出会いの夜
夜22時17分。PCの退勤ボタンを押した。今日は珍しく早めの帰宅だ。世論はきっと二分するだろう。こいつ何時まで働いてるんだ? と至極真っ当な意見をぶつける者、日付が変わってないからセーフという洗脳済みな奴。テレビの街角アンケートではこういうのをぜひ聞いてみて欲しいところである。
作業着をハンガーに掛け、サラリーマンの帰宅ラッシュなどとっくに過ぎ去った真っ暗な時間帯に、残業の明かりのごとく光り輝く夜空の下を自宅に向かって歩いていた。
そういや今日はクリスマスだっけ。最近は1人で過ごす人も多く一層恋愛離れが進んでいるだとか、どこの誰だか知らない奴が言っているが、そこそこの院卒社会人2年目の手取りが20万を下り、おまけに奨学金返済もあるため、毎日を生きるだけで精一杯の俺からすると、そりゃそうなるわという実感しかない。住民税も追加され、新卒だった去年のほうが手取りが高いという聞き飽きた皮肉が頭に浮かんだ。
皆これを当たり前というが、そう思わないと心が破壊されてしまうから自らに暗示をかけ心を騙して幸せだと信じ込む。劣悪な環境で生きる人たちを見てほっと胸を撫で下ろす。俺もそういう薄汚れた心の持ち主に、いつしかなってしまったのだ。
手をつなぎ談笑する大学生カップルと一緒に赤信号に捕まっている間、俺は大通りのほうを何となく眺め、自分と同じサラリーマンの姿を見つけて安堵する。
このまま帰ろうかと考えたが、さすがにクリスマスを無視するのも何だか負けた気がするので、コンビニでチキンと唐揚げの肉コンボを購入し、消費税10%の影響力を噛み締めつつ、エコバッグを無事玄関に置き忘れた俺は、ポリ袋代も支払うのだった。店員さんが俺にはもったいないぐらいの笑顔でお釣りを渡してくれた、その手は今日一番温かく感じられた。窓ガラスに反射して映り込んでいる自分の姿は哀愁漂う猫背で、瞳はブラックホールのように光を一切拒否しているようだ。希望など存在しないと諦めた二十代半ばの男。老けたな。あっという間に二十歳そこそこと呼ばれる時期が過ぎ去っていた。
コンビニを出てあと50メートルも歩けば念願の帰宅というところで、俺はとある非日常を発見した。細い路地裏に人がいる。室外機の隣で体操座りし、顔をうずめている。フォルムからして少女か。こっちに気付いた様子はない。まあ俺はよく気配がないと社内で噂される程だから。
接近して次第に情報が増えてくる。その小刻みに震える小さな背中は、まるで寄る辺を失った孤児を連想させた。俺と目を合わせようとする気配はなく、置物のごとく生命の気配を見事に消していた。というよりこの距離でも気付いてない?
