9 フェリクスの欠けた集中力
執務室ではペンを走らせる音や紙を捲る音、印を押す音などの作業音だけが響いている。
いつも書類仕事ばかりをしているわけではないが、会議があった後は内容をまとめ、諸々確認するためにも机に向かう時間が多い。
アルフォンスはこの時間が最も苦手で、隙あらば休憩しようとするためフェリクスも目が離せないのだ。
「……フェリクス?」
「……」
しかし今のフェリクスは、メアリの姿を王城で見てからというもの普段ではあり得ないほど集中力に欠けている。
そうはいっても時々動きが止まってぼんやりする程度であるし、他の者より仕事は進んでいるので問題はない。
しかしぼんやりしすぎて呼んでも気付かないというのは初めてのことだ。
アルフォンスは戸惑ったようにしばらくフェリクスを見つめ、意を決したように大きな声を上げた。
「フェリクスってば!」
「っ、はい。なんでしょう?」
大きな声で呼ばれたフェリクスは、一瞬だけ目を見開くとすぐにいつもの調子を取り戻して冷静に返事をする。
一方、アルフォンスからすればフェリクスのこの状態は大ごとだ。
考えごとをしていて反応が遅れることはあっても、ここまで酷い状態は初めてだった。
「なんでしょう、じゃないよ。どうしたの? らしくないじゃない」
「何もありません。いつも通りです」
当然、心配が先に浮かんだアルフォンスは、眉尻を下げて優しく問いかけたがフェリクスの反応はこの通りである。まったくもってかわいくない。
アルフォンスはスッと目を細めて腕を組み、椅子の背凭れに寄りかかった。
「嘘だね。ここまでフェリクスがぼんやりすることなんて初めてだもん。言い訳はしないよねぇ? 有能なフェリクスならぼんやりしていたって自覚はあるのでしょう?」
「……」
フェリクスに対して注意ができる滅多にないチャンスとばかりにアルフォンスはふんぞり返っている。
心の声が聞こえてくるほどわかりやすい態度にフェリクスはため息を吐きたくなったが、今回ばかりは仕事中に集中力を欠いていた自分が悪い。
結果、フェリクスは黙って目を逸らすことしかできなかった。
その反応もまた珍しかったため、アルフォンスは茶化すのをやめて心底フェリクスを気遣うように問いかけた。
「体調でも悪い? それとも……何か気になることでもあるのかな」
「……個人的なことですので。申し訳ありません、仕事に集中します」
「そういうことが言いたいわけじゃないんだけどなぁ」
呆れたように肩をすくめるアルフォンスに対し、フェリクスは特に反応を示すことなく仕事を再開した。
(仕えるべき殿下に気遣われるなど、情けないことだ。メアリがちゃんと帰れたかが気になるなど、言えるわけもない)
フェリクスだってアルフォンスがただ心配して聞いているのだということくらいわかっている。
ただこの程度のことで集中力を欠く己が恥ずかしく、わざわざ言い出せないだけだ。
フェリクスは心配性を拗らせているだけ。
マクセンからメアリが馬車に乗ったという報告が来るまで気が気ではないだけなのだ。
過保護である自覚はあったが、ここは王城。
フェリクスの弱みでも握ってやろうと考える暇人がわんさかいる場所だ。
つい先ほどだって、クラウディアと一緒にいたのを見たばかりだ。他にも遭遇する可能性は高い。
(カリーナがいるから大丈夫だとは思うが……貴族が相手となると迂闊に手も出せないだろうからな)
実際、できるだけ厄介な貴族との遭遇を避けることはできても、声をかけられてしまえばカリーナにそれを遮る術はない。
メアリなら対処できるだろうし、何かあっても後ほど自分が対応すればいいだけではあるのだが、言われたこと、されたことは記憶に残る。
特に嫌な経験はしつこく人の心に残るものだ。
フェリクスは、メアリにそんな思いをさせたくなかった。
(もし質の悪い貴族に絡まれたら? 騎士なんかに見つかろうものなら、メアリは注目の的になってしまう)
騎士に関しては、むしろノリス副団長の末娘だからこそ身の安全は保障されているとは思うのだが、メアリの姿を目にすれば挨拶がてら声をかけるくらいはするかもしれない。
これはフェリクスの偏見だが、騎士たちはメアリのような守りたくなる可憐な女性を好む傾向にあるのだから。
屈強な騎士たちに囲まれるメアリを想像して、フェリクスはスッと表情を無くした。
彼の考えがまったく読めないアルフォンスは、突然の恐ろしい変化に思わず冷や汗を流す。
自分に矛先が向いているわけではないとわかっていても、フェリクスが纏う氷点下のオーラは恐ろしい。
「殿下、今日は仕事を切り上げてもよろしいでしょうか」
「え」
「急ぎの仕事はありませんし、殿下から何かあった場合は明日の朝一に片付けます」
「あ、いや」
「急用ができた時は屋敷に連絡してください」
矢継ぎ早に告げられた言葉の数々に、アルフォンスは呆気にとられっぱなしである。
「それとも他に何か?」
「いや、私の話も聞いてくれない? ダメなんて言ってないでしょ」
落ち着いて、とばかりにアルフォンスが片手を上げて制すると、ようやくフェリクスもこほんと咳をして言葉を止めた。
アルフォンスは苦笑を浮かべつつ、口を開く。
「構わないよ。メアリ嬢が心配なんでしょう?」
「……そんなことは言っていません」
「はいはい。フェリクスにも人間らしい一面があると知れて、私は嬉しいよ」
「殿下?」
いつもは迷惑をかけられっぱなしのアルフォンスに図星を突かれるというのもなかなか屈辱だ。
そういった複雑な感情を一切表に出さなかったというのに、わかっているとばかりに手で追い払うようにされるのも。
やられっぱなしは性に合わない。
フェリクスはにこりといつもの笑みを浮かべると、立ち去り際にもう一言付け足した。
「殿下はきちんと今日の分をまとめておいてくださいね? それも明日の朝一に確認いたしますから」
「うわ、鬼畜ぅ……わかったよ! ほら、もう行きなよっ!」
悔しげに頬を膨らませるアルフォンスを一瞥したフェリクスは、ドアの前で美しい一礼をするとあっという間に部屋を出ていった。




