幸せの定量化
こっちの世界の音楽を嗜んだエルピスの反応はというと、目を宝石のように輝かせ、「聞いたことないよこんな音! 木の楽器じゃこんな音出ない。複雑な音がたくさん絡み合ってる。リズムも独特だし、音が静かになったとき、早口な声が聞こえたと思ったら、またすぐ元の調子に戻って……。何かの怒りを歌にしているのかな? うん、魂の叫びだと思うから、この歌はきっと政治文化的な憤怒を表現したかったのかも。少し難しいけど、とても刺激的だった」
百点満点の感想だ。心の中で拍手喝采する俺。
一応解説すると──現実で冴えないガリ勉主人公が微分の問題を解いていると、ある日周囲の人間を微分、つまり三次元の人間を二次元に変換する能力を手に入れてしまい、学校で無双する話だ。異能力モノで俺のイチオシだったりする。
間奏中に入る微分された女子キャラたち──主人公を散々ひどく扱ってきた彼女たちが許しを請う弾幕台詞を初めて聴いたとき、俺は脳天を打ち砕かれたような衝撃を味わった。キャラに対する羨望、認められなかった存在が、全員から認知され成り上がる様は圧巻である。
異世界にアニソンは当然存在しないわけで、オタクなどの偏見なく率直な感想をくれるだろうという俺の目論見は見事に当たった。
エルピスが少しでも愉しんでくれたことに希望が見えた。家族が心ない人間に殺された悲しみは癒えずとも、たとえ十字架を背負ってでも、エルピスには幸せを掴む強さがあると思う。彼女の姉もそう信じてこの世界に送り届けたに違いない。バトンは今、俺の掌にある。
「元の世界に帰るには、確か幸せにならなくちゃいけないんだよな」
「帰るのに必要な魔素を貯められる方法が、それしかないから」
「あと、どのくらい魔素が必要なんだろうなと思ってさ。ある日突然準備が整ってそのままお別れとか、そんな結末も、とか色々相続が膨らんじゃってな……」我ながら歯切れの悪い物言いだ。取り繕うように苦笑。
「そっか、わたしがいないと寂しいもんね。社畜族は孤独だもんね。一緒に話をする人がいないなんて、そんな人生は辛すぎるもんね。大丈夫。魔素のことは、まだまだ時間がかかるし、いつになるかはわからない。ユーマには迷惑掛けちゃうけど、見捨てないでくれたら嬉しいです……」
「はい、オアシスの摂取ありがとうございます。嬉しくて温かい言葉を今、エルピスが全部くれたから。気迷惑どころか、以前の生活よりずっと心が晴れやかだよ。もっと我が儘でもいいくらいだ」
「ユーマに言われると、本当に甘えそうになるから自分を律しないと! この感情も幸せに入るのかな?」
エルピスの碧眼が一層輝きを増した。自らの弱さと真摯に向き合い、そして諦めない決意の目。まるで新入社員の頃の俺みたいに心を滾らせている。
「エルピスみたいな部下だったら、上司に好かれるんだろうな……とまあ本題に戻ろうか、体内の魔素量を何らかの形でわかりやすく捉えることはできないのかな? 普段の生活で魔素を使わなくちゃいけない場面があったとして、貯蓄に対してどの程度なら消費していいかとか、戦略的に魔素をコントロールできるんじゃないかと思ったんだ」
エルピスは少し宙を見上げてからやがて思いついたように、「コップに水、入れてくれる?」
「喉渇いたのか?」
「そうじゃなくて、水にわたしの魔素を共鳴させて色を見るの。魔素が少ないと黄色や赤、多いと青や緑になる」
理系の血がざわざわと騒ぎ出す。水は黄色っぽい見た目だった。やはり体内の魔素が少ないのだろう。
「定性じゃなくて、定量化したいところだな」
「テイリョウカ?」
「簡単に言うと、青や緑といった様々な色は人によって感じ方が異なる。どのくらい青いのかを数字で示せるように、つまり誰が見ても同じ青色っていう認識を持てることが大事だ。そうすれば目標の魔素量を計算して、または逆算して日常生活で使っていい量を決められる」
俺みたいなメーカーのエンジニアは目標や現在地を定量的に説明できるスキルが求められる。新製品を開発する際、どんな機能を何パーセント向上させれば他社品と差別化できるのか、などの論理的な回答が必要とされるのだ。
「色を数字に変えるってこと?」
「さすがエルピス、そういうこと!」
光が物体に当たると特定の波長光が物体に吸収され、残りの成分が反射されて俺たちの目に入ってくる。それが色の正体で、
「聞いたことないよ。色と数字が関係してるなんて」
「科学の力を使えば楽勝だ。その辺は魔法より優れてそうだな」俺の頭にはある装置が浮かんでいた。
紫外可視分光光度計──化学系出身なら誰もが一度は使ったことのある装置。エルピスの魔素を水に投影し、サンプルを会社に持ち込んで分析する。昼休みにこっそりやれば発覚しない。
「早速明日やってみるよ」
エルピスのためにできることがある。誰からも感謝されず期待されず、生涯会社の奴隷として尽くす未来しか視えなかった俺に、エルピスは役目という名の色を俺に与えてくれたのだ。