかし櫛田はそうだとしても、もしも外囿夫人まで同じ事を考えて鳴いていたとしたら? 彼女も打ちながらくゆらせていた紫煙の火をすでに消してしまっている――ダンの震える頭ではそこまでの事は考えられてはいないものの、少なくとも彼女の鳴きが彼のアガリの妨害に繋がる事は間違いない。
人間が自分の邪魔をしている。人間にしてやられる事だけは考えられない。あのサングラスのノーム帽男が本当にノーム族で妖精界から来た男かどうかまでは見分けられなかったが、あの男に対処してこの世界で生きていくためには、目の前の人間という餌を路銀に換金する必要があった。
――もうなりふり構っていられねえ! イカサマもバンバン使ってやる! 魔法もデケエ声で唱えて構わねえや! コイツらから金ふんだくるだけふんだくって、この店からはおさらばだ! あのグラサンにバレねえように身をくらませねえと……俺はどうなるか分からねえ!
ダンはもはや進退窮まった状況を前に、捨て鉢になりつつあった。
しかしそれでも彼は、追い詰められた時にこそ度胸を発揮して生きのびて来た、かつての冒険者であった。ひどい手牌から不要牌をいっぺんに三枚も手の中へ押し込みながら、何の臆面も無く口を開いた。ダンが周りにも聞こえるほどの声で幸運を呼ぶ魔法を唱えるのが、外囿夫人と和泉に注目された事を、ダンは歯牙にも掛けない。櫛田老人もいぶかりながらツモ山へ手を伸ばしていた。櫛田が捨て牌を切った直後、ダンは手のひらに三枚の不要牌が吸い付いた手をツモ山へ近づけ、それらを大胆にもツモ山の牌四枚とすり替えた。一度にこれだけの枚数をギるのは、魔法無しには物理的に不可能である。
乱暴にイカサマで有用な牌を強奪し、自身の手牌の中はアガリへぐっと近づく。
一旦はこれで良い。しかし、
――ずっと自分の手牌ばかり気にしてたが、周りはどうなってんだ?
しばらく他家の進行状況を見ていなかった。目線を手牌から場へと移す。
櫛田・外囿は一副露で変わらずだった。捨て牌を見る限りはまだあまり数牌が切られている様子も無いので、せいぜいまだ一向聴どまりだろう、と見た。
問題は和泉であった。捨て牌が変則的で、先に数字の中張牌が惜しげも無くばらばらと捨てられており、その後から字牌が出てきている。直感では七対子のようだが、数牌の色が萬子と索子に偏っているので筒子の混一色か何かにも見える。と言ってそのどちらかと決めつけきれもせず、ただの平和の可能性も捨てられない。特に和泉はその打ち筋から、危険牌を先切りするなど堅実さを優先して手組みの順序の定石に従わない事が多く、色々なケースをケアして考えなければならない。
それに、肌に確かにびりびりするものがあった。和泉から危険予知の魔法の反応が伝わってきた。彼女からは一度も出た事の無かった反応が、この局になって突然露骨なほど強く感じられるようになったのだ。
その上和泉は、誰がツモ番になって切っても牌に注目せず、ずっとダンの顔を見続けていた。
――まさか、わざと殺気出してやがるのか?
としか、思えない態度である。賭け事に使おうがそうで無かろうが、勝つには心理戦、ポーカーフェイスの必要な麻雀において、自身の思惑を意図的に態度で見せびらかすというのは、戦術的にはとても考えられない事だ(マナーの上でも褒められた行為ではない)。
ダンはこれを危険予知の魔法で感じ取っている。もしも和泉が意図してこの行為を取っていたとすれば、それは魔法ありきの行動である。そして直前にサングラスとノーム帽の男を見ているだけに、
――さては、この和泉ってガキも、異世界関与取り締まりなんじゃ……?
という疑念が途端にむくむくと頭をもたげてくるのであった。
不審がっている内に、ダンは和泉と目が合った。その目の鈍い輝きは鋭さと濃さと彩度を増している。ダンの体は一瞬、邪視に射抜かれたように固まった。その視線をダンは、一度だけ対峙した事のある大規模魔族領の兵隊が放った殺気と錯覚しかけた。彼らは理性的で、激しくはない代わりに容赦も無かった。その時に蹂躙されかかったのを彼女の目から連想し、たかだか若年の小柄な娘相手にダンは気圧された。
山からツモを取ってきた後も、彼女へ挑戦して前へ出る気をどうしても起こせない。
――なまじ聴牌してるのが分かるせいで、受け身になっちまう……!
ここで何か妙な牌を選んで切れば、彼女がアガってしまう可能性がある。その事が必要以上に強く意識されてしまっていた。
ダンの魔法は今までずっと和泉に通用しなかった。向こうの今の行為は不可解で、こちらが仕掛けた行為だけが一方的に結実しなかった事実が、さらに和泉を不気味に見せた。
――もしもコイツが、あのグラサンと裏で繋がっていたとしたら……? 俺も今この場で河東みたいに消されちまうのでは……?
