世界の本
宿の食堂で、四人掛けの円卓に隣合って座る。夕飯の時間になって部屋から出て来たかと思えば、ニケは大きな本を一冊開いてふらふらと読みながら歩いてきた。階段もラディウスが抱えて降りて来たし、柱にぶつかりそうになった時も身体ごとずらして回避していた。
食事が運ばれて来た時も生返事しか返さず、ついに本を奪い取り、無理矢理パンを口に突っ込んだところでニケの意識がやっと現実に戻った。
しかし、咀嚼はするものの明らかに食事に意識が向いていない。
「大丈夫なんですか? ニケさん。心ここにあらずって感じしますけど」
「続きが読みたくて仕方がねぇだけだろ」
ニケは宿主とラディウスに苦笑を浮かべる。手が届かない場所に置かれてしまった本を一瞥して、もそもそと食事を再開する。
控えめに言っても目立つ二人組に、食堂のキッチンから覗いていた宿主は、ニケが本を開いてあまりにも真剣になっているところを見ていた。ラディウスから本をとりあえられて心底残念そうな顔をするところも見た。更にニケの口にパンを突っ込んだことにも驚いた。なんだかんだ優しい人がニケに対して乱暴な行動をしたので、一瞬背筋が冷える。喧嘩でもしたのかとハラハラしながら見守ったが、その様子は無い。
しかし、ニケがその後も全く食事の手が進んでいないので、何かあったんじゃないかと、宿主は水差しを片手にキッチンから出て来た。
どこか具合が悪くて食欲がないなら宿主として気にしなければいけないし、上客である二人に何かあっては宿の存続から危ない。
たった一日で広まった「高位貴族様がハナミ亭に泊っている」という噂。昼間に買い出しに出た店主は、行く先々で知り合いの何人かが寄ってきては噂の真偽を聞きに来た。貴族ではないらしい、と逐一伝えていると、「貴族のような魔術師が旅人ギルド登録」だの「服飾工房に最高級素材でオーダーメイド」だの「廃工場の武器職人と大喧嘩」だの、知らない情報が街を駆け巡る。
目立つ人間というのは、噂の回り方も爆速だ。
そんな二人に何かあってしまっては、「ハナミ亭に泊っている貴族様が不調」と宿名付きで噂が回ってしまいそうである。噂とは面倒なもので、尾ひれ背びれが付いて、宿のせいではなくとも宿のせいになっていたりする。
せめて栄養のある食事と快適な寝床を提供して、健康には目を瞠っていたい。
しかしニケの切なそうな空気は、ただ「本を取り上げられた」というだけだった。
周りの騒ぎ方に当てられていたけどそう言えばこういうお客さんだった、と宿主は思い出す。好きなもの取り上げられたら誰でも悲しむ。
ただ普通に、二人にとっては自然に生きているだけである。
「終わり頃にデザートお持ちしますんで」
「ありがとうございます。今日も食事が美味しいです」
微笑むニケに感動しながら、宿主はキッチンへと戻っていく。
ニケはナイフとフォークを使いながら、ゆっくりと食べては……本へと視線をやった。
「……ラビさん、世界は丸いらしいですね」
「そうだな」
「世界の端はないそうです」
「そうだな」
ラディウスはニケの視線を辿って、同じように傍らに置いた本に目をやる。
表紙には、「天地外」と金字で書かれた分厚い本がある。黒地の背景に青い丸が一つ、真ん中に存在感を示して鎮座している。内容としては、この星の形と、大陸が幾つか書かれて、気候の話、民族の話、そしてこの世界の外側、宇宙と呼ばれている場所についての話が書かれている。
著者は魔法使い。魔術師の落とし物を用いて、空にある星や月を観測していた有名な人物だ。
「ラビさん」
「なんだ」
「世界の端は、ないんですって」
「そうだな」
