婚約者の願い事
「俺と勝負?」
麗らかな昼下がり、貴族の子息令嬢達が通う学園内の中庭で読書をしていた侯爵令息ルトガーは、婚約者が告げた言葉を繰り返しながら首を傾げた。
ルトガーの困惑など素知らぬ顔で、先程息せき切ってやってきた婚約者である辺境伯令嬢アイラはビシっと人差し指を突き付ける。
「そう! 勝った方が負けた方のお願いを何でもきくの」
「いいけど。君、ボードゲームで俺に勝ったことないよね?」
人に向かって指を指してはいけませんとばかりに、ルトガーはアイラの人差し指を握りしめながら、にこやかに諭すような視線を送った。
ルトガーの婚約者であるアイラは、興奮するとたまに令嬢らしからぬ行動に出ることがある。幼い頃、辺境領の野山を駆け回っていた名残らしいが、見ている限りルトガーの前でだけ気を抜いてつい素が出てしまうようだし、学園内でもちょっと噂になるほど可愛い自慢の彼女が自分にだけ気を許していることは密かな優越でもある。
とはいえ、行儀が良くないことは確かなので、今回も優しく指を折った。
「アイラ、人に指を指しては?」
「いけません……ごめんなさい。でも、いい案が思いついたからつい嬉しくて」
素直に謝罪し、恥ずかしそうにルトガーに握られた指を引き抜くと、アイラは気を取り直すように宣言する。
「勝負は弓! 10矢中多く的の中心に当てた方が勝ち! ね? いいでしょ?」
にこにこと笑うアイラは、頭を使うゲームはあまり得意ではない。
尤も対戦相手がいつも学年トップの成績を誇るルトガーだからなのだが、ボードゲームの戦績は全戦全敗だ。それでも負けん気だけは強く、どれだけ惨敗しても暫く経つと再戦を挑んではまた惜敗を繰り返していた。
ルトガーとしてはアイラにベタ惚れしているので、一緒にいられるゲームは楽しかったし「また負けた」と落ち込むアイラを宥めるのもご褒美のようなものだったのだが、負け続けたアイラは相当悔しかったようで、今回は勝負の方向性を変えたらしい。
しかも負けた方は何でもお願いをきくという特典付きだ。
独自の軍隊を所持している辺境伯の娘であるアイラは、自身も弓を得意としている。
ちなみに男性貴族の嗜みとして狩りをするルトガーも弓には自信があるので、特段アイラが有利という勝負ではない。
これが水泳や剣技なら文句無しにアイラの圧勝なのだが、弓を選ぶところがフェアなアイラらしいとルトガーは苦笑した。
「ふーん。ま、いいよ。確認だけど、負けた方はどんな願いでも絶対きいてくれるんだよね?」
「そ、そうよ! 今回は負けないから。それじゃ三日後に勝負ね!」
アイラの長い黒髪を撫でながらルトガーがにっこりと微笑めば、学園内でのスキンシップが恥ずかしかったのかアイラが動揺しながらもルトガーへ宣戦布告する。
真っ赤な顔をしながら触られていた髪を撫でつけると、踵を返してアイラは足早に校舎の中へ入っていってしまった。
仄かな香りの余韻だけを残して立ち去ってしまったアイラにルトガーは苦笑する。
「相変わらず恥ずかしがり屋なんだから。それにしてもアイラのお願いってなんだろう?」
髪を触っただけで赤くなるアイラだが、それは彼女が自分を意識している証拠で、ルトガーは一人ニヨニヨと愛想を崩しながらも首を傾げた。
ルトガーの実家であるアランドル侯爵家は国内有数の豊かさを誇る家である。
とはいえそれはここ数年のことで、ルトガーが幼い頃アランドル侯爵家は家柄だけの清貧侯爵家と揶揄されていた。
ルトガーの両親や先代達は実直で善人ではあるが、如何せん商売や政略には向いてなかったのである。
そのことに子供ながらに優秀なルトガーは思うところもあったが、貧しくても家族仲は良好だし領主が搾取しない分領民の生活は豊かであったので、特段どうにかしようという気は起きなかった。
