エルピスの帰還条件
全力で社内を駆け抜けたせいで久々に汗をかき、さらに乾くことでとてつもなく寒さが襲う。通勤は運動という張りぼてのスローガンは見事に崩れ落ちたのだった。
「はあ、はあ……もう大丈夫だろ。正直まだ若いだろって舐めてたわ。鍛えてない人間は加速度的に老いていくってことかー」天を見上げ、酸欠の魚のように俺は酸素を取り込む。
「すぐに助けに来てくれて嬉しかった。やっぱりユーマは私の知ってる人間とは違った。散々ひどいこと言ってごめんなさい」
「大丈夫。罵倒されるのには慣れっこだから」
「褒めていいところなのかな?」
「まあ社畜には標準搭載だよ。パソコン買ったらOffice使えるのと同じ話」
「よく分からないし」
「この闇の深さを知ってほしくないから、わざとマニアックな例えをしたんだよ。余計な心配をされたくないから」
駅のホームにあるベンチに2人で腰掛け、エルピスと次の電車を待っている。時折見知っている顔がいないか警戒するが、特には見当たらない。路線も多いし買い物する場所もそこそこあるし、会社を出て案外行動にはばらつきがあるのかもしれないな。日頃平日には行けないような場所とか。
「昼のお弁当の件、ありがとうな。温めてくれる魔法のやつ。胃が喜んでたよ」我ながらお爺ちゃんみたいな言い方だと思った。
「それもあるよ。でも温めるのは見せかけで、本当の狙いは魔法の発動した場所を特定することだったの。ユーマの会社に忍び込むための布石」
「まんまと騙されちゃったよ。色んな仕掛けを施せるんだな」
裏を返せばそういう知恵を巡らせないと生き残れない環境で育ってきたんだな、という言葉はさすがに呑み込んだ。
「魔法は、体内の魔素を消費して発動する。強力な魔法ほど魔素の消費量も増える。一度に扱える魔素量が多いほど、魔力が高いと見なされるの。ユーマに使ったのは、蓋を開けたタイミングで同心円状に魔素を放出する魔法。その中心を探知して、わたしはユーマの居場所を突き止めたんだ。ごめんなさい、許して」
「からくりはわかったよ。エルピスは悪くない。優しくすれば、こっちが心を開こうとすれば、相手も同じように開いてくれる、そう思ってた俺の怠慢だ。散々痛い目見てきたのに、種族が違った途端、俺は同じ過ちを繰り返した」
「心の底ではわかってた。ユーマが悪い人間じゃないって。だから一か八か、決死の覚悟を決めたの」
俺は腕を組み、「だけどその覚悟、俺は個人的に好きじゃないな」
「えっ?」
「エルピスの言う覚悟の延長線とは、自分を安らかに殺してくれる人探しの果てと言えるだろ。この世界でエルピスを殺しても犯罪者にはならないし、同情して優しく殺してくれる人を探してたわけだ。両親を殺した憎き人間に自分も殺されなきゃ申し訳が立たないと思った。俺だったら望むように殺してくれるかもしれない、そんな期待をもてるって意味で最初、俺を悪人じゃないと思ったんだろ」
「ユーマはわたしの考えてること、何でもお見通しなんだね。わかりくい方だって村のみんなからはよく言われてたのに」
「そうか? 結構分かりやすいほうだと思うぞ━━まあ、つまりだ。さっき言ってくれたありがとうの言葉は悪いが受け取れない。もしいつか、死ぬ理由じゃなくて生きる希望に俺がなれたのなら、そのときに改めて言ってほしいんだよ」
12月の刺すように冷たい風が吹き、顔や耳の露出部がひりりと痛くなる。エルピスも寒さに弱いのか、ぶるりと体を震わせた。
「ほら、コート貸してやるから。これで少しは暖かくなるはずだ。無いよりはマシだろ?」
「いいよ、ユーマだって寒いでしょ」
「馬鹿と社畜は風邪引かないんだ」
「そうなんだ。覚えておくね」
「いや、今のは嘘だから! 風邪引いてられないし、仮に引いても出社は義務だから結果的に引いてない扱いになるだけで、それ以前に社畜は体と精神が元々麻痺していて、ある日突然カロウシっていう即死の呪いが発動して死に至るんだ」