ラディウスは笑いそうになる口にジャガイモを入れて誤魔化す。本に向いていたニケの視線はいつの間にかラディウスの方へ向いていて、その視線から逃れるように目を逸らした。が、ニケはもう一度ラディウスへと声を掛ける。
「世界の端はないんだそうですよ」
「っく、ふ……くく……っ」
耐えきれず噴き出したラディウスを、ニケは面白そうに見る。いつも呆れるか顔を顰めるかのどちらかしか見ていなかったので、俯いて声を堪えながら肩を震わせる姿はとても珍しい。
いつも人を寄せ付けない空気を纏っている分、笑うと一気に魅力的に映るらしく、周囲で食事をしている他の女性宿泊客もチラチラとラディウスを見ている。しかし一通り笑うと、息を深く吸って吐いて「疲れた」と顔が元に戻ってしまった。むしろ無表情が悪化した。
ファスト国でも三指に入る大型図書館で、ニケが一番に探したのが世界の形についての本だった。
ラディウスですら知らない「世界の端」がどうなっているのか、そもそも書かれた本があるのかないのか。浮足立つように本棚の間を行き来して、ニケは一冊の本を見つける。
天地外、という簡潔な題名にも惹かれて、さっそく手に取った。読むために用意された書立て付きの机も設置されていたが、そこへ行くまでも手間だと、ニケはその場で本を開いた。表紙の絵もよく見ていればすぐに気付けたかもしれないが、気持ちが高まっていたニケはすぐに本を開いて内容を眺めた。
そうして、五分。その辺の椅子に座って様子を見ていたラディウスは、本から動かなくなってしまったニケに首を傾げて、近付いて隣にしゃがむ。
隣の存在に気付いたニケは、驚いたように目を瞬かせて、一言。
『ラビさん……世界は丸いそうです』
本当に知らなかった、というポカンとした顔。
目が点になるというのはこれか。絵に描いたようなポカンとした顔がおかしくて、ラディウスは吹き出した。
耐えきれない様子で本棚を支えに掴み、口に手を当てて懸命に耐えている。くつくつと静かに笑い続ける姿に、ニケは珍しいことだと思いながら不貞腐れた。全てを悟って不貞腐れた。
確かに、「世界の端を知らない」とは言われたものの、「世界の端」の有無は聞いていなかった。意地悪をされました、騙されました、と言いながらページの文字を追うニケに、ラディウスは更に笑いが止まらなくなる。
しばらくしてから、深く呼吸を繰り返したラディウスは、前のめりに本棚へもたれかかるようにしながら……ニケへ苦情を投げる。
『疲れた』
口元はまだ笑ったまま、目尻に涙を溜めるほど本気で笑っていたらしい。見る人が見ればとんでもない色気にやられているであろうその姿は、今のニケにとっては恨めしいことこの上ない。
人の顔を見て疲れるほど笑うとは何事か。ニケは何か言おうと口をモゴモゴと動かすが、結局は何を言っても浮かれて言葉を深読みできなかった自分の失態であると黙った。
その後は機嫌を取るように抱き上げられ、本を読むための机に座らされる。紅茶だの菓子だのがそばに置かれ、ラディウスも適当な本を一冊持って近くの椅子に座った。これは騙した詫びか楽しませた感謝かと微笑んで首を傾げつつ、食べ物に罪は無いのでありがたく頂く。
その後一時間ほど読書に耽るが、ニケが時を止めたように本にのめり込んだので、キリがないと本を借りて宿に戻ることにした。
そして今、ニケは本の続きが読みたくて仕方ない。
「物語の本も早く読みたいです」
「あの家、ほぼ図鑑しかなかったからな」
植物、魔物、薬草、鉱物……。
旅の心得の本は、おそらくオーリアがいつかのために置いていたものだろう。それ以外では人種の本、魔術師に関してのあやふやな本が二冊ほど。あとは子育ての本が一冊あった。
ほとんどの本がニケを育てる為の知識と思われる。
