8 フェリクスの品評
フェリクスがノリス家へやって来て三日が経過した。
朝起きて、食事をし、日中は屋敷の周辺を歩くなどして過ごす。
ずっと仕事や勉強ばかりだったフェリクスにとって、こんなにものんびりとした時間を過ごすのは久しぶりだ。
幼少期でさえ分刻みでスケジュールが決まっていた身である。もしかすると初めてかもしれない。
だからこそどう過ごしていいかわからず、結局一人で本を読むという時間ばかりになってしまった。
「今日も部屋で読書かー? 本来なら婚約者を選ぶために、積極的に関わらなきゃいけないんじゃねーの?」
マクセンの言うことは正しい。しかしどうにも気が乗らない。
フェリクスは目を閉じて不機嫌そうにため息を吐いた。
普段は気が乗らないというだけで仕事を放り投げることなどしないのだが、結婚の話となるとどうしても腰が重くなる。
フェリクスの中では、まだ婚約者選びを仕事の一つとして割り切ることはできていないようであった。
(まぁいい。どうせノリス家の者は次女のナディネ嬢を選んでもらいたがっているようだし、よほど問題がない限りは彼女を選んでやればいい)
ノリス家での滞在期間は短ければ短いほど良いとフェリクスは考えていた。
本当なら今すぐにでも帰りたかったし、すでにフェリクスの中で誰を選ぶかはほぼ決まっている。
だが、あまりにも早いと不信感を抱かれてしまいかねない。
それだけの理由で、彼はこの屋敷に留まっていた。
できれば円満に、当たり障りなく良好な関係を築いておきたいフェリクスは、あと一週間くらいは滞在してからにしようと計画していた。
(とはいえ、そろそろ動き出さないとそれはそれで怪しまれてしまうな。やれやれ)
まだここでの生活に慣れていないという言い訳も、三日目が限界だろう。
正直なところをいえば、初日でこの辺り一帯の地理は頭に入っていたし、ノリス家の者が一日どういったスケジュールで過ごしているのかも、なんならここで働く使用人の名前や仕事の時間まで把握してしまったのだが。有能の乱用である。
「……そろそろ動くとするか」
「お、そうこなきゃな。で? 誰と過ごすんだ?」
ニヤニヤと腹の立つ笑みを浮かべるマクセンを一瞥し、フェリクスはその質問に答えることなく立ち上がった。
「マクセン。お前も自由に過ごしていい。だが僕の後をつけるのだけは禁止する」
「はいはい、邪魔しませんよ。でも、何があったかは後で報告してもらいますよ。旦那様に叱られるのは俺なんで」
やはりマクセンを付けたのは自分の監視だったか。
フェリクスは胡散臭い笑みを浮かべる己の父を想像し、苛立ちを覚えた。
「お前が叱られたところで、僕になんの支障が?」
意趣返しというより八つ当たりの笑みをマクセンに向けたフェリクスは、背後で文句を言い続ける従者を置いて一人部屋を出て行った。
「ナディネ嬢。少しいいですか?」
「フェリクス様! はい、どうしましたか?」
朝食後のこの時間、ナディネは屋敷から少し離れた広場で鍛錬を行っている。
ただそれは毎日ではないらしく、適度に休む日を入れているらしいとメイドから聞いていた。
そして今日は休む予定だったはず。
他に急な用がなければこちらの申し出を聞き入れてくれるだろう、との判断でフェリクスは彼女を誘うことにした。
「もし今日お時間があれば、領内を案内してもらえないかと思いまして。屋敷の周辺は少し見て回ったのですが……」
「ああっ、そうですよね。気が回らなくて申し訳ありません。今日はちょうど鍛錬も休む予定でしたし、構いませんよ!」
もちろん、予定を知っているからこそ誘ったのだが、それをわざわざ言うほどフェリクスも野暮ではない。
ナディネは誘われたことに少し驚きながらも笑顔で快く了承してくれた。
「実を言うと領内のことはお母様やフランカ姉様の方が詳しいのですよね……ただ、二人とも執務で忙しくて。ごめんなさい、案内するのがこんな私で」
彼女はあまり嘘の吐けない性格らしい。
自分を婚約者として選んでもらうのが目的だろうに、わざわざ姉の名を出すなんて。
彼女自身も婚約を拒んでいるから、積極的にもなれないといったところか。
ナディネは、本心を隠す気があるのかと疑問に思うほどわかりやすかった。
(考えが顔に出てしまうのは致命的だな。頭は悪くないようだが……頭が、悪い)
