初めての膝枕
何度目が覚めても夢であるような、精神が崩壊しそうな中で生きていられたのは、のんきな鼻歌のおかげだったかもしれない。
狂いそうな同じ夢の中で鼻歌だけは同じ調子はなく、僅かに焦り出していた自分に呆れるほどに穏やかなもので……ラディウスは暗闇の中で思わず眉間を押さえた。
「……っ、う……」
何度目か、目を開けたラディウスは眩しさと壮絶な気怠さに呻き声を漏らした。同時に息を吸った瞬間の土臭さに軽く咳き込む。
温度も感じなかった身体が酷く熱く感じて、熱でもあるのかと手を持ち上げようとすれば、骨がギシリと軋むように鈍く震えた。自分が石にでもなったかと錯覚してしまうほどに全身が動かない。
それでもなんとかうつ伏せの身体を、腕の力だけで仰向けに転がした。たったこれだけで体力がごっそり持っていかれる心地に、深く深く息を吐きだす。
その近くで回復薬を調合していたニケは、倒れた男が動き出す様子を、油の足りない鉄人形でも見るような目で眺めていた。
いつ声を掛けようか、ニケはシャカシャカと薬草の入った瓶を振りながら首を傾げる。大きな瓶はそこそこ重たいので、いつものように魔法を使って空中で振っていた。自分で振れないことも無いが、腕からすっぽ抜けてしまって怒られたことがあるのでもうしない。安心と安全の魔法でのシャッフルである。
瓶を振って悩んでいる間に、まったく動かなくなってしまったラディウスに、ニケは傾げたままだった首を戻した。
「おはようございます。死んでしまいましたか?」
挨拶と共に投げた問いかけに、反応を示したラディウスは……あまりにも呑気な声に気が抜けて、一瞬詰めた息をフッと吐いた。
「随分な……挨拶、だ、な……」
同時に、聞こえていた鼻歌と同じ人間だと気付いたが、体が動かず肝心なニケの姿を捉えることができない。首だけでも持ち上げようと力を入れて、悲鳴を上げる関節に諦めた。
「……っ、けほっ」
掠れた声を心底腹立たしく思いながら、二度ほど咳払いを繰り返す。喉までダメになっていることを忌々しく思いつつ、怠い腕を動かして目の上に腕を置いた。空の眩しさに目が慣れない。
目を閉じて、体内の魔力が巡る感覚に、身体は動かないが魔法は使えそうだと目を開けた。目の上の腕をなんとか動かして首に手を当てる。回復くらいは使えるだろうと魔法を発動しようとしたところで……目の前に小さな片手が現れた。
ラディウスの顔の前で、小さな手が空中の何かを握るように動く。
「っ……なん……?」
途端、逆流するように魔力が身体を巡った。
ぬるいお湯を全身に行き渡らせたような、全身に血液が巡ったような感覚に、ラディウスは首にあった自身の手をまじまじと見つめる。普通は魔力は放出するだけのもので戻ってくるなどありえないため、初めての現象に戸惑って眉を寄せる。
動きの通り、ニケが魔法円を握り潰した為に起きたものである。
そして、何が起きたのか戸惑うラディウスの視界いっぱいに……ーーー金色が飛び込んだ。
「いけません」
珍しい金色の髪と瞳に、凛とした声が響いた。
ただの子供の目がまるで人類の上位者かのように柔らかく細まり、動きの全てを制するような色を浮かべている。
何処か大人びた雰囲気を漂わせ、酷く上品に優しく微笑む少女に、大人か子供かと頭が混乱する。
何か神秘的な物を目の当たりにしているような気持ちに、ラディウスは動くはずの腕すら固めて目を見張った。
ニケの方は、ただふんわり笑いながら、閉じていた瞳は青だったのかと呑気に考えながら顔を覗き込んでいるだけだ。
「呪いを解いて魔力が安定していません、しばらく魔法は使ってはいけません」
言われた言葉に目を瞬かせ、いつの間にか力の入っていた全身に気付いて緩める。
「…………解い、た……」
呪いを解いた、とは。先ほどの感覚は一体。
魅入られる程に綺麗な金色から目を逸らして、眉間にしわを寄せる。もう一度ニケを見た時には、瞳がこちらへ向いていないことに不快感すら感じた。
身体の上、宙を眺めながら何かを納得するようにうんうん頷くニケに、ラディウスは静かに手を伸ばす。持ち上げた手を金の髪に掠めて揺らして、実体であることを確認した。どうやら生き物らしい、と失礼な結論を出してパタンと腕の力を抜く。
ニケはそれに首を小さく傾げただけで、特に気にすることなくまた魔法円を眺めた。
「おい……魔法、けほっ……」