「即死……その辺の魔法より怖いよ……」
「だよな。俺もビクビクしてる。ブラック企業なんて早くこの世からなくなればいいのに」
「ユーマはそんな環境にいて、死にたくなることはないの?」
「もちろんある。毎日な。俺の場合、付き合いのある友達はほとんどいないし、彼女いない歴イコール年齢だから死んで悲しんでくれるのは両親だけだ。子供の頃はいじめも受けたっけ……でも、そんな社会の汚い部分を山ほど見てきたから、俺はそんな輩に落ちぶれたくないと思った。誰からも認められず絞られて虐げられても、大した意味もなく寿命を全うしてやったぞって、言う相手もいないくせにむきになってるのが今の誇り高き俺だ。笑っちゃうだろ」
「すごく素敵な考え方だと思う。ユーマはきっと強い人なんだね」
「格好つけて言ったが、中身は理想とは程遠い。エルピスの生い立ちを何となく聞いて、俺なんかよりずっとつらい目に遭ってて、このエルフは最低限俺より幸せにならなきゃ絶対駄目だって思った」
エルピスはまるで異世界の故郷に思いを馳せるように遠くを見つめつつ、
「幸せ……ね。わたしはこの世界で幸せにならなきゃいけないんだ。お姉ちゃんとの約束だから。そこから先はお姉ちゃんの意志に反するけど、幸せになって、元の世界に戻る」
「戻れる条件があるのか? この世界と異世界を繋げるってこと?」
「別世界へ転移する魔法は高等魔法だから、体内の魔素を使い切るくらいの覚悟がいる。お姉ちゃんは自分自身の魔素、たぶん命と引き換えに、わたしを生かすためにこの世界に送り込んだの──でもわたしは、やっぱりみんながいた村に帰りたい。帰って謝りたい、自分だけ生き残ってごめんなさいって。でも今のわたしに元いた世界に転移できるだけの魔素は残されてない」
「補給できたりしないのか?」
「魔素を含む食べ物を摂るか、もしくは幸せを感じることが魔素を蓄積する唯一の方法。食べ物は当然この世界にはないわけだから──」
「2つ目の、幸せを感じる」
「エルフ族は古来から他の種族より段違いに魔素を貯められる量が多くて、それは体内に魔素を合成できる器官があるから。幸せホルモンが内蔵器官を刺激すると魔素が合成される。元いた世界の研究者たちは、みんなその仕組みを狙ってエルフを蹂躙し続けた。器官があれば魔素を生み出し放題、政治や戦争に使えるから」
エルピスのいた異世界で起きたことが、ようやく俺の頭でも理解が追いついた。全くひどい話だ。
「まとめると、エルピスは異世界に帰りたくて、元の世界に戻る方法はこっちの世界で幸せになること、っていう理解で合ってるか?」
「うん」
「こんなこといって何だけど、本当にエルピスは向こうに帰りたいのか? あんな残酷な世界に」
「帰りたいんじゃなくて、帰らなきゃってユーマの話を聞いて思ったから。死者に会える魔法、それを使えばまたみんなと会話ができる──」
「だったら協力するぞ。その願い俺が協力して叶えてみせる。約束だ」
他人の幸せより自分の幸せを、それがついこの間までの俺の生き方だった。他人に無関心になった冷えた世の中では合理的な思考だと本気で思っていた。エルピスの強い想いはそんな腐った俺の人物像を真っ向から否定した。
「お願いします。わたしを幸せにしてください」
「よし、任された」
エルピスは薄く目を閉じ柔和な表情を浮かべた。まるでプロポーズ後みたいな雰囲気だな……。なんて。
「魔素の貯蓄は一朝一夕で終わらないんだろ? これからしばらくこっちの世界にいることを想定して、日常生活で使う魔素は最小限に抑えたいよな。どうすれば効率的に目標達成できるか」
「日常生活で不便なのは、やっぱりこの耳かな。見た目はほとんど人間と変わらないけど、どうしてもこの耳だけはね──」
エルピスは自分の長い耳を触る。
「決めた。今度の休日……いや休日出勤が終わってからヤマモト電気に行こう! 俺に考えがある」