その気持ちに転機が訪れたのは、国内の貴族の子弟を呼んで開かれた王妃のお茶会での出来事である。
貴族の子弟であれば必ず一度は参加が義務つけられている王妃のお茶会の席で、ルトガーは自分の目の前に置かれた砂糖菓子を複雑な気分で眺めていた。
この国で砂糖は貴重である。それに花を模った砂糖菓子は可愛らしく、近くにいる令嬢達も素敵だとはしゃいでいる声が聞こえる。
ルトガーも食べてみたかったが、熱が出たためお茶会を欠席した妹のサフィのことを思い出し、こっそりと持ち帰れないかと考えたのだ。
お茶請けとして出された物を黙って持ち帰るなど卑しい行為だとは解っていたが、砂糖菓子は各個人に用意されているもののようなので、つい魔が差した。
それがいけなかった。
「こいつ、お菓子を持ち帰ろうとしてるぜ!」
「卑しい奴。まるで平民だな」
「わかった! こいつが噂の清貧のアランドル家嫡男だ!」
「まぁ! 貧しいからってお菓子を持ち帰ろうとなさっていたの?」
「恥ずかしい! こんな方が侯爵家嫡男だなんて、わが国の恥だわ」
一人の令息が、ルトガーがポケットに砂糖菓子を入れようとしたことを指摘したことをきっかけに、侮蔑と非難が巻き起こる。
貧乏なアランドル侯爵家というだけで嘲笑の対象になるということは解っていたはずなのに、失態を犯してしまった自分にルトガーは俯き拳を握りしめた。
その時、一人の令嬢が声を張り上げたのである。
「ごめんなさい! 私も弟に持ち帰ろうとしてました!」
その声にルトガーを責めていた子供達がキョトンとした顔になる。ルトガーもまた声の主に目を瞬かせた。
叫んだのは、辺境伯の令嬢であるアイラだった。
当時から可愛いアイラは令息達に囲まれていたようだが、唖然とする彼らを残してルトガーの側までやってくると、最初に糾弾した令息に向かって豊かな黒髪の頭を勢いよく下げた。
「辺境だとこんなに可愛いお菓子は手に入らないので、弟に食べさせてあげたいと思ってこっそりポケットに入れました! ごめんなさい」
アイラの告白にルトガーは目を丸くする。
まさか自分を庇ってくれる人間がいるとは思わなかったのだ。しかも相手は裕福な辺境伯の令嬢で、令息達に人気の美少女アイラなのである。
そのことが信じられなくて、アイラの様子をマジマジと見たルトガーは、彼女の身体が小刻みに震えていることに気が付いてハッとした。
本当はアイラだって怖いのだろう、他の人間は気づかれない位の震えだったが至近距離で凝視したルトガーの目は誤魔化せなかった。
黙っていればやり過ごせたのに、それでもアイラは自分の過ちを告白したのだ。見ず知らずのルトガーだけが責められるのを良しとせずに。
そんなアイラを見て、ルトガーは自分を奮い立たせて顔をあげる。
「僕も熱が出てお茶会へ来られなかった妹に食べさせてやりたかった。僕の家はみんなが言う通り貧乏だから、こんな貴重なお菓子を持ち帰ったら喜ぶと思って……」
そこまで言うと言葉を切って、周囲を見据えると居住まいを正した。
「ですが栄光なる王妃殿下のお茶会を私の愚行で騒がせてしまったこと、心よりお詫び申し上げます。ご指摘くださいましたご令息には醜態を糺す機会をくださいましたことに感謝を、また辺境伯令嬢におかれましては至らぬ私を擁護してくださったこと、誠にありがとうございます。王妃殿下への謝罪は私が誠心誠意をもって対応させていただきますので、皆様はどうかこの後も引き続きお茶会をお楽しみくださいませ」
精一杯の敬語と虚勢を張って優雅に一礼すると、ルトガーは踵を返し王妃が着席しているテーブルを目指す。
気まずそうに黙ってしまった者や、まだ侮蔑の眼差しも向ける者、隣の者の顔色を伺う者、三者三様の表情をした令嬢令息達の間を縫うように進んでいくと、ふいに後ろから袖を掴まれた。
「待って!」
