39 フェリクスの好意
その後、立ち止まっていた足を再び動かし、なんとも気恥ずかしい雰囲気を感じながらどうにか訓練場へとたどり着く。
フェリクスにとっては、妙に長い道のりだった。
訓練場に近付くにつれ、騎士たちの野太い声や金属音が大きくなっていく。
時に上官の怒号も聞こえてくるため、女性を連れて来るには向かない場所だと改めて感じる。
メアリは怖がっていないだろうかと横目で様子を窺うが、特に動じる様子は見られない。
「聞こえてくる声が怖いなどはありませんか? 内部に一歩入れば、もっとうるさくなりますが」
怖がっているようには見えないが、念のため確認をしておく。
まだ離れている上、ドアが閉まっているからこの程度で済んでいるが、訓練場の内部に入ればダイレクトに音が響く。
騎士たちが近いこともあって、気圧される可能性は十分あるのだ。
「怖くなることはないと思います。昔、父が本気で戦っているのを近くで見たことがあるので」
それは一体どんな状況だったのだろうか。
幼い娘の前で何をしているのだと思わずにはいられない。
「……大丈夫だったのですか?」
「最初は驚いて身体が震えるほどでしたが、隣で見ていたナディネ姉様が大興奮で。そっちの方が気になって……その後は大丈夫でした」
父も父だがナディネの感性もおかしい。メアリが幼い頃ならナディネだってまだ子どもだっただろうに。
ともあれ、あの副団長の本気を幼い頃に耐えられたのなら、怯えて動けなくなるなんてことにはならないだろう。
「ある程度の予想と覚悟はしています。ナディネ姉様からも、訓練の様子はよく聞かされていましたし。ただ、人が多い王国騎士団の訓練場は初めてなのでちょっとドキドキしています」
やや頬を紅潮させながら言うメアリは、ギュッと拳を握りしめている。
確かに、普通のご令嬢よりは耐性があるのかもしれないが、王国騎士団は地方の騎士団より迫力がある。
副団長一人も相当な迫力ではあるが、大人数の圧に驚く可能性はあった。
「……よろしければ、手を」
「え?」
「これでも、騎士と渡り合える程度の実力はあるのですよ。勝負に勝てるかは微妙ですが、何かあった時にはメアリをお守りできます。もし驚いて気圧されてしまっても大丈夫なように」
苦しい言い訳だっただろうか、と内心で思いながらも、フェリクスは努めて冷静に微笑んだ。
メアリはというと、自分が少しだけ怖気づいたことに恥ずかしくなったのか、頬を赤らめている。
(考えてみれば、今周囲に人はいない。「演技」の必要がない場でこういった提案をするのは不自然だったか?)
仲の良い二人をアピールする必要がない場でのスキンシップの誘いは、メアリを不快にさせたかもしれない。
フェリクスは今になって己の提案を後悔した。
「必要がなければ、いいのですが……」
気まずい雰囲気に耐え切れず、フェリクスがそっと手を引っ込めかけたその時、メアリが勢いよく両手で手を握りしめてきた。
あまりにも突然だったため、すぐには反応できずに目を丸くしてしまう。
「いえ! 必要なので貸してください!」
顔を赤くしながらそう言ってくれたのは、こちらに恥をかかせないためだろうか。
メアリは人の気持ちを察せる優しい子なのだ。
不慣れな場だというのに余計な気を遣わせてしまったことに、申し訳なさを感じる。
だが、今更どうしようもない。
彼女の優しさに付け込む自分はとても卑怯な男だと自覚していても、どのみちこの小さな手を振り払うことなどできないのだから。
「ええ。いくらでもお貸ししますよ」
今更、何をいい人になろうとしているのか、と脳内で自嘲する。
元々、フェリクスは人を利用して益を得るような男なのだ。
もちろん、度の超えた要求をするつもりはない。
そこまで最低な男に成り下がる気は毛頭ないし、これでも紳士としての矜持は持ち合わせている。
(手を握る程度のことは許される、だろう?)
