お菓子を、作りましたわ〜。
朝。
リオノーラは、隣の男爵家に使いを出した。
奥様からの返事は『レイデンは今日一日屋敷にいる』というものだったので、身支度を整えて、のんびり、ゆっくり、お菓子を作った。
手伝ってくれるのは、侍女のメリル。
彼女はリオノーラが10歳になった時に雇われた、同い年の女の子だった。
平民で、どうやら家が子沢山な上にあまり裕福ではないらしく、食費すらも困窮しているので奉公に出されたのだという。
リオノーラ専属で、真面目でよく働くけれど、あまり自分のことを表に出さない気質なので、何を思っているのかはよく分からない。
父は『どうせずっとリオノーラと一緒にいるのだから』と、勉強の時間はメリルにも読み書き計算を習わせていた。
知識はいくらあっても無駄にならないから、と。
メリルは勉強はわりと好きみたいで。
ぼーっとする以外の、リオノーラの数少ない趣味である読書の時に一緒に本を借りて来て、横で勉強したりしている。
リオノーラは、あまり何かを命じたりしないし、本を読み始めると横で立っているのも暇なだけですものね〜、と思って、お父様に認めてもらった。
いずれリオノーラが家を出る時に、暇を出されたとしても。
メリルが得た知識は役に立つんじゃないかしら〜、と、リオノーラはのんびり、ゆっくり、考えている。
「お菓子が出来ましたわね〜」
「はい、お嬢様」
今日のお菓子は、チョコチップの入ったスコーン。
それをのんびり、ゆっくり、バスケットに詰めて。
リオノーラは、メリルを伴って、レイデンの元へと訪れた。
彼は、男爵家の裏庭で剣を振っていた。
「レイデン〜」
「リオノーラ?」
ほんわりニコニコ、笑みを浮かべてリオノーラが声をかけると、レイデンは少し驚いた顔をした。
「どうしてここに?」
「一緒に、お菓子を食べようと思って〜」
そう言って、ゆっくりバスケットを掲げると、なぜかレイデンは、汗を手布で拭きながら、少しだけ眉根を寄せた。
「リオノーラ。妙齢の女性が、婚約者でもない男と二人きりで会うのは良くない」
「あら、あら〜?」
リオノーラは、きょとん、として、ゆっくり首をかしげる。
ーーーわたくしとレイデンは、婚約者ではないのかしら〜?
そうして、のんびり考えてから、眉根を寄せたままの彼に、もう一度ほわんと笑みを浮かべる。
「わたくしとレイデンは、まだ、婚約者ですわよ〜?」
「は?」
「だって、まだ、婚約破棄の書面にサインしてないですもの〜」
考えて、出した答えを、リオノーラが口にすると。
レイデンは、汗を拭う手を止めて、また目を見張った。
「正式に手続きをしていないのですから、まだ、婚約者でしょう〜?」
ーーー多分、間違っていないと、思うのですけれど〜。
そう考えながら、ニコニコと笑みを浮かべたまま、のんびり、ゆっくり、レイデンの答えを待っていると。
彼は、じーっとまっすぐ、リオノーラの顔を見つめてから、生真面目な顔でうなずいた。
「確かに、君の言う通りだ。僕たちはまだ婚約者だな」
「そうでしょう〜? だから、一緒にお菓子を食べましょう〜」
言いながら、リオノーラは、いつも一緒にお菓子を食べる、レイデンの家の庭にある座り慣れたベンチに足を向ける。
レイデンは、呆れたような、嬉しげなような、複雑そうな苦笑いをかすかに浮かべてから、剣を立てかけて戻ってきた。
「今日は、チョコチップ入りのスコーンですのよ〜」
出来立て、ほやほや。
軽く冷ましてはあるけれど、まだまだ温かいそれを、一つレイデンに差し出す。
「ありがとう」
「どういたしまして〜」
そうして、二人で一口。
空は今日も晴れていて、少しだけ雲が多くて、風がそよそよ吹いている。
それに揺れる木立の葉を眺めながら、一口かじったスコーンは、豊かなバターの香りと共に、ほろりと口の中でほどける。
噛むと、少し柔らかいチョコチップが、甘く溶け出して舌を楽しませてくれる。
「美味しいよ、リオノーラ」
「美味しいですわね〜」
レイデンの感想に嬉しくなって、リオノーラはますますニコニコしてしまう。
横では、メリルが持参したお茶をティーカップに注いでくれていた。
半分くらい二人で齧ったところで、レイデンがポツリとつぶやく。
「君の発想には、いつも驚かされる」
「何の話ですの〜?」
「確かに僕たちはまだ婚約者だから、会っても何もおかしくはない。でも普通は、別れ話をした後に会いには来ないと思う」
「そうなんですの〜?」
「ああ。僕らのような関係の場合、君は正しいが、間違っている。でも、会わないという選択肢も、正しいが間違っている。僕や、普通の人の中にはない答えを、君はいつも教えてくれる」
ーーーレイデンのお話は、たまーに難しいですわね〜?