ルトガーが振り返ると、アイラがしっかりと彼の袖を掴んで眉尻を下げていた。
「私がお菓子をくすねたのは事実だよ。だから一緒に王妃様に謝りに行こう? きっと叱られるのも二人なら怖くないから」
「でも君は僕を庇うために……」
「庇ってくれたのは貴方の方でしょ?」
ルトガーの下手な虚勢など見透かすように、真っすぐにルトガーを見て微笑んだアイラはまだ少し震えていたが、呆気にとられるルトガーの手を自らとって、一緒に王妃がいるテーブルへ歩き出したのである。
少し離れた席にいた王妃は突然謝罪をしに来たルトガー達に目を丸くしたが、訳を話すと笑って許してくれ砂糖菓子を沢山お土産に包んでくれたばかりか、妹弟想いのいい兄姉だとお褒めの言葉までくださった。
そのことにルトガーは心底安堵し胸を撫でおろすと同時に、隣でちょっと涙目になって笑ったアイラの笑顔に恋に落ちたのだ。
だいぶ後から知ったのだが、実は王妃のお茶会は国の主要人物が子供達を審査するものであったそうだ。
珍しい砂糖菓子を見て、どういった反応をするかで子供達の人間性を見るのである。
ルトガーやアイラ以外にもこっそりと持ち帰った者が数人いたし、謝罪したルトガー達が余分に砂糖菓子を貰えたのを見て、自分もと申告にくる者もいた。
ルトガーを咎めた子、追随して揶揄した子、黙って見ていただけの子、それらから正義感、協調性、観察力、判断力、適応力などを審査し、将来国へ貢献できる人物かどうかを判断する材料の一つとしていたのである。
そして王妃からお茶会の顛末を聞いたアイラの父親である辺境伯は、すぐにルトガーと愛娘の婚約を決めた。
勿論、アランドル侯爵家に否やの選択肢はなかったし、当時のルトガーにしてみれば恋に落ちたアイラと婚約できることは天にも昇るほど嬉しかったが、辺境伯が何故自分を選んだのか解らず、彼女に相応しい要素が一つもないことに落ち込んだ。
だからルトガーは変わることにした。
アイラに相応しい婚約者になるために。
ルトガーはまずアランドル侯爵家を富ませる計画を練った。
このまま順調にアイラと結婚できても、今の清貧のアランドル侯爵家では彼女にひもじい想いをさせてしまうからだ。
やる気になったルトガーは元々優秀だったことと、アランドル侯爵家の人間にしては腹黒かったおかげで、次々と事業を成功させてゆき、結果侯爵家の財は爆発的に増えていったのである。
そんなわけでルトガーは学生の身分ながら、自由に使えるお金が湯水のように出来上がった。それを知った令嬢達は手のひらを返したように一時期群がってきて辟易したものだが、彼が婚約者のアイラ以外全く興味がないと解った今では突撃してくる愚か者はいなくなっていた。
一方婚約者のアイラはルトガーが大金を手にする前も現在も、全く態度が変わらなかった。
今も昔も真っすぐで優しいアイラは、令息達に言い寄られても婚約者がいるからと毅然と断り、ルトガーと他愛のないゲームで楽しそうに笑っているし、デートに行っても何かを強請ったり豪遊するようなことはない。
それはそれで嬉しくはあるのだが、溺愛する婚約者のためならばどれだけ大金を使っても惜しくないというのに、アイラは「一緒にいられればいい」と可愛いことを言ってくれるだけで何も要求してくることはないのだ。
ルトガーの妹であるサフィはしょっちゅう宝石やドレスを強請ってくるというのに、えらい違いである。
尤もサフィはルトガーが起業する前から妹アピールで強請っていたので、こちらも昔から変わらないといえば変わらないのだが、可愛い妹のおねだりなので大目に見ていた。(豊かになっても清貧を貫く両親からは、サフィをあまり甘やかさないでと言われているが)
