7 フェリクスの主義
水を飲んで一度自室に戻ったフェリクスは、朝食の時間になるまで部屋で本を読んでいた。
しかし、内容はほとんど頭に入っていない。文字を眺めながら考えごとをしていた。
(メアリ嬢、か)
先ほど会った彼女のことについてである。
思えば、屋敷に来た時に簡易的な挨拶をしただけで、メアリとは会話をしていなかったことに気付いた。
彼女は十八歳と若く、そもそもフェリクスの中に候補として挙がってさえいなかった。
(常にニコニコ微笑んでいて、ふわふわしているというか、ほんわかしているというか……)
脳内でさえ明言を避けていたフェリクスだが、簡単に言うとメアリは頭が悪そうに見えるのだ。
「フェリクス、水が飲みたいなら俺に言ってくれればよかったのに」
「少し一人で屋敷内を歩いてみたかったんだ。次からは頼む」
「はいはい。それで? どうだったんだ?」
朝から軽口を叩くマクセンに、フェリクスは一般的な意見を聞くべく話を振ってみることにした。
「メアリ嬢に会った。マクセン、彼女のことはどう思う?」
自分でなければ、彼女に惹かれる男はたくさんいるだろう。
むしろ、一般的にはメアリのような庇護欲をくすぐるタイプの方が好みの者が多いかもしれない。
そう思っての質問だったのだが。
「え、お前、メアリ嬢が気になんの……?」
なんでもかんでも恋愛に結び付けがちなマクセンの意見は当てにならないのかもしれない。
フェリクスが冷たい眼差しを向けると、彼の性格を良く知るマクセンは冗談だって、と言いながらようやく先ほどの質問に答えた。
「めちゃくちゃかわいいお嬢様だと思う。フランカ嬢やナディネ嬢とは違う雰囲気だよな。ほんわかしててさ。いい意味で普通の、無害なご令嬢って感じ。正直、俺のタイプ」
「手を出すなよ」
「わかってるって」
やはり、一般的に見てメアリは男性受けするタイプのようだ。
普通の令嬢という印象も、わからなくもなかった。
しかし。
(僕を見ても、見惚れたり赤くなったりする素振りがなかったな。評価できる)
先ほどメアリを見て驚いたのはそのためだった。
姉二人が自分に興味を持たないのはすでにわかっていたが、あの普通の令嬢である三女もそうだというのは意外だった。
彼女くらいの女性ならほとんどがあからさまに熱のこもった視線を向けてくるのに、それがないというのは個人的に大変好ましい。
とはいえフェリクスはたったそれだけで、ついでに外見にも惑わされるような男ではない。
とにもかくにも、頭の悪さだけは許容することができないのだ。
「宰相の妻、か」
持っていた本を膝の上に置き、フェリクスは口の中だけで呟く。
そして、これまで自分が向けられてきた恨みや妬みの籠った視線や、受けてきた被害の数々を思い出した。
自分の父親が宰相であるというだけで、生まれた時からフェリクスも同じ道を歩むことが望まれていた。
ただ、別に宰相職は世襲制ではない。能力があれば息子でなくともその職に就くことができる。
だからこそ、フェリクスは普通以上に努力せねばならなかった。
宰相の息子なのに出来が悪い、などと思われては他ならぬ父親が泥をかぶることになる。
フェリクス自身、どうしても宰相になりたいとは思っていなかったし、父もまたフェリクスにやりたいことがあるのならそれを優先して良いと言ってくれていた。
憎まれ口を叩き、素直にはなれないフェリクスであったが、父親のことは尊敬している。
そんな父が悪しく言われることだけは、絶対に許せなかった。
恨みを買うことも、妬まれることも、フェリクスにとっては些事である。
全てをねじ伏せられるほどの実力があったし、今や誰も文句を言う者はいない。
だが、人の感情というものはそう簡単に消えるものではないのだ。
恨みも妬みも、その感情だけが残る。
行き場を失ったそれらは、いつフェリクスに牙を剥くかわからないのだ。
弱みを見せれば、付け込まれる。
フェリクスは一時たりとも気を抜くことができなかった。
(そしてそれは、僕の妻になる者にも向けられることになる)
だから妻になる女性も賢くなくてはならない。
誰に恨まれても、妬まれても、対処できるほどの要領の良さや実力を伴っていなくては務まらないのだ。
三姉妹の誰かがその重圧を背負うのかと思うと、フェリクスは僅かながらに胃が痛む。
眼鏡を外し、目頭をほぐしながらフェリクスは小さく息を吐いた。
(心労が今よりさらに増える。ああ、結婚など面倒でしかないな)
ただそれは、彼女たちへの同情では決してなかった。
(今でさえ鬱陶しいことこの上ないというのに、さらに妻の分まで背負うことになるのか)
もちろんできないわけではないし、いざ結婚したなら妻に対しできる限りのフォローはするつもりだ。
そのくらいの責任感は持ち合わせている。
ただ、余計な仕事が増えるのが憂鬱なだけ。
フェリクスは恋愛には向かない、仕事人間であった。
そうこうしている間に朝食の準備が整ったという知らせがやって来た。
メイドに案内され、先ほども向かったダイニングルームへと向かう。
(ん……? 暗い?)
ダイニングルームに入った瞬間、フェリクスは違和感に気付いた。
朝はあんなにも陽の光が射し込む明るい室内だったというのに、今は薄暗さを感じたからだ。
別にそこまで暗いというわけではない。
ライトが点いているし、食事をするには十分すぎるほどの明るさだ。
そう、必要がないはずのライトが点いているのである。
その原因は、窓際のカーテンにあった。先ほどはレースのカーテンのみだったのが、今は厚めの布のカーテンが引かれている。
フェリクスは、案内してくれたメイドに質問を投げかけた。
普段なら特に気にしないことだが、なぜか今は妙に気になる。
「失礼。どうしてカーテンが? 先ほどはなかったように思うのですが」
フェリクスからの質問に、メイドは頬を赤く染めながら答える。
「こ、この時間帯は、特に外からの陽が射しこみます。とても明るくて良いのですが、フェリクス様がお座りになられる場所は、眩しくて目が開けられないほどになってしまうのですよ」
「……なるほど、そうでしたか」
普段はフェリクスが座る席に人はいない。
そのためレースのカーテンで済むのだが、今はフェリクスが快適に過ごせるように閉めざるを得なかったのだという。
「お心遣いに感謝いたします」
「いえ、私も他のメイドから聞いたことですから」
メイドはフェリクスを席に案内した後、一礼をしてその場を離れた。
「一応は、歓迎されているようですね」
従者モードでマクセンが耳打ちしてくる。
確かにその通りだ。こちらを歓迎する気持ちがなければ、このような細やかな気配りなどされていなかっただろうから。
フェリクスがイスに座って少しした後、三姉妹が揃ってダイニングルームへと入室してきた。
「あら、カーテンが閉められているのね?」
自身と同じようにすぐ気付いたフランカに、側にいたメイドが先ほどフェリクスにしたのと同じ説明を告げている。
話を聞いた彼女たちは納得したように頷くと、それぞれが席に着いた。特に気にした様子はないようだ。
しかしフェリクスは、横目でチラッと三女メアリを見た。
彼女は穏やかな表情のまま視線をやや下に向け、大人しく座っている。
(まさか、な)
あの何も考えていなさそうに見えるほんわかとした少女が、そこまで気を回すだろうか。
少し考え、フェリクスはそれを否定した。
もしそうだとしても、随分と気の利く少女だと思う程度。
ただそれだけ。
しかしこれをきっかけに、フェリクスは妙にメアリを目で追ってしまうようになる。