最後の一冊に関してはページを引きちぎった跡があったので、おそらく魔術師という生き物に関してはなんの役にも立たないと腹を立てた跡だろう。ラディウスは内容を軽く眺めて、察した。
「手ぇ止まってんぞ」
「はい」
「食って風呂行ったら、寝るまで読んでいられるだろ」
「寝られないかもしれません」
「無理矢理寝ろ」
「わぁとっても強制的ですね」
腹がいっぱいで風呂まで済ませたら眠くなる……と思いたい。しかしラディウスは、ニケの集中力から寝ることも忘れて読み耽るのではないかと、半ば確信に近い予感がしている。
疑う視線を向けていると、ニケはにっこりと笑った。
「じゃあラビさんのお部屋にお邪魔します。真夜中になったら止めてください」
面倒くさい、と顔に書いたラディウスがニケを見るが、ニケは知らないフリでにっこり笑って食事に戻った。
断っても良い。ただなんとなく、断らなくても良いかと口を閉じた。別に手間では無い。
その代わり、ラディウスは自分の皿からニケの皿に香菜を寄せた。
「ラビさん……?」
「臭い」
「そうですか」
嫌い、ではなく、臭い。ラディウスも王宮にいた頃は弱味を見せる訳にはいかなかった為、顔色一つ変えずに食べていた。更に言えば、香菜によって匂いを誤魔化し、毒入りのスープを飲まされたこともある。
そういった理由もあって、ラディウスは香菜の食事は食べなくていいなら食べない。
匂いの強い香菜はニケもあまり得意では無い。得意では無いが食べられなくも無い。成長するにはなんでも食べた方がいい、と婆様も言われていた。
そしてこれは、ただ押し付けられているのではない。食べなければ寝る時間に知らせてくれないどころか、部屋にすら入れてくれないのだろう。
取り引きだと理解しているニケは、大人しく食べ始める。
「日付変わる頃には取り上げるか」
「もう一声お願いします」
「却下」
初めはお願いから始まったそれは、徐々に高度な外交交渉をしているような、無駄に隙の無い口論になる。気を抜けば足元を掬われる会話を繰り返し、今度こそ喧嘩かと思った宿主が止めに入ったところで引き分けとなった。
互いに譲らないのは、ここで引いたらこの先も同じことが起きると予想しているからだ。それならばここで決着をつけたかった。
結果的に引き分けとなったため、勝負は持ち越し。
そして夜中、案の定本を読み続けたいニケは、ラディウスと寝る寝ないの攻防戦となった。
ラディウスによって強制的にベッドへ身を投げられ、水魔法でベッドに縛り付けられる。しかし魔法ならニケの方が上で、縛り付けている水を緩やかに解除し、そのまま氷の壁に転換する。
壁の向こう側で勝ち誇ったように微笑むニケに、ラディウスは市販の短剣に風を纏わせ鋭さを上げて、その氷の壁を力技でスッパリと切った。
ラディウスはニケに飛び付くようにして、二人でベッドに倒れ込む。
初めは腕の中でもがいていたニケだが、「ニケ愛用枕」を寄せると次第に力が弱まり寝息に変わった。
家からわざわざ持ってきたものだから何かあるとは思っていたが、睡眠に関する加護が複数掛かっているらしい。「凶悪な……」とラディウスはため息混じりに呟きながら、暴れたせいでボサボサになったニケの髪を一応梳いてやる。寝ない方が悪いが、翌日変な癖が付いていては髪を結ぶ時に支障が出る。
自分の趣味の範囲に支障が出るのは避けたい。甲斐甲斐しく髪を流して、やり切ったラディウスは一息付く。
……が、そこでラディウスの意識も途切れた。
「わたしの枕は、頭に近付けると十秒で快適に眠りに落ちて、更に良い夢が見られます」
翌日、起き抜けに腕の中から言われたその情報に、心底苦い顔をしながら「危険物近づけんな」と枕を壁に投げた。そして二度寝した。