とは言っても妹ばかりに大金を使うのは本意ではないので、ルトガーはここ数年は自分で選んだドレス等を勝手にアイラに贈っている。受け取ればお礼は言ってくれるので嫌がられてはいないようだが、たまには強請って甘えてくれればいいのになとも思っていた。
だから今回の勝負の特典はルトガーにとって悩ましい選択となった。
「アイラは普段あんまりお願いとかしてこないから、負けてあげたいんだけど……」
きっとわざと負けたことがバレればアイラは怒り狂うだろう。
ルトガーにしてみればアイラの怒った顔も可愛いが、もし怒りのあまりに暫く口を利いてくれなくなったら、と考えただけで背筋が寒くなった。
以前、負けたアイラがあまりにも悔しそうなので、一度だけチェスで手を抜いたことがあるのだ。その時は勝敗が決まる前に気づいたアイラに泣かれて途方に暮れた。挙句その後三日間も無視され、気が狂いそうになった。
その時のことを思い出してルトガーは身震いする。
「アイラは弓が得意だから、わざと負けなくても本気で負けるかもしれない。うん」
自分を納得させるように呟いたものの、だからといってあまりに情けない負け方をするのは己の沽券に関わるので、とりあえず少しは稽古でもしておこうと弓練場に向かうと、アイラと数人の令息達が弓の練習をしているところだった。
令息達はアイラにチラチラと視線を送っているようだが、当のアイラは真剣に弓を引いているので気づいていない。タアン、タアンっと的の真ん中に次々と命中させるアイラに、ルトガーが本気で負けそうだなと苦笑を浮かべつつ眺めていると、一人の令息がアイラに向かって話しかけようとする素振りを見せる。
令息の眉尻がだらしなく下がっているので、どうせアイラに弓を教えてもらう体であわよくば親しくなる魂胆なのだろう、ルトガーは浮かべていた微笑を引っ込めツカツカと歩を進めると、背後からアイラに声を掛けた。
「アイラ」
「え? ルトガー? ルトガーも練習?」
「そんなことより、少し休憩したら?、はい、汗ふいて」
「あ、ありがと」
突然現れたルトガーにアイラは驚いているようだったが、差し出されたハンカチを嬉しそうに受け取ると、額に滲んでいた汗を拭きとり、ちょっと首を傾げた。
「あれ? これ、逆な気がする」
「逆?」
「普通は女子が男子にハンカチ渡すよね?」
「別に、どっちからでもいいんじゃない?」
う~ん、と唸ってしまったアイラだが、その仕草も可愛い。
こんな可愛い婚約者を、令息達が集まる弓練場に通わせるのが不安になったルトガーは、今もアイラに見惚れている令息達を脳内で射殺しながら、少し不機嫌そうに口を開いた。
「ねえ、もう勝負しなくてもよくない? アイラの勝ちでいいよ。って言うか、本気で勝負してもアイラの勝ちだと思う」
「何それ? 絶対に嫌! 勝ちを譲られて嫌々お願いをきいてもらっても、ちっとも嬉しくない」
「アイラのお願いなら嫌々きくわけじゃないけど?」
「とにかく勝負するの! 一度引き受けたのに逃げるなんて卑怯よ!」
「はぁ~、本当に真っすぐで頑固なんだから。わかった、わかった」
「わかれば、よろしい」
ルトガー以上に不機嫌になったアイラに内心慌てつつも、彼女の頭を撫でながら降参の意を伝えれば、勝気な答えを返しながらもアイラの頬が赤く染まる。
そのことに優越感を抱きつつ、周囲の令息達へ牽制を込めて絶対零度の眼差しを向ければ、ルトガーの心意に気づいた令息達がそそくさと弓練場を後にした。
それを冷たく見送っていたルトガーにアイラが拗ねたように口を尖らせる。
「ちゃんと本気で勝負しなきゃ怒るから!」
「はいはい。わかりました」
「絶対勝ってやるんだから! 絶対お願いきいてもらうからね!」
そう言い捨てると、脱兎の如く走り去ってゆくアイラに苦笑しながらルトガーは首を傾げた。
「そうまでして俺にきいてもらいたいお願いって何だ?」
考えても考えても、さっぱり解らず、途方に暮れたルトガーだった。