という突拍子もない想像という形を取って、臆病さが顔をのぞかせた。
――駄目だ。コイツを下手に刺激したら、あのグラサンと一緒に何をしてくるか……。
ダンはつい先ほどサングラスのノーム帽男を前にしてアガって点数と金を稼ぐ事を誓ったばかりにもかかわらず、結局は自ら魔法で検出した聴牌の存在感に屈してオリてしまった。ダンは面子を崩して五索を切った。
一度勝負を諦めたとなれば、もう聴牌している和泉に逆らってアガリへ向かう必要も無いのが気軽である。
――幸運を呼ぶ魔法でしくったんだ。危険予知の魔法の方は今かけ直しちまうか、ちょっと早いが……。
そう考え、ダンは口を動かした。
しかしその直後、ツモ巡が回って来た和泉は短い腕を伸ばして山から引いてきた牌を、手牌の上へ乗せる事すらせずに、
「立直」
そのままツモ切りの上で宣言し、牌を曲げたのである。
――コイツわざわざ魔法掛け直すの待ってから立直しやがった! テメエの方から聴牌を宣言したら俺の危険予知の魔法の意味が無えんだよ!
心の中で悪態をつく。攻めるのであれば一巡遅らせる理由も無い。和泉のプレイングはまるでダンをからかうようだ。非常に腹立たしい。
和泉の攻撃を受けて、ダンはどうそれを受けるべきか考えた。ダンは直前に勝負を降りている。一度手を崩した以上、また攻めに転じるような真似も出来ない。
――次に何が来ようとオリはオリになるが……コレどうしたらいいんだ……?
口をへの字に曲げながら、立直を受けて和泉の河を再び見た。しかし河に並べられた捨て牌を見ても何も分からない。そもそも七対子だったとしたらほとんど何でもありだ。相手の待ちを読む意味は無いのではないだろうか。
そうは思いながらもダンは和泉の河から目を離さないまま、自分の手番が回ってきたため牌を山から引いた。
引いた牌は五索、索子の牌九種のど真ん中だった。
――今良い牌来るんじゃねえよ!
悪態がうっかり口から出そうになる。ダンの今の手牌は索子が主で、本来であればアガリに大いに役立つ牌である。しかしダンはたった今オリを選んだばかりである。アガリを諦めた以上、今となっては全く無用な、的外れな牌が来てしまったのだ。
と言うよりも、この五索は和泉の眼力さえなければ二枚目になるはずだった。直前に捨ててしまった牌もまた五索である。もしもオリていなければ当然、二索・五索待ちで聴牌する事を選んでいただろう。そしてこの巡目で二枚目に来た五索が雀頭となったはずだ。その他も四つの面子として完成しているので、
――オリなきゃ本当ならこの牌でアガってたんじゃねーか!
ダンは愕然となった。その事実に気づいてしまったせいで、さらに頭の中が後悔や苛立ちで沸き立ち、彼から冷静さを奪う。熱くなった頭を少しでも冷やそうと帽子を浅く被り直す。後悔先に立たず、歴史にたらればは無し。何であれオリを選んだ以上は、和泉のアガリにならないであろう牌を終局まで選び続けて凌ぎ切り、オリ切らなければならない。そして五索は、
――こんなのドの付く超危険牌じゃねえか。これをそのまま切るわけにもいかねえし……!
手牌の中で抱え込む事は確定であった。
では何を選ぶ?
彼は自分の手牌をもう一度確認した。
五索以外の牌は? 三・四索から下が何枚もある。六索から上も何枚もある。あとは筒子と萬子の四・五・六あたりの数牌を持っている。
幸運を呼ぶ魔法の効果で、よりアガリが出やすくなるよう運を操作した結果の手牌である。それに、さっき手を良くするため中張牌を何枚も何枚も山からにイカサマでくすねてきたばかりである。
ことごとく、アガリに有用な牌ばかりである。
つまり、和泉のアガリに有用な牌でもある。その可能性がある。
――どれもこれも、和泉のアガリになりそうな牌ばっかりじゃねえか……!
麻雀には〈捨て牌と同じ種類での牌を待ってのアガリでは認められない〉という、いわゆるフリテンという決まりがある。しかし残念ながら、和泉の捨て牌に並んでいるものと同じ牌を、ダンはちょうど持っていない。
――安牌が、安牌が無え……!
手牌のどの牌を切っても、和泉がアガリそうに思えてならなかった。確たるものが無い。
では、また不正行為に訴えるべきか? 山から別の牌と何かをすり替えるか? それとも自分の捨て牌の順番をこっそり入れ替えながら切って、あたかも今は別の牌を捨てたかのように見せかけるか?
――いや、そんな事をしても駄目だ。和泉にはイカサマがバレてる。
そもそも彼は今、山から引いて来る牌はみんなアガリのためになる物に変わってしまう。すり替えたところで来るのは同じ危険牌。それが幸運を呼ぶ魔法の効果である。
では何を切る? 何も切れそうな物がない。しかし切らねばならない。オリねばならない。しかしオリられそうな牌が無い。
――マジかよ、長いこと使ってたが、今気づいた……この魔法、麻雀に大事なオリに全く向いてねえ……!