こういうとき、大丈夫ですかと声を掛けるのが社会の優しさだと偽善者は言うのだろう。俺も一般常識は持ち合わせているつもりだった。だが、いざその状況に立たされると思想など途端になんの役にも立たなくなる。
あと少しで自宅だし、面倒事は避けてこのまま無視するのが吉、という合理的判断を俺は下し、一歩遠ざかる。はずなのに、俺にそうさせなかった理由は少女の衣服があまりにボロボロだったからだ。虐待、事故、痴情のもつれ? いずれにせよこの少女は何かに巻き込まれ、窮地に立たされていると直感が告げる。俺の中でわずかに残っている人としての真心が機能した瞬間だった。
「大丈夫? 大変そうなら警察を呼んであげようか」俺は猫をあやすような声で告げた。こっちが通報されてはたまったものじゃない、という保身も忘れない。
すると少女はすっと顔をこちらに向け、「いやっ! 来ないで! 私に近づかないで!!!」
「ま、待ってくれ、俺は不審者とかそういう輩じゃない」関わってしまったことをすでに後悔しながら俺は平和的解決を目指して慎重に言葉を探した。よく見ると傷だらけなのは、肌もだった。「危害を加えるつもりはないんだ。俺はこれ以上君に近づかないから。それより、家には帰れそうか? 辛い状況なら、一緒に警察まで付いていくくらいのことはできるけど」
少女は力なく首を横に振った。拒絶の意志かと最初は思ったが、どうやら俺が最初に投げかけた質問に対する回答のようだった。
「みんな殺されて、身体を焼かれて、お父さんもお母さんも……お願いです、私を殺してください。一人で生きる以上の地獄なんてない。あなたはいたぶってから殺す残虐な人間には、なぜだか見えないから」
初めて目が合った少女の頬が夜の明かりできらりと反射したのは、その美しい肌に溢れんばかりの涙を浮かべているからだった。
ようやく俺は気付いた。彼女の耳は人間より大幅に長く、肌は白く、アニメのコスプレにしてはあまりに精巧にできているし、何よりコスプレする精神的余裕のある子がさっきの言葉を吐くとは思えない。アニメの台詞だとしたら、声優事務所が黙っていないだろう。そして当然のごとく疑問が舞い降りた。この子は人間ではない。
「人間が、怖いのか?」
少女は震えるばかりで、その瞳はまるで死と共存しているような暗くて深い闇のような色だった。死線を何度か経験したサラリーマンの俺が霞むほどに。
「人間は私たちを蹂躙した。なぶり殺されるくらいなら死を選ぶ。みんな殺されて、私はこの世界に飛ばされて、あなただけでも生きてほしいって……そんなのひどいよ。私も殺されるべきだった。自分だけ悠々と生き残って、別の世界で……ねえ、どうして?」
この子、いや……。彼女は別世界から来た、人間を恨んでいる別の種族だ。漫画やアニメの知識で言うところのエルフだ。トラックに轢かれたり、ブラックIT企業で過労死した人間が異世界に飛ばされて転生するのが王道と思っていたが、どうやら俺には白羽の矢が立たず、迎える側だったらしい。
仕事帰りで疲労困憊のはずなのに、そんな状況を冷静に見つめる自分がいた。異常を異常と思わなくて済むのは、日頃からブラック企業特有の疑ったら負けのルールに飼いならされているせいかもしれない。普通の人間なら異世界からエルフが来ました、なんて状況をすんなり受け入れるとは思えない。
もし今自分がこのエルフを助けなければ、これからどうなるのだろう。そんな疑問が湧いた。普通の人間なら警察に保護された後、身寄りに引き渡されるだろうが、彼女の場合は国家機密クラスの研究所で科学者たちの餌食になるかもしれない。また心に傷をつけられる。駄目だろそんなの。第一発見者が俺だということに、何か意味があるのではないか。
「行くところがないなら、とりあえずうち来て休むか。その……こことは違う世界からきっと君は来たんだよな。向こうの人間にひどい目に遭わされたんだよな。こっちの世界にも悪いやつはいるけど、少なくとも俺のことは信用してくれていい。逮捕歴もないぞ。毎日ブラック企業務めで体力も気力もないのに、戦ってエルフになんてそもそも勝てないし」
「そんな言葉にはもう騙されない。裏のない人間なんていない」
「ああ、ほんとは無視したい気持ちで山々だけど、そんな姿見せられちゃ放っておけないだろ。自分のために助けたいっていうこと、自己満足ってやつ。わかる? 俺は馬鹿なんだよ!」
「人間がエルフを助ける? 信じられない」
「この世界にエルフは存在しないし嫌う理由もない。だから襲おうなんて考えるやつもいないんだ。理由はいいから、ほら──」俺は手を差し伸べた。
そして、少しの間があり、俺の手は掴まれた。信頼を得たからではない。殺されることを期待して、だ。冷たく死を覚悟した手。暗くてよく見えないが、その手はきっと雪のように白くて艶もあり綺麗なのだろう。手には傷があり、彼女の壮絶な運命を垣間見た気がした。
闇夜。人気はない。二人だけの世界。
これが俺と異世界転移エルフの静かな出会いだった。