◇◇◇
結局、アイラのお願いは見当もつかないままルトガーが帰宅すると、妹のサフィが部屋へ押しかけてくる。
「あれ? 今日は、アイラ姉様来ないの?」
「敵情視察は卑怯だからしないんだって」
弓の勝負に敵情視察もあったもんじゃないが、アイラがそう言ったので仕方なしに一人で帰宅したのだ。
ルトガーがどうしても外せない仕事で留守にする時以外、いつも放課後は一緒にアランドル侯爵家で過ごすアイラに、妹のサフィはすっかり懐いている。
今ではルトガーが商談で席を外す間以外も二人で仲良く過ごしていて、ちょっとだけ妹に嫉妬しているのは秘密だ。
三日後に勝負と言っていたから、明日と明後日は放課後アイラに会えない。
舌打ちしたくなる気分で告げたルトガーの言葉にサフィは目を丸くした。
「敵情視察って……何? お兄様、アイラ姉様と喧嘩でもしたの?」
好奇心満々で聞いてくるサフィに、ルトガーは溜息を吐きながらアイラとの勝負の話をしだす。
「勝負に負けたら、勝った方のお願いを何でもきく?」
話を聞いて、目を瞬かせたサフィにルトガーは軽く頷いた。
「そ」
「何でもって、何でも?」
「みたいだよ」
パチパチと瞬きをしたサフィだが、首を傾げる。
「でもアイラ姉様って、あんまり物欲ないわよね?」
「お前と違ってな」
思わずルトガーがツッコめば、サフィはキッと兄を睨みつけ頬を膨らませた。
「乙女には色々と着かざるアイテムが必須なの!」
「アイラも乙女だが?」
「アイラ姉さまは黙ってても、どんどん貢いでくれる人がいるじゃない! 毎月ドレスも宝石もお花も山のように贈ってくるから置き場所に困るってこぼしてたわよ」
「じゃあ、今度は贈り物を入れる倉庫用の家でも贈ろうかな」
「羨ま怖い!」
思わず叫んだサフィに、ルトガーは小さく溜息を吐く。
ちなみにサフィが言った、アイラに貢いでいる人というのは紛れもなくルトガーである。
あまり着飾ることに頓着しないアイラに、これでもかと言うほど自分色のドレスや宝飾品を贈りつけるのは最早日課となっている。
ルトガーなりの愛情と牽制なのだが、当のアイラ本人が理解しているのかどうかは不明だ。
「でもアイラ姉様のお願いって何なのかしら?」
「俺もそれは謎。一体何が欲しいんだろう? 別に勝負なんてしなくても、言ってくれれば別荘でも豪華客船でも、すぐに買ってあげるのに」
ポツリと零したサフィの疑問に、ルトガーは大きく頷く。
そのルトガーの言葉に胡乱な眼差しなったサフィだったが、やがてニヤリと厭らしく瞳を眇めた。
「婚約破棄してくれだったりして?」
「今、何か変な単語が聞こえたんだが?」
いくら可愛い妹でも聞き捨てならない言葉に、ルトガーを纏う空気が一気に氷点下にまで下がる。
本気で怒りを露にした兄に、さすがのサフィも青褪め後退った。
「ひっ! じょ、冗談よ! 冗談! そんなに怖い顔しなくてもいいじゃない……」
「俺がその手の冗談が大嫌いなの知ってるだろ?」
「普段は善人が服を着て歩いているような両親に似て人畜無害みたいな顔してるくせに、アイラ姉様のことになると途端に魔王になるんだから……あら? 案外それが原因で婚約破棄するつもりだったりして」
微笑んではいるが、瞳は全く笑っていないルトガーにサフィの背中に冷や汗が伝ったが、何かに思い当たったように、パチンっと両手を打ち合わせた。
「お兄様の愛の重さと腹黒さがバレて怖くなったのよ、きっと。アイラ姉様には巧妙に隠しているけど、姉様に害悪だと認定した人達をかなり裏で粛清してるの誰かに聞いたんじゃない?」
「バレるようなヘマはしない。それにアイラに害をなす者どもを排除して何が悪い」
「その自覚の無さじゃない? 私なら愛が重すぎて耐えられないもん」
「煩い。それ以上言ったら今度の夜会のドレス代出してやらないからな」
