9 フェリクスの変化
果樹園はとても広い。
ただ、内部には入らず外の道沿いを馬で駆けるだけならそこまで時間はかからないという。
「帰りは町に寄ってみましょうか。馬を一時的に預けられる場所があるので。昼食を摂って帰りましょう」
「いいですね。では、町のオススメを期待しています」
「お任せください!」
ナディネは領を褒められたのがよほど嬉しかったのか、ずっと上機嫌だ。
本心ではあったがお世辞にこれほどの反応を返されると、フェリクスのなけなしの良心が少しだけ痛む。
そろそろスキップでもし始めそうなナディネの後を、フェリクスは苦笑しながら歩いた。
向かった先は屋敷の裏手にある馬小屋。
ナディネは慣れた手つきで馬に声をかけながら入って行く。
「白馬がいれば、フェリクス様に映えそうなんですけどね」
栗毛の馬を連れて、ナディネはクスッと笑いながらフェリクスに手綱を差し出した。
彼女でなければ嫌味に聞こえたのだろうが、恐らくただの感想だろう。
ほんの数日で、ナディネのことはだいぶよくわかってきた。
「あれっ、メアリ?」
渡された馬を撫でていると、ナディネが驚いたように声を上げた。
どうやら、三女のメアリが馬小屋に来ていたようだ。
自然とフェリクスも目で彼女の姿を探す。
「馬車を使うの? あ、買い出し?」
「うん。欲しい材料があって。ついでに飼料も買い足してこようかと」
メアリに駆け寄ったナディネは、膝に手をついてメアリに視線を合わせながら会話をしている。
彼女はとても妹を大切に思っているようだ。
「飼料も? あー、もっと早く言ってくれたらついて行ったのに……! ごめんね、メアリ。これからフェリクス様に領を案内するところなの」
「ううん、大丈夫。ありがとう、ナディネ姉様」
姉妹の会話をやや離れた位置で聞いていたフェリクスは僅かに首を傾げる。
それに気付いたメアリがこちらに目を向けてきた。
「なぜ使用人に行かせないのか、というお顔ですね?」
ドキリ、とフェリクスの心臓が音を立てる。
特にやましいことを考えていたわけでもないのに、なぜ動揺したのかはフェリクスにもわからない。
彼女の笑顔が、どこか大人びて見えたからだろうか。
それとも、こちらが疑問に思ったことをズバリ言い当てたからだろうか。
「あ、メアリは自分で料理をするのが趣味なんです。うちのシェフとも仲良しで。材料選びもこだわりがあるとかで、自分で町まで買いに行くんですよ」
「そう、でしたか。供の者はつけなくて大丈夫なのですか?」
意外な趣味を聞いて軽く目を丸くしたフェリクスは、一人で向かうと聞いてさらに驚いた。
「メアリも馬の扱いには慣れていますからね。それに、荷物は店の者が積んでくれるので大丈夫なんですよ」
「あ、いえ。……そうなのですね」
大丈夫かと聞きたかったのは、そういうことではなかった。
本当は、一人で買い物に出ても危険な目には遭わないのかが心配だったのだ。
だが、朗らかに教えてくれるナディネに聞き返すのもどうかと思い直し、フェリクスは微笑んで会話を終わらせる。
気にしていないということは、そういった心配もないということなのだろうと一人で納得して。
「フェリクス様。この近くの町は王都と違って、すれ違う人みんなが顔見知りみたいなものなのです」
「え?」
……終わらせたはずだったのだが、思わぬ方向から答えを聞かされて、フェリクスは珍しく驚いた声を上げてしまった。
声のした方に振り向くと、ニコニコとした笑顔を浮かべるメアリがこちらを見ている。
「みなさん親切ですし、治安もいいので一人でも出歩けるのですよ」
彼女が、こちらの質問の意図を理解して答えてくれているのだとわかるまで、数秒ほどの時間を要した。
確かにあらゆる場所から多くの人が集まる王都と違って、ここは領民を中心とした田舎町である。
外部から来る者がいないわけではないが、この地に足を運ぶ者は限られているだろう。
そういった者ですら、顔見知りになっている可能性が高かった。
スリなどの不届き者が頻繁に捕まる王都を基準に考えること自体が間違っていたのだ。
フェリクスにとってはそれが当たり前であったため、無意識に治安の心配が先に思い浮かんだのである。
(僕の育ってきた環境を考慮した上で、先ほどのわずかな言動の不自然さを察して……? いや、まさかな)
いつもあまり口を開かず、ニコニコしているだけのほんわかとした三女メアリ。
その大人しく優しい性格は美点であるし、確かに良い娘だ。
家族、いや誰もが彼女を愛し、守りたいと思うだろう。
かくいうフェリクスも、このまま危険のない場所で真っ直ぐ育ってほしいとは思う。
「とても平和な領なのですね。失礼しました。いらぬ心配でしたね」
「いいえ。心配してくださって、ありがとうございます」
メアリはニコニコと返事をした後、では失礼しますと告げて馬車の準備を始めた。
それを見て、すかさずナディネが荷台と馬を繋げるのを手伝い始めた。
フェリクスはその光景を黙って見守りながら、自然とメアリを目で追っていた。
(ただニコニコしているだけなのに、妙に人を惹きつける子だな)
宰相の妻としてやっていくにはあまりにも頼りない。
メアリのような娘には、彼女を守ってくれる人が夫としては適任なのだろう。
それこそ騎士には人気があるのではなかろうか。
元々、人を守りたい気持ちの強い者が騎士を志すのだから、守ってあげたくなる娘はかなり需要があることだろう。
そんな高尚な志など持ち合わせていないフェリクスにはよくわからないのだが。
馬車の準備が整い、一足先に町へと向かったメアリを見送るフェリクスは、今の思考の中で無意識にメアリを候補の一人として考えていたことに気付いていない。
完全に候補外だったのが、考えるまでにいたった。
この変化はとても些細なことだが、同時にとても大きな変化でもあるのだった。