ダンは今にも叫び出しそうになって、めまいで倒れそうになりながら、震える手に偶然触れただけのいい加減な牌を、場へ投げ出すように切った。
――畜生、畜生! 魔法なんか使わなきゃよかった!
文字通り捨てるように切られた彼の牌が卓上に着地するのと同時に、
「ロン。親の三倍満で36000点です」
和泉は静かに言って手牌を倒した。
その瞬間、ダンは時間というものが止まって石のように冷えて固まったと思い込んだほど、体中の熱が冷め、目の前が色あせて行くのを感じた。ダンはいつの間にか腰を浮かせ、目を見開いて和泉の手牌を覗き込んでいた。しかし自分の中の芯の部分と共に視界が揺れて立っていられなくなり、椅子の座面の上に腰を沈み込むように座り込んでそのまま体を萎ませてしまった。
和泉は言った。
「点棒箱が空でゲーム終了、ですかね。点棒がさすがに足りませんでしょう」
彼女は立直時に供託した千点棒を戻した。それを目にした事でダンは辛うじて機械的に点棒の支払いと精算が出来た。今までに無い大損だった。
「に、人間のくせに……」
ダンはうめくように言った。
和泉は顔を上げた。
ダンは震える声で尋ねた。
「お前……なあ、お前は異世界関与取り締まりの奴なのか?」
ダンの言葉はこの時、妖精界のノーム語に戻っていた。脇の櫛田・外囿の二人、人間には理解出来ない言葉である。
しかし和泉はわずかに目を見開いた。
「そうだったのですか……気づきませんでした。いや、そちら側の手合いだとは思っていましたが、まさか妖精界の方だったとは……」
彼女も妖精界の言葉である公正契約語で返したのである。彼女がダンに初めて見せた動揺の表情だった。それがダンには最後に一矢報いたかのように錯覚して奇妙に嬉しかった。
しかし彼はすぐに肩を落とした。異世界取り締まりかどうかは結局不明だが、異世界自体は知っていたのである。彼に元々優位性は無かったのだ。
「て事は、最初から魔法も知ってたんだな……」
「まさか麻雀に使う奴がいるとは思いませんよ。しかし……そもそも麻雀は、我々打ち手に魔法をかけて惑わすものですからねえ」
「俺を、通報するのか?」
「処理するための者が処理するでしょう」
「……その密偵って、もしかしてサングラス好きかい?」
「好きでしょうね。ポーカーフェイスは大事でしょうから。手の内を明かさず、失敗は許されず、何が起こるか分からず。まるで麻雀みたいなお仕事ですから」
和泉が笑った直後、ダンの席の後ろが少し騒がしくなった。玄関扉が開く音と革靴の音がして、それとほぼ同時にアルバイトの紅葉風が「お客様、順番に並んでお待ちください」と案内するのが聞こえた。きっとあのサングラスとノーム帽の男が、ダンを捕まえて〈処理〉するために店に入って来たのだろう。
彼は自分の運命を悟った。目と鼻の先には摘発者。手元は空鉄砲。もはや逃げ出す事は出来なかった。そもそも彼は、前世では冒険者という生死をかけた世界で戦果を得る事を捨てて営利犯罪の片棒担ぎに走り、それが見つかって命と引き換えに咎められた。その上、その転生先でも麻雀という勝負師の世界で正々堂々と戦う事から逃げた結果、彼の不正は真正面から叩き潰されたのである。もはやそんな気も起きなかった。彼は力無くうなだれた。
紅がダン達の卓に近づいてきた。
「お客様、プレイを続行なさいますか?」
と尋ねてきて、裏メンであるダンに席を空ける事を暗に頼む。
同時に、誰かがダンの後ろに立った。
きっとサングラスとノーム帽の男が彼女についてきたのだろうと思いながら、ダンは振り向いた。
ところはそうではなかった。
「うわあっ……」
ダンは情けない絶叫を上げて腰を浮かし、そのまま全自動麻雀卓の上へ尻もちをついて倒れ込んでしまった。並べられ積まれていた麻雀牌がひどい音を立てて散らばりながら床へ落ちたせいで、卓に着いていた二人が驚いて飛びあがった。和泉が卓上でひっくり返っているダンの様子を見た時、彼は目を剥いて失神していた。
実際には、彼の後ろに立っていたのは名前をエドゥアルダ・シュルツ・アルヴァレスといって、和泉が電話で呼んだただのブラジル人の友人であった。髪はコイルのように巻いており、度の抜けた長身ではあるものの、何より売れないながらモデルらしく体つきもすらりと長い手足も非常に細身である。
しかしエドゥアルダは、麻雀の一筒を全体に模った奇抜な柄のリュックサックを体の前に抱えて持っていた。それがダンの目にはちょうど、彼が〈赤き戦斧亭〉の物置で盗みを働こうとしたあの時の瞬間の、彼から取り上げた菊科の水玉柄のマントを抱えて持つ、あの巨漢の店主アーグステ・ズブレッツィの姿と重なって見えたのである。