リオノーラは、ゆっくりと首をかしげてから、ニコニコと訊ねた。
「なぜ、普通は会わないものなのですの〜?」
「そうだな……理由の一つとしては、きっと『悲しい』からだ。別れが来ると分かっているのに、好きな相手と会うのは」
「そうなのですのね〜?」
「ピンと来てないみたいだね」
「だって、わたくしはレイデンと会えるのが嬉しいですもの〜」
「悲しくはならない?」
「そうですわね〜。婚約者でなくなるからと言って、レイデンと話すのが、嫌になるわけでも〜、会えて嬉しいという気持ちが、なくなるわけでも〜、おやつを一緒に食べたい気持ちが、なくなるわけでもないですもの〜」
ーーーこう思うのも、やっぱりわたくしが鈍感だからなのかしら〜?
普通は悲しい、というのなら、きっとそうなのでしょうね〜、とリオノーラは、のんびりゆっくり、考える。
考えながら、スコーンを口に含む。
そして飲み込んだ後に、メリルの淹れてくれたミルクたっぷりの紅茶で、ちょっとパサパサする口の中を潤す。
そのまま、ほう、と息を吐く。
ーーー美味しいですわね〜。
一人で食べるよりも、レイデンや、家族や、数少ないお友達と食べる方が、美味しい。
そこまで、のんびりゆっくり、考えたところで。
ふとレイデンが、黙り込んでいることに気づいた。
だから、さっきまでの会話を、のんびりと思い出して。
「レイデンは、今、わたくしと会うのが、悲しいのですの〜?」
そう、問いかけてみると。
「悲しくはない。……いや、そうじゃないな。君の話を聞いて、悲しいことだと思う気持ちが、なくなった」
「それなら、良かったですわ〜」
きっとレイデンは、悲しいと感じていたのだろうけれど。
なんで話を聞いたら悲しくなくなったのかは、よく分からなかった。
だから、のんびりゆっくり、そう訊いてみると。
「僕は頭が固いから、こういうことは悲しいのだと思い込んでいたんだと思う。でも、君と会って、こうして話している時間は、昔から好きだった」
スコーンを全部食べ終えたレイデンは、両手の指を組んで、膝に肘を置く。
そして地面を見つめながら、言葉を続けた。
「未来に起こることが悲しいからといって、好きなこの時間が悲しくなるわけじゃない。そう、君に言われて気づいた。君と会うのは、嬉しい」
「わたくしも、嬉しいですわ〜」
レイデンの言葉は、やっぱり難しくて。
よく分からなかったけれど。
会えて嬉しい気持ちは、リオノーラにもよく分かるから。
「レイデンは、いつまでここにいるんですの〜?」
「君との婚約破棄の話を、少し後に来る辺境伯も交えて行う。並行して、王立騎士団の退団手続きや伯爵家との養子縁組も王都で済ませなければいけない」
「忙しいのですわね〜」
「手続き自体はすぐに終わるけれど、引き継ぎや承認待ちがある。直前になると、辺境伯領に赴く荷造りなどがあるけれど、中一週間ほどは暇になると思う」
「なら、そのくらいに、もう一度会いに来ますわね〜」
「婚約を破棄する前にね」
そういうところは、やっぱりレイデンはしっかりしていた。
でも、少しだけ表情を緩めた彼は、どこか嬉しそうで。
その顔を見ているだけで、リオノーラも嬉しくなる。
「君は、僕が手を離したら、すぐに誰かに捕まってしまうんだろうな」
「そんなことは、ないと思いますけれど〜」
「君は魅力的だから」
「そう思うのは、きっと、レイデンだけですわよ〜」
