20 フェリクスの恐怖
頭が真っ白になることなど、フェリクスの人生で初めての経験だった。
一刻も早くメアリを見つけることしか考えられず、闇雲に動き出すなど非効率極まりない。
そんなことをマクセンがしようものなら数時間のお説教コースだというのに。
(メアリ……どうか無事でいてくれ)
王都の治安について、フェリクスは誰よりも知っている。
明るいうちは人目も多いため問題があってもすぐに町の警邏兵にしょっぴかれるのだが、暗くなると闇に紛れて悪事を働く者が活発になる。
人が多い王都の社会問題であり、王家としても頭の痛い問題だった。
比較的安全な日中であってもメアリを一人で外出させられないというのに、夜に一人でうろつくなどフェリクスの心配もわかろうというもの。
しかし、焦っていてはこの広い王都でメアリを見つけることなどできない。
フェリクスは足を止めないまま、努めて冷静に頭を回転させた。
(まだ王都に慣れていないメアリが知らない道に行くことはないだろうが、もし何者かに追われていたら路地に誘導されている可能性が高い。いなくなってからそこまで時間が経っていないことを考えると、ペンドラン侯爵家からもそう離れてはいないだろう)
近くの大通りを駆け抜けてもメアリの姿は見当たらない。
こういう時ほど悪い予感というのは当たるものだ。
フェリクスはすぐさま捜索の足を複雑な路地に向けた。
(誰かを追い詰めようとするなら……行き止まりに誘導する。メアリが追われている前提になってしまうが、人目で貴族とわかる女性がこんな時間に出歩いていたら十中八九……!)
王都の路地はまるで迷路のように入り組んでいるが、当然フェリクスは全ての道を熟知している。
例えば犯罪者を追い詰める際にどのルートを辿るのが良いか、自ら追いかけることは滅多にないが指示を飛ばす立場にいるフェリクスには必要不可欠な知識だ。
その知識は遺憾なく発揮され、ほどなくしてフェリクスはメアリを見つけることとなる。
少し先の路地を横切る淡い金髪。追いかけていく男たち。
フェリクスは瞬時に走る速度を上げてメアリが駆け抜けた路地を曲がる。
そこでフェリクスの目に飛び込んできたのは、淡い金髪を男が思い切り引っ張り、メアリが地面に倒れ込む瞬間だった。
カッと頭に血が上り、フェリクスの体はまたしても考えるより先に動いた。
メアリの髪を掴んでいた男の腕を捻り上げ、勢いのまま腹部に膝蹴りを食らわしたかと思うと、集まってきた男の仲間たちを次から次へと蹴り飛ばしていく。
襲い掛からんとする者たちを時に背負い投げ、拳で殴り、回し蹴り、ものの数十秒ほどで場を制圧したフェリクスは呼吸一つ乱さずその場に佇むと、ピッと上着を引っ張って服装の乱れを直した。
「……フェリクス、さま?」
地面に座り込み、か細い声で呼ばれた自分の名。
フェリクスは眼鏡を直しながら振り返ってメアリを目だけで見下ろすと、つかつかと彼女に歩み寄る。
メアリは戸惑った様子でフェリクスのことを見上げていた。
「怒っています、よね。ごめんなさ、あっ……」
メアリの言葉には何も答えず、フェリクスはその場に両膝をついたかと思うと彼女の頭と体を引き寄せ、ギュッと腕の中に閉じ込めた。
どくんどくんと聞こえてくるのは、ひと暴れした後のフェリクスの心音だろう。
腕の中にある柔らかく小さな身体を壊してしまわないよう細心の注意を払いながら、フェリクスはできる限りメアリを強く抱きしめた。
言いたいことは山ほどあったが、何一つ言葉にならない。
メアリのふわふわとした淡い金髪に顔を埋め、彼女の香りに癒される。
そこでようやくフェリクスは、震えているのが彼女ではなく自分だということに気づいた。
「フェリクス様、私……」
「何も、言わないでください」
か細い声を遮るように告げたフェリクスの声もまた、か細く消え入りそうな囁き声だった。
「今は何も。貴女だって、僕の言いたいことくらいわかっているでしょう」
「ぁ……」
「心配、しました」
ゆっくりと長く細く吐かれた息とともに、フェリクスの力も少しずつ抜けていく。
メアリの体温を感じる内に、ようやく強張っていた身体も弛緩していき、震えもいつの間にか治まっていた。
(まるで子どものようだな、僕は)
情けないことだが、同時に幸せだとも感じてしまう。
だがこの幸せを失うことを想像すると、再び震えがきてしまいそうだ。
フェリクスが目を閉じて心を落ち着かせていると、腕の中からいつも通りのメアリの声が聞こえてきた。
「あの。助けてくださって、ありがとうございます」
「……当然のことですよ」
「それでもです。私、無意識に心の中でフェリクス様に助けを求めていました。だから本当に……」
「ああ、メアリ」
危険にさらされている最中、同じ王都にいる彼女の父でも他の騎士でもなく、心の中で助けを求めたのが他ならぬフェリクスであったことが不謹慎ながら嬉しかった。
背中に回された小さな手、胸に顔を埋める愛しい存在に、フェリクスの気持ちも溢れていく。
(いや、待て)
このまま愛を告げても良いと思ったフェリクスだったが、脳内にいる冷静な自分がストップをかける。
恐ろしい目に遭った直後に感情が昂るのはよくあること。
それを恋愛感情と勘違いしてしまうこともあるらしいというのもよく聞く話だ。
(……この状態で想いを告げてしまうというのは、弱みに付け込んでいるようで少々卑怯じゃないか?)
知識だけは豊かなフェリクスは鋼の精神でメアリから身体を離すと、いつもの胡散臭い笑みを浮かべてメアリに告げた。
「お聞きするのが遅くなって申し訳ありません。メアリ、怪我や痛むところはありませんか?」
「い、いえ、特にありません。少し髪が乱れたくらいです」
「女性の髪に乱暴に触れるとは重罪ですね。この者たちはすぐには目覚めないでしょうし、警邏の者に厳しく罰するよう伝えておきましょう」
「そ、そんなにですか? わかりました」
「僕の婚約者に手を出したのです。当然ですよ。さて、僕たちはペンドラン侯爵家に戻りましょうか。その間に色々と説明していただきますよ、メアリ」
「……フェリクス様らしいですね。わかりました」
今後のことを事務的に伝えられたメアリは暫し呆気に取られたように目を丸くしていたが、すぐにクスッと笑っていつものほんわかした雰囲気を纏う。
フェリクスはその微笑みを見て、改めてホッと肩の力が抜けるのを感じた。