「隠蔽の魔法でしたら、解けていますよ」
ラディウスは老人から二十代ほどの青年へ、髪は白髪から黒へ変わっている。しわがれた肌はもう何処にも見当たらない。
「とっても若返りましたね」
「こっちが素だ……そうじゃねぇ……」
呆れたような声が溜息と共に吐き出される。徐々に動くようになっていく身体をゆっくりと動かす様子に、ニケは回復薬の入った瓶を持ち上げた。頭ほどある大きな瓶から手に収まるほどの小瓶へと移し替えて、ラディウスの顔の前に差し出す。
「回復薬です。毒見しましょうか?」
「いや、いい」
即答だった。
ニケは微笑んだままだったが、目が不満だと訴える。ニケにとっては「偉い人の食事は毒見役がいる」と聞きかじったことを思い出して実践したいだけだが、ラディウスは毒見なんてものをやらせてはいけないと本能的に感じ取った。
差し出したクセに数秒間離そうとしない態度に、青い目をジトッと細めた。
「(…………まさか毒見がしたいのか)」
察した。
小瓶を離したあとも、変わらない笑みを浮かべたままの相手に……譲歩したのはラディウスだった。
「……手に力が入らねぇ」
たった一言だったが、目をパチリと瞬かせたニケが嬉しそうに笑みを深めるのを見る。「毒見は要らねぇ」と釘を刺せば、穏やかだが跳ねるような了承の返事が返ってきた。ニケはラディウスの手がまだ震えているのを見て、瓶ごと渡すのは止そうと判断する。瓶を持った相手の手を包むようにして支えた。
ニケはラディウスの頭側に回り、膝を差し入れるようにして頭を乗せた。傍から見たら少女のごっこ遊びに付き合っているようなもの。しかしラディウスが感じているのは、どこか畏れ多く、居心地の悪い気持ちだった。
小瓶を持つ手を支えられながら、口元へ運ぶ。
「近くにめぼしい薬草が無かったので、効果の弱いものしか作れませんでした」
その言葉に頭が痛むような錯覚を覚える。無理矢理動かしていた関節や筋肉含め、喉の苦しさも無くなった。至る所から苦痛の消えたこれが「効果の弱い」ものではないことは明白である。
回復薬は魔術師の領分である。
魔術師の不足している昨今、回復薬などの薬は先代の魔術師たちが残した魔法円で作られている紛い物ばかりだ。魔法文字を理解して使っている魔術師と違って、理解しないまま魔法円に魔力だけを流して使っている一般人では、完成品に雲泥の差が出る。
果汁三パーセントか原液か、葉っぱ一枚か大木か、石か金山かくらいの違いがある。
いつまでも膝に頭を乗せていることが気持ち的にも外聞にも良くないため、ラディウスは痛みのなくなった体をゆっくりと持ち上げる。その際に被っていた外套も脱げて、少々長めの黒髪を風が通り抜けて掻き上げた。
ガシガシと後頭部を掻いてから、振り返って微笑む金色と目を合わせる。
「……魔術師か」
パチリ、瞬いた目が変わらぬ微笑みで頷いた。
「はい」
ニケは返事をしてから、一度息を吐き出し、もう一度吸い込む。
「まじゅち……」
ニケは「魔術師」が言えない。
「まじゅつちです」
噛んだことを無かったことにするような満足気な微笑みに、ラディウスは半開きになった口をそっと閉めた。そうか、と返すだけで目を逸らす。そのまま顔をニケとは反対側に向けて、片手で顔を隠すように覆った。
「よく分かった」
魔術師を言えないことが、よく分かった。
城で魔法使いである自分を目の敵にして、どこからか違法である呪いの魔法円まで持ちだし、やっと自分を追い詰め追い出したというのに……こんな小さな子に、あっさりと解呪されてしまったと知ったらどう思うだろう。今頃は心の安寧を手に入れた城の中で堂々と歩き、自分の死を笑いながら過ごしているか、或いは魔法円の存在がバレて投獄か。
ラディウスにとっては、もうどうなろうと構わない存在である。元々、呪いの魔法円を持ってくるまで、小さな嫌がらせばかりで大して目にも気にも留めていなかった。呪いが解けた今、微かに生まれていた何かやり返そうという復讐心も無い。
希少な人類、呪いどころかいろいろなものまで断ち切ってくれた存在が、「魔術師」とも名乗り切れないほどの少女であることの方が……断然興味がある。
ニケは後ろを向いてしまった相手に首を傾げながらも、何やら楽しそうな空気を感じてそのまま眺めることにする。
……緩んだ口角を顔ごと隠して、ラディウスは何百年振りに笑っていた。