矛盾した言い方になってしまうが、それが率直に感じた印象なのだから仕方ない。
本心はどうあれ、自分が婚約者になるということがどういうことなのか、その自覚が彼女にあるのだろうか。
疑問に思ったフェリクスは、試すように笑顔で語りかけた。
「いいえ。僕が貴女に頼みたくて、お願いをしているのですよ」
「はっ、あっ、えっと。……はい、その。お任せ、ください」
案の定、ナディネには自覚が足りないようだった。
戸惑ったように口籠り、曖昧に微笑んでいるだけだ。
家族のための使命より、本心では自分のことを優先したがっている。実に正直な反応である。
別にそれ自体が悪いわけではない。
自分に正直なのは、流されやすいより良いとフェリクスは思っているからだ。
ただ、おそらく口では家族のためにと息巻いているだろうに、態度が伴っていないのが残念だというだけである。
熱意より実績を重視するフェリクスにとっては減点ポイントだ。
(まぁそれも仕方ないのかもしれないな。彼女も僕をあまり異性として見ていないようだし)
自分の顔が良いことを自覚しているフェリクスではあるが、全ての女性に好かれるとまでは自惚れていない。当然、好みというものがあるのだから。
初日からわかってはいたが、やはり自分はナディネの好みのタイプではないのだと改めて思う。
ただそれは、フェリクスにとっては割とどうでもいい情報であった。
どうせ政略結婚なのだ、相手の好みなど気にしたってなんの意味もない。
「あ、フェリクス様は馬に乗れますよね?」
「ええ、もちろん。馬で向かうのですね?」
「そうです。徒歩でもいいのですけどね。全体を見て回るには少し広すぎるといいますか……馬の方が効率よく見て回れますので!」
案内すると決まれば腹を括ったのか、ナディネは明るい笑顔で話を切り出した。
もしかしたら馬に乗るのが好きなのかもしれない。
急に元気になって、わかりやすいことだ。
だが、そうしてすぐに思考を切り替えられるのは良いところである。
今度は少しだけフェリクスの中でポイントが加点された。いちいち評価してしまうのは彼の悪い癖である。
「ノリス領は広大な敷地に果樹園が広がっていますからね。畑もたくさんあるとか。夕食や朝食の野菜はどれも新鮮で、大変美味しくいただきましたよ。ここで採れたものを使っているのですよね」
フェリクスにとって、このくらいの社交辞令はいつものことであった。
相手の領地の特産品を褒めることは、相手を喜ばせる常套手段だ。
初日の夕食時にワインのことは話したが、それ以外のことはまだ伝えていない。話のネタとして取っておいたのである。
もちろん、伝えた言葉が全て本心なのは当たり前のことだ。
もし特産品が口に合わなかった場合は、他では味わえない、などと言葉を変えるなどしている。
こういった部分で、フェリクスは嘘を吐かない。
「そうなんです! とっても美味しいでしょう?」
「っ!?」
大変美味しいと言えたのは、実際にとても美味しいと思えたからだ。
しかし、わかりやすい世辞をここまで喜んでくれる人には初めて出会ったかもしれない。
ナディネがあまりにも目を輝かせて近付いてきたので、フェリクスは思わず後退った。
「ふふっ、一番有名なのはブドウなんですけどね。我が領は雨が少ないので、確かに果樹栽培が盛んです。でも土や水が豊かなので、農作物全般よく育つのですよ! お口に合ったようで嬉しいです!!」
ノリス領の果樹園では主にワイン用のブドウを栽培している。
湿度が低く、一日の寒暖差が激しい気候は、まさしく早熟系のブドウ品種の栽培に向いていた。
ノリスワインはこの国でも一つのブランドとして確立しており、季節になると特に貴族たちの間で話題になりやすい。
フェリクスもまた、このワインを好んでいた。
「今の季節は緑の葉をつけた美しいブドウ畑が見られます。馬で駆けながら見る景色はとても美しいですよ」
「そ、それは楽しみですね」
饒舌になったナディネの言葉にどうにか返事をしたフェリクスは、思わずフッと小さく笑う。
人の言葉の裏を読み合うような世界で過ごしてきたフェリクスにとって、彼女のように裏表のない性格は新鮮であった。
(ただ、もう少しだけ知性がほしいところではあるな。妹がいたらこんな感じかもしれない)
人としては好ましい。だが婚約者として、となるともう少し頑張ってもらいたいと思うフェリクスであった。