そう思うのに。
ただそれだけのことなのに、罪悪感を覚えるのはなぜなのか。
いい大人が少年のようなことを考えている。
それが無性におかしく思えた。
メアリが本心から言ってくれていたらどれほどいいか。そんな望みを抱くなんて、と。
返事を聞いてふわりと微笑んだメアリを見つめながら、フェリクスは自分がつくづく恋愛初心者なのだということを思い知った。
訓練場のドアを開けると、一気に騎士たちの声や剣のぶつかる音量が大きくなる。
そのことにメアリがビクッと身体を震わせた。心構えはしていたものの、やはり少し驚いたのだろう。
「大丈夫ですか?」
握っていた手に力を込めて問いかけると、メアリはフェリクスを見上げながら苦笑を浮かべた。
「ええ、大丈夫です。やはり実際に見ると違いますね。なんだか、皆さんが大きな怪我をしてしまわないか心配になってしまいます」
ここでも心配なのは自分ではなく他人であるらしい。
恐怖を感じた時には人の本性が現れやすいというが、それならばメアリは真に人を思いやれる人物だと言えよう。
フェリクスとしては、これ以上メアリを好きになってしまう要素が増えるのは困るのだが。
ますます自分が醜態をさらしてしまいそうで。
「実際に敵と対峙した時は、あの比ではありませんよ」
醜態をさらさぬよう、努めて冷静にフェリクスは話を続けた。
「そう、ですよね。今は訓練ですし。それでもあの迫力なんですね……」
メアリの瞳が不安に揺れる。
何か悪い想像でもしたのかもしれない。
こういう時、メアリは本当にか弱い令嬢に見える。
外見の印象もあって、今にも吹き飛んでしまうのではないかと錯覚してしまうほどだ。
これがフェリクスにとってはなかなか心臓に悪い。
「怖いですか?」
「いいえ。頼もしいです。皆さん、国のために頑張ってくださっているのですから」
眩しいほどに純粋だ。
実際、メアリの言うことは正しい。フェリクスとてそう思っていることだ。
だが、これほどまでに真っ直ぐ言葉に出せる者はそう多くはない。
たとえばフェリクスが同じことを言ったとしても、胡散臭いだとか偽善だなどと陰で囁かれることだろう。
貴族というのは水面下での醜い争いが絶えないのだから。
メアリもそういったことに巻き込まれる可能性はある。
しかし、純粋なだけではない彼女なら、たとえ巻き込まれたとしてもほんわかとした笑みを浮かべて問題なく躱せるであろう。
「……彼らの力を思う存分振るうようなことなど、起きないのが一番ではありますけどね」
そうは言っても、国境付近での小競り合いは起こるし、大なり小なり犯罪は毎日のように起きている。
戦争こそ起きてはいないが治安が良いとも言い切れず、騎士団が出張ることはそれなりに多いのが現状だ。
つまり、フェリクスの言ったことはただの綺麗ごと。
それでも、メアリの前でなら自分もそういった理想を言える。メアリなら聞いてくれる。
嫌味もなく、ただ純粋に。
それがどれほど救われるか、メアリは気付いていないだろう。
「そうなのですよね。騎士団の仕事がなくなってしまうのは困りますが、危険なことはない方がいいに決まっています」
メアリもまた、真っ直ぐな理想を返してくれる。
フェリクスを目の敵にし、無駄に張り合って否定的な意見を言ってくるヤツらに見習ってほしいものだ。
そんな面倒な人たちを思い出し、軽い愚痴もこぼしてしまう。
「ただ、そう考える人の中に、今は戦争もなく平和なのだからと騎士団の育成に異議を唱える者もいるのですよ。軍事力の強化に疑問を持っているのでしょうね」
「気持ちはわからなくもないですね。ですが、抑止力になるかと思いますので無駄にはなりません。むしろ、この平和を維持するためには必要かと」
守る力があってこその平和だ。そのことをメアリはきちんと理解している。
こういう点で価値観が合うのは助かるものだ。些細なことから深い話まで、メアリと意見が衝突することなどほとんどない。
(日に日に手離し難くなるな。離す気はないが)
他人に興味を持ってこなかった反動だろうか、人に向ける好意のすべてがメアリに向かいつつあるフェリクスであった。