「え? 嘘? やだ、冗談だってば! お兄様の隠蔽工作と擬態は完璧だもん。バレるわけないって! それにどこからどう見ても両思いだもん。婚約破棄なんて、ない、ない!」
「当たり前だ」
旗色が悪くなったサフィが逃げるように退出してゆくのを見送って、ルトガーは深いため息を吐く。
「婚約破棄なんて、させるわけないだろ」
そう呟いてはみたものの一抹の不安が過るのも確かだ。
何といってもアイラは可愛いのである。
ストレートの長い黒髪は艶やかで手触りもいいし、若葉色の大きな瞳がくるくると動く幼さを見せたと思えば、均整のとれた身体でしなやかに歩く姿は凛としている。
負けん気の強さも、一本筋が通った正義感も、たまに斜め上の行動に出る不意打ちの意外性も、とにかく全てが魅力的なのだ。
しかも国防の要を握る辺境伯の令嬢とくれば、もてない方がおかしい。
「まさか……今更、俺のことが嫌になったなんて言わないよな?」
裕福にはなったが、まだまだ彼女に相応しい男になったとは言い切れず、水に垂らしたインクが広がってゆくように、どんどん不安がルトガーの心を浸食してゆく。
学園では普通に接していたが、放課後二人きりで会う時間が無くなったことで、疑心暗鬼はブクブクと膨れ、やがてルトガーの心を疑念で満たしていったのだった。
◇◇◇
そうして迎えた勝負の日。
勝負はアランドル侯爵家の弓練場で行う約束をしていたので、三日ぶりに侯爵邸を訪れたアイラは、弓練場に使用人達がいないことを不思議そうにしていたが、緊張した面持ちで弓を番えると的へ向かって引き絞った。
ルトガーも本気で打ち合い、二人共無言で矢を放つ。
だがルトガーには迷いがあったのかもしれない。彼の放った矢は10本中1本だけ僅かに的の中心を逸れてしまっていた。
「参りました」
「勝った……? 勝った! ルトガーに勝った!」
はしゃぐアイラにルトガーは目尻を下げながらも、心中は冷たく凍りついていた。
彼の中で膨れた疑念は、既に制御できないほど大きくなっており危険思考に囚われてしまっていたのだ。
「それで? 俺に聞いてほしいことって何?」
(婚約解消だったらどうするかな? とりあえずこの場で拘束、すぐに監禁して、婚姻届けを提出してしまおう。俺だけしか見えないようにして、それから少しずつ洗脳していくしかないな。使用人を立入禁止にして両親とサフィを外出させておいて正解だった)
犯罪としか言えない構想を頭の中で練り上げながらも微笑を湛えたルトガーに、アイラは目を泳がせる。
「あっ! ……えっと」
「随分、言い辛そうだね」
(そりゃ、婚約破棄なんて普通は言い出しにくいよな? それなら言わなきゃいいのに。何も言わなければ平凡な暮らしが出来ていたのに、ね)
思わず嘲笑を浮かべそうになるルトガーを、アイラは上目遣いで懇願するような眼差しで見上げてくる。
「言っても引かない? 呆れたりしない?」
「聞いてみないと解らないよ」
(引かないし呆れたりはしないよ? だって愛しているから。でも哀れだなとは思う。あぁ、でも君が焦燥していく様を見るのは嫌だなぁ。でも仕方がないよね? だって俺から逃げようなんてするのが悪いんだから)
これから先の未来を閉ざされる婚約者に憐憫を覚えてルトガーが眉尻を下げると、いつもはっきり物事を言うアイラにしては珍しく、ゴニョゴニョと口ごもった。
「あのね……その……してほしいの」
婚約破棄してほしいの、と言われたのだろうなとルトガーはぼんやりと考えたが、意地悪く聞き返す。
「ごめん、よく聞き取れなかった。はっきり言って?」
(たとえそれが、君が自由なうちに発する最後の言葉だとしたら聞き逃したくないから。大体ちゃんと最後通牒を渡してくれないと、その可愛い両手を拘束しにいけないし、ね?)