昔から、リオノーラは人をイライラさせてしまうことの方が多いから。
「いいや。君の魅力に気づく人が少ないだけだ。それに君は、昔から僕の婚約者だったし、貴族学校もすぐにやめてしまっただろう。だから、君の良さに触れる人が少なかっただけのことだ」
そうなのかしら〜? と、リオノーラはやっぱり首を傾げてしまう。
でも、レイデンが言うなら、そうなのかもしれないわね〜、と思った。
リオノーラは、あんまり賢くないから。
きっとレイデンが言うことの方が、正しいのだろう。
「でも、わたくし、お茶会や夜会にあんまり誘われませんし〜。次に婚約出来なかったら、家の離れでのんびり過ごすことに、しようと思ってますわ〜」
「そうなのか?」
「ええ〜。だって、一人でのんびりするのも、好きですもの〜」
こういう、ふんわりとした時間を共有出来るのは、きっとレイデンだけだから。
レイデンや家族以外の人は、リオノーラに合わせておしゃべりを待ってはくれないし、話に長く耳を傾けてもくれないから。
「リオノーラが独りで居続けるのも、それはそれで、複雑な気持ちだ」
そこから、さらに何かを続けようとして、レイデンは口をつぐんだ。
でも、ずっとその横顔を見続けて来たリオノーラは、ちょっとだけ、他の人より彼に詳しい。
だから、呑み込んだ言葉が分かった。
ーーー他の誰かに、取られたくはないけれど。
きっとレイデンは、そういう意味の言葉を呑み込んだ。
レイデンは誠実だから。
だからきっと、それが『自分勝手だ』と思ったんでしょうけれど。
ーーー言ってくれても、嬉しいのですけれど〜。
リオノーラがお父様に提案した、養子縁組の話は、レイデンにはまだ秘密。
もしレイデンが期待してくれても、上手く行かなかったら、余計にがっかりさせてしまうだろうから。
でもリオノーラは、ほんの少しだけ、言いたくなって。
「ね〜、レイデン〜」
「どうした?」
「わたくし、レイデンと婚約破棄した後〜、少しだけ、考えてることがありますの〜」
「どんなこと?」
「うふふ〜、それは、秘密ですのよ〜」
ゆっくりのんびり、リオノーラは唇に人差し指を立てる。
レイデンは、少しだけぽかん、としてから。
ふっと、口元を緩めた。
「君が隠し事をするのは、珍しいね。初めてかもしれない」
「ふふふ〜、そうでしょう〜?」
「参ったな。こんな時になって、君の違った一面が見れるとは、思わなかったよ」
そこで、ふっつりと会話が途切れた。
しばらく二人で、ぼーっと空や花を眺めてから。
リオノーラはメリルとお片付けをして、立ち上がる。
「それでは、レイデン〜、また来ますわね〜」
「ああ、また」
今日は、さよなら、じゃなくて、また会うための挨拶をして。
自宅に戻る道すがら、リオノーラはメリルに訊ねる。
「そういえば、メリルは〜」
「はい、お嬢様」
「わたくしの養子縁組が成功したら、どうしますの〜?」
お父様が解雇するしないに関わらず、メリル自身がどうしたいのかが聞きたくなって、訊ねると。
メリルは、目をぱちくりさせてから、当たり前のように答えた。
「私は、お嬢様と一緒にどこへでも行きます。私はお嬢様の侍女ですから」
その答えに、リオノーラは、あら、まぁ〜、とつぶやいて。
「それは、嬉しくて、心強いですわね〜」
メリルの言葉に、答えると。
「お嬢様にそう感じていただけて、光栄です」
と、少しはにかんだように、彼女は答えた。




