38 フェリクスと誓いの練習
強靭な理性を働かせ、フェリクスは一度目を閉じると優しくメアリの頬に手を添える。
「悪かった。少しからかってしまっただけだ」
「意地悪……」
「おや、知らなかったか?」
「知っていたわ」
口を尖らせて拗ねるメアリに、フェリクスはふっと微笑んで指先で彼女の頬を撫でた。
ぴくりとわずかに身動ぎするメアリを安心させるように、優しく、ゆっくりと。
「結婚式などただの儀式だ。要は互いに生涯支え合うと誓えばいいのだから、キスの場所などどこでもいい。当日は僕が頬に口づけるから、メアリはじっとしているだけ。簡単だろう?」
「本当にごめんなさい。まさか自分がこんなに面倒臭い女だとは思わなかったの」
メアリの口から「面倒臭い女」という単語が出てきたことに驚いて、フェリクスは思わず手の動きを止めて目を丸くした。
あまりにもメアリに似合わない単語だ。特にフェリクスの人生においてメアリは最も面倒臭いから程遠い存在なのだから。
しかし目の前で落ち込んだように俯くメアリは気にしているらしい。
フェリクスは再びメアリの頬を撫でながら、少々目を泳がせて告げる。
「君を面倒な女性とは思わない。むしろ……かわいい、と」
フェリクスの口から「かわいい」という単語が出てきたことに驚いたのだろう、今度はメアリがパッと顔を上げて目を丸くしている。
自分でも「かわいい」という単語を使う日が来ようとは思っていなかったので、その反応はわからなくもない。
だがここまで本気で驚かれると、また意地悪したくなる衝動が込み上げてくる。
フェリクスはするっと撫でていた手をメアリの耳にまで伸ばし、頬全体を包み込むようにすると熱のこもった目で彼女を見下ろした。
「なぜそんなに驚く? 僕はいつだってメアリをかわいいと思っているのだが」
「えっ、あの」
「当日は頬に口づけでもいいが……前もって練習するという手もある」
「っ! フェリクスも、その。キスをしたいと、思ったりするの?」
「僕をなんだと思っている? ……当然だろう。好きな女性の前だと、ただの情けない一人の男でしかない」
ゆっくりと顔を近づけていくと、じっと見上げてきていた水色の瞳がぎゅっと閉じられる。
まつげが震え、無理してがんばっている様子なのはすぐにわかった。
(このまま唇を奪ってしまえたら)
そうは思うものの、メアリを大事に思うからこそ自分の欲を押し付けることだけは絶対にしたくなかった。
フェリクスはゆっくりとメアリの瞼にキスを落とし、続けて頬にキスをした。
メアリの甘い香りと柔らかな感触が唇に残り、たったこれだけでフェリクスのほうがのぼせてしまいそうだ。
「……先が思いやられるな」
「す、す、すみませ……」
「いや。僕が、だ」
「え?」
メアリがふと顔を上げたのがわかったが、今さら見るなとも言えない。
フェリクスは自分が彼女に負けず劣らず顔を真っ赤にしている自覚があった。
余裕ぶって迫ってはみたが、フェリクスとてこういったことには慣れていないのだ。
メアリのペースに合わせて、と思ってはいたが、むしろそれが言い訳に思えてくるほどフェリクスも今はこれで精一杯だった。
「……前もって練習する必要があると思うわ。私も、フェリクスも」
「同感だ。しかしこんな調子で本番は大丈夫なのか本気で不安だな」
「す、少しずつ慣らしていきましょう!」
精一杯なのが自分だけではないと知って少々強気になったメアリがなにやらはりきっている。
それがどうにもフェリクスは悔しい。
「ふむ。ではもう一度」
「えっ、待っ……! あ、あの、キスの場所は……」
「わかっている。メアリに無理をさせるようなことはしない」
フェリクスはそれだけを言うと、軽くリップ音を立てながら再び頬にキスをした。
二度目ともなるとだいぶ落ち着いている自分に気づく。あるのは、愛おしさだけだ。
「メアリがいいというまで、僕は大人しく待てができる」
「私が?」
「ああ。だから、唇を許してくれる時はわかりやすくそうと教えてもらいたい。ハッキリと、言葉か態度で」
「っ、意地悪!」
「そう。僕はとても意地悪だ」
恥ずかしさでぷるぷると震えるメアリを見下ろしクスッと笑ったフェリクスは、その後何度もメアリの頭に、額に、瞼に、頬に、たくさんのキスを落とした。