ルトガーの言葉に、一瞬絶望の表情を浮かべたアイラだったが、やがて大きく息を吸い込むと、吐き出すように言い放った。
「だから! ……キスしてほしいの!」
「………………は?」
考えていたことと全く違うアイラの言葉に、それまで監禁ルート一択だったルトガーの思考は停止する。
固まってしまったルトガーに、彼に呆れられたと勘違いしたアイラが言い訳するように早口で捲し立てた。
「だ、だって、婚約者のいる友達はみんなもうキスしたって言ってて、私だけしてなくて、ルトガーが私のこと好きじゃないからしないんじゃとか言う子もいて、ドレスやお花だって沢山くれるから、そんなことないって思ったけど、全然そういう雰囲気にならないから、どうにかしようと思って、それで……」
混乱する頭を何とか整理して、ルトガーはアイラの両肩に手を置く。
「ま、待って! ……アイラは俺とキスしたかったの? だから勝負なんてしたの?」
途端に首まで真っ赤になったアイラが涙目になって、両手で顔を隠した。
「そ、そうだけど……やっぱり、いい。こんなお願いして、無理やりしてもらっても嬉しくない。ごめん、この勝負はなかったことで」
「アイラ!」
肩に置かれた手からすり抜け踵を返して逃げ出そうとしたアイラを、ルトガーが慌てて掴まえる。
「もう帰る……離して」
「ダメ、帰さない」
(さっきまでも帰すつもりはなかったけれど、今は別の意味で帰したくない)
逃げ出そうとするアイラを引き寄せて顔を覗き込めば、林檎のように真っ赤に頬を染めたアイラに、ルトガーが苦笑した。
「顔、真っ赤。全く……君の思考はいつだって俺の考える斜め上を行くよね」
「見ないで。恥ずかしい。もうやだ……あんなに頑張ったのに」
「そっか。アイラは俺とキスしたくて頑張ったんだ。そっか、そっか」
上機嫌で微笑むルトガーから、アイラが不貞腐れたように視線を逸らす。
「いじわる……」
「俺のこと好き?」
「……好きじゃない。大好き」
ここぞとばかりにルトガーが問い詰めるが、拗ねた口調のアイラが可愛い過ぎる返事をしたことに、ルトガーが天を仰ぐ。
「参ったな。キスだけじゃ済まなくなりそう……」
「? ルトガー?」
思わぬ反撃に心臓を撃ち抜かれてしまい悶絶しそうなルトガーに、腕の中のアイラがキョトンとした顔で首を傾げる。まだ頬が上気し瞳が涙目のアイラは艶っぽく、無垢な表情とのアンバランスさが非常に煽情的に見え、ルトガーは目のやり場に困りつつも、彼女の耳元で囁いた。
「俺もアイラが大好きだよ。いつだって君と一緒にいたいし、君に触れたい。キスだってずっとしたいと思ってた。でも怖がらせたくなくて我慢してたんだ。俺の愛は重いから……」
そう言って唇を寄せたルトガーに、アイラが口づけられた頬を手で押さえポカンと口を開ける。
「え? 今、キス……」
「うん。でもアイラがしたいキスはこっちでしょう?」
呆けたような表情のアイラの唇へ素早く自身の唇を押し付けて不敵に笑ったルトガーに、アイラが驚きで瞳を潤ませながらも嬉しそうに微笑んだのを確認して、彼女の頤を片手でクイっと持ち上げる。
「言っておくけど、これで終わりじゃないからね。俺がどれだけ我慢してたと思ってるわけ? 煽ったのはアイラなんだから、手加減なんてしてあげない」
「んんっ!」
口内を蹂躙するような激しいキスにアイラは瞳を見開くも、ルトガーは今までの不安を拭い去るように余すことなく彼女を堪能する。
ルトガーの可愛い婚約者は監禁ルートのフラグを自分で立てて自分でへし折ったが、違う意味で彼のスイッチを押してしまったらしい。
手加減なしのルトガーとの口づけは日が傾くまで続き、自分で願ったことながらアイラは、際限なく続く執拗な甘く激しいキスの嵐に翻弄されたのだった。
ちょっと後のお話。
アイラ「も、もういい。口がヒリヒリするからもう無理だってば!」
ルトガー「え~、もう?(もっとしたいけど嫌われたくないから我慢するか……)」
アイラ「でもね、口は痛いけど、ルトガーとのキスって幸せな気持ちになるから大好き」
ルトガー「アイラ……その煽り方は反則だって(本当に監禁してやろうかな……)」
ご高覧くださり、ありがとうございました。