ありがとうの言葉
「X向けの試作評価、まだ終わらないのか? 納期1ヶ月遅れだぞ! 営業のやつらもうるさいし、早く何とかしろよ」
社内の技術部オフィス。比較的大人しい理系従業員フロアに響くハゲ上司の遠吠え。いつものことだと割り切っているせいか、同僚や違う島の人間は誰ひとりとしてこちらを見ない。触らぬ神に祟りなし、といわんばかりに。
「はい、できるだけすぐ対処します……」
「できるだけ、じゃねえんだよ、今すぐやれ。お前の命犠牲にしてでもXは手離すな。向こうに愛想つかされたらお前の責任だ、覚悟しとけ。最悪この部署がなくなる可能性だってあるんだぞ。もたもたして逃げられましたーって、センター長の前で堂々と言ってやるからな、もちろんお前の名前を出して。血吐いてでもやり遂げろ。わかったな」
「承知、しました……」
Xとは呆海外マンモス企業のことで、社内でも秘密保持契約を結んでいるごく一部の者しか詳細は知らされず、企業名は情報漏洩防止のためアルファベット1文字で呼ばれる。プロジェクトが決まればざっくり3億が動く試算だ。プロジェクトの主務に抜擢されたのが俺。実力があるからではなく誰もやりたくなかったからだ。入社前はそこそこ規模の大きな企業だし人事の人も感じが良く当たりだと思っていたが、とんでもない暗黒世界だった。外面で就活生を騙し、そしてすぐに辞められるのでお互い不幸になるだけという構図は充分分かっているだろうに。
昼休み。ため息をつきながら食堂へ足を伸ばす。紙コップに玄米茶を注ぎながら、頭の中は顧客にどう言い訳するかで一杯だった。
カウンター席に腰を下ろし、お待ちかねの弁当を取り出す。タッパーはすでに冷えているが、蓋を開けると即座に温まる魔法が掛けられているらしい。いよいよ現実で魔法を使うのかと思うと、緊張で空腹が曖昧になる。
結局、エルピスからの念話は一度も来なかった。困り事がないなら何よりだが。少しは俺を信用してくれたのかも? うちが少しでも心安らげる場所になればいいんだけどな。さて、いよいよ開封の儀式を執り行う。蓋を少し開けたその瞬間、
「のわっっ!」
魔法陣が赤く発光し、その複雑な各模様が部分的に回転、移動して歯車を噛み合わせるように動く。刹那、ご飯から湯気が上った。
「まじかよ、ほんとに温かくなった」
理系人間として現象を考えたくなる。魔法の源は魔素と相場が決まっている。魔法陣はその魔素を緻密な配線のように繋ぎ合わせた模様で、大きさ、形、回転角などによってパズルを組み合わせる。そんな仕組みで魔法が発動するのでは?
大好きな妄想に浸るのも束の間、エルピスの魔法でほかほかの白米をたんまり胃にしまい込んだ俺は、それを全部吐き出させるくらいストレスフルな会議に午後から出席する。なぜ納期遅れが発生しているのか偉い人たちの前で説明するのだ。現状報告とその打開策はセットで言う必要があり、後者はスーパーコンピューターでもない限り答えを出せないだろう。
もう無茶苦茶だ──。
昼休憩が終わり、オフィスで小一時間報告書をまとめつつ、それも終わらず死刑執行のごとく会議室に向かう途中に、その事件は起きたのだった。俺は廊下で異様な光景を目にした。
会議に出席予定の技術部長が通路の奥に見えたので、すれ違うの何となく嫌だなあ、と思っていたら急に何かにぶつかったように弾き飛ばされ尻もちをついたのだ。一瞬呆気にとられたが慌てて駆け寄り、
「部長、大丈夫ですか?」
「あいたたた……、なんだ今のは……?」
「何かにぶつかった? 躓いたように見えましたけど」
「まだそんな年じゃない。明らかに物理的に弾き飛ばされた……はずなんだが、誰もいなかった。まったく、今日は奇妙なことばかり起きる」
「変なこと?」
「聞いてないのか。検査室や複数の実験室で報告された話だが、昼過ぎから中に誰もいないのにパソコンが勝手に起動して、実験データが無作為に表示される怪奇現象が起きたらしい」
「そんなことが……」エルピスの魔法のことで頭が一杯だったから、社内の事件については聞く耳を持たなかった。「パソコンのほうはウイルスですかね?」
「だと思う。情シスにはすぐに連絡したそうだが、何かおかしいんだよな……、確かに誰の姿も見当たらなくて遠隔操作が疑われたが、従業員いわく、急に足音がして誰かが慌てて去っていく音がしたらしい。その拍子にぶつかって転んだと聞いた。今の俺みたいに。まるで透明人間が侵入しているみたいだ」
「それはさすがに、ですけど。確かに妙な話ですね」
そう言いつつも、俺はこの世の理では説明のつかない魔法というものを二度も間近で見ている。ゆえに怪奇現象を完全に否定することはできない。
透明人間はさておき、企業を標的にしたハッキングが疑われたため、まもなく社内全てのPC電源を落とすよう上から指示があった。なのでWebに繋ぐ必要のある会議も当然中止ということで、一転して仕事がなくなったわけだ。
俺たち技術系社員は裁量労働制なので、なんと今日は千年に一度あるかないかの奇跡、早上がりまたは在宅許可が下りたのだった。この機会を逃す手はない。無論早上がりは許されなかったが、在宅できるだけでテンションが上がる。
そそくさとロッカーで私服に着替えていると、それは突然俺の脳を殴るような感覚としてやってきた。
『助けて……』
「エルピス!? エルピスなのか?」
更衣室にその姿は見当たらない。動悸が激しくなる。確かに声がした。彼女の言っていた念話を思い出す。姿が見えずに声だけ聞こえたのだから、ほぼ間違いないだろう。RINEを開き『今どこにいる?』と打ち込んだ。
だが返事はない。念話を使ったということは、非常事態が起きたということ。
今日に限って強盗に入られたとか?──いやそんなわけない。金目のものはないしエルピスの存在だって俺しか知らない。窓もドアも施錠した。孤独な一人暮らしだからセキュリティ面には日頃から気を遣っている。
ようやく、ある考えに至った。今朝から会社で起きている怪奇現象──。
『大きい機械がたくさん。うるさい……魔素が限界』
エルピスは今、この会社の中にいる━━。姿を消す魔法があっても何ら不思議ではない。
大きな箱がたくさん……環境試験室だ。気づくと同時に走り出した。社内で最も騒音の激しい試験室に、俺は足を踏み入れた。熱い寒い環境をサンプルに与えるための巨大オーブンが何台も立ち並ぶ特徴的な場所だ。俺は試験室に誰もいないことを確認し、大きく息を吸って、
「エルピス、いるのか!? いるなら返事してくれ!」
「ユー……」念話ではなく現実の音として俺の鼓膜に届いた。だが騒音がひどい。「……ーマ」
無我夢中で姿を探す。そして、
「こんなところに隠れてたのか」
「ユーマ……」
窓際にあるオーブン同士の隙間に彼女はいた。よく見るとエルフの特徴である長い耳が普通の人間程度になっており、擬態していることは明らかだった。その理由も俺は何となく察した。
「全部俺の責任だ。そう簡単に信じてもらえるわけないんだよな……」
「怒らないの?」
「望みとあらば、帰ってからたっぷりお説教な。だけどひとまずここから出るのが最優先だ。透明人間、パソコンの操作、犯人はエルピスだったんだな」
彼女は気まずそうに頷いた。
「もう一度姿を消せるか? 今出ていくと早上がり連中と鉢合わせるし」
「もう魔素が……、5分も保たないと思う」
「そんだけあれば充分だ」エルピスの手を素早く握り、「姿を隠せ、一気に抜けるぞ」
エルピスの返事を待たず、俺は全力で駆け出した。あっという間に従業員用通路を抜け外へ出た。幸いにも誰ともすれ違わなかった。油断は禁物。会社からもう少し距離を取ったほうがいいだろう。エルピスの魔法が解け、姿が見えるようになった。
「最寄りまで離れよう。擬態するのにも結構な魔素が必要なんだろ? 尽きるのはまずいから、厳しそうなら言ってくれ。代替案を考えることには慣れてる」
「擬態なら耳だけだから、しばらくは保ちそう」
「そうか、なら危機は脱したということか」
二十代後半にもなると少し息が切れる。運動など日頃しないし。充分距離を取り、俺たちは息を整えるため一度立ち止まった。エルピスは強く俺の手を握りしめたままだ。
「どうしてまた私を助けてくれたの? あなたを裏切ったのに。従順な振りしてあなたのことなんか、全く信用してなかったのに!」
「念話を使った時点で、俺の助けを必要としたんだろ。見捨てる理由がないじゃないか。困ってる人がいたから助けた。最初からそうだよ。あと人は簡単に信用するなって前にも言っただろ。俺のことを疑って当然なんだよ。エルピスを助けるメリットもない、そんな奴が勝手に良い気になって甘い言葉を吐いてきたら、そりゃ不審がるわな。それは俺の反省点だ」
「ごめんなさい……私、死に場所を探してたの。私のことなんて誰も知らないこの世界で、お父さんもお母さんもいない。私が死んで悲しむ人もいない。そんなの生きようって思えないでしょ。どうせ死ぬならあなたに殺されたいって本気で思ってた。だけどあなたは悪人じゃなかった。会社という場所にも生体実験に関する情報は保存されてなかった」
少なからず俺を信じようと思ってくれたからこそ、リスクを承知で会社に侵入し情報を得ようとした。残虐な実験をしていないか、今は味方でもいずれ魔法に魅了され、狂人と化すのではないか。エルピスは色々と不安に感じたんだろうな。
出会いが偶然だったとはいえ、エルピスを家に上げる決断をしたのは俺だ。向き合う責任がある。
「死ぬことに希望を見出すくらいなら、いっそ俺を信じてみるのはどうだ」
「あなたを信じる……?」
「心配しなくても、俺はエルピスの魔法を使ってどうこうしたい欲求はない。幸せは自分の力で手に入れないと素直に喜べない性分だからさ」
一歩引いた傍観者では前進できない。俺の悪い癖だ。いつも冷静だと周りに言われるが、本当は深く関わった先で傷つくのを恐れているだけの臆病者。自分からエルピスに歩み寄れば、離れてしまうのではないかと怖くなったのだ。
でも──。駄目だろ、そんなんじゃ。いい加減変わらないと。
「もっと俺を頼ってほしい。この社畜様がとことん付き合ってやる」
俺は意を決し、エルピスの頭をそっと撫でた。
「ありがとう、ユーマ」
エルビスは嫌がる素振りを見せず、静かに